第18話 大人?
1.
僕たちは理科室から出ると、階段を降り、渡り廊下を通ってB棟の五年二組の教室へ向かった。
教室のドアを開けると、黒須たちが僕たちの勢いに驚いたかのように体をビクリと震わせて顔を上げた。
僕は僅かに顔をしかめた。
外から入って来ると分かる。
瘴気のようにドス黒い空気が、教室の中にとぐろを巻くようにしてうずくまっていることが。
夕貴はそんなことに構う様子はなく、ライトの淡い光に照らされた教室の中を見回した。
教室の中央にはライトを中心にして黒須、シノ、璃奈が座り込んでおり、教室の片隅の薄暗い部分には僅かに人の影が確認できる。
ユカリだろうが、こちらは僕たちに反応しない。
夕貴は教室の中が何も変わらないことに意外そうな顔をしたが、すぐに三人に声をかけた。
「大人は?」
「大人?」
黒須が怪訝そうな声を上げ、璃奈とシノは顔を見合わせる。
夕貴は三人の様子に構う様子もなく、言葉を続けた。
「誰か来ただろう?」
僕と夕貴の興奮した様子を、黒須はどことなく胡散臭げに眺めた。
何かの罠ではないか、と疑うようにジロジロと僕たちを見ながら、黒須は用心深い口調で答えた。
「誰も来ねえよ。てめえら、何を言っているんだ?」
夕貴が言った。
「理科室の窓から、こっちの棟の2階の廊下を誰か、大人が歩いているのを見たんだ」
夕貴が同意を求めるように僕のほうを見た。
僕は頷いて付け加えた。
「僕も見たよ。この教室に向かっているみたいだった。だから、誰か来たんじゃないかと思って」
「本当に?」
璃奈が大声で叫んだ。
暗い影が取り払われ、顔が明るく輝く。
璃奈は僕にすがりつかんばかりの勢いで、立ち上がって体を寄せてきた。
「本当に見たの? 大人の人がいるのを? 誰? 誰かのお父さんとお母さん? それとも先生?」
「そこまではわからないけれど」
璃奈がまるで救世主か何かのように仰ぎ見て来るので、僕は嬉しくなり答えた。
「でも、いたのは確かだよ。もしかしたら、いま一階や二階を探しているのかも」
「俺たちのほうからも、探しに行ったほうがいいんじゃないかな?」
シノが勢いこんで言った。
「会えなかったら、やっぱり学校には誰もいないって思って探すのを諦めちゃうかもしれない」
「そうだな」
夕貴が考え深そうにうなずく。
「それに大人が入って来れた、ということは、今はどこか出入口が開いているはずだ。会えないにしても、出口をもう一度探してみてもいいかもしれない。たぶん、一階の反対側から入って来たと思うんだ」
僕たちはすっかり明るい気持ちになって、てんでバラバラに自分の考えや希望を述べ合った。
心なしか、教室の中も少し明るくなったように感じられた。
しかしそのうち、僕たちは何か目に見えないものに圧迫されたかのような息苦しさを感じて、徐々に言葉を紡ぐのを止めた。
不自然なほど黙りこくっている黒須に、最終的に全員の視線が集中した。
黒須はジロリと夕貴のことを睨んだ。
黒須は常になく無表情で、その様子は静かにさえ見えた。
「夕貴、人体模型はどうしたんだ?」
夕貴は何を言われたかよくわからない、というような顔で訝しげに黒須のことを見る。
不自然な沈黙の後、夕貴が答えた。
「模型は……なかったんだ」
「なかった?」
「戸棚が空だったんだ。開けっ放しになっていて。たぶん、先生か誰かが昼間、持ち出したんじゃないかな」
夕貴の答えを聞きながら、僕はふと、僕たちが見たあの廊下の人影、あの大人が人体模型を持ち出したんじゃないだろうか? と思った。
なぜ、そんなことを思いついたのかはわからない。
思いついた瞬間に、背筋に冷たいものが走って、僕は震えた。
そんなわけがない。
僕は自分自身に必死にそう言い聞かす。
だって、何だってそんな意味のないことをするのか? 大人が。
あの人は、僕らを探しに来た誰かだ。
そうに決まっている。
「なかった?」
黒須はゆっくりと繰り返した。
僕たちは再び黙って、夕貴を見つめる黒須と、僅かに顔を青ざめさせている夕貴の様子を見守る。
「夕貴、お前が言ったんだよな? 人体模型を代わりにするって。人体模型がカウマイだって」
「黒須」
夕貴は黒須の雰囲気に引っ張られるまいと抵抗するかのように、穏やかな声で黒須の名前を呼んだ。
だがその声は夕貴の内心の動揺を表すかのように、僅かに揺れていた。
「カウマイの話は、もういいだろう。大人が来るんだ。僕たちは助かる。ここから出られるんだよ」
黒須はジッと、小刻みに震える夕貴の端整な顔を眺めた。
僕は夕貴に助け船を出すことも出来ず、またシノや璃奈は黒須に追従することも出来ず、ただ黙って二人が対峙する様子を眺めていた。
これは重要な場面だ。
何がどう重要なのかはわからないが、それだけははっきりとわかった。それは僕だけではなく、夕貴も黒須も璃奈もシノも、その場にいる全員が分かっていた。
だから動いて、この場面に関与してしまうのが恐ろしい。
死のような静寂が、教室の中を覆いつくしていた。
一番最初に口を開いて沈黙を破ったのは黒須だった。
黒須はフンと鼻を鳴らし、少し緊張を解く。
「まあいい。お前らはここにいろ。俺が外に様子を見に行く。おい」
黒須はシノと僕に声をかけて、教室の片隅の黒々とした闇の方へ顎をしゃくった。
「あいつももう縛っておかなくていいだろう。解いておけ。大人が来る前にな。あとお前ら」
黒須は僕たちを睨みつけて言った。
「あいつの怪我について、余計なことを喋るな。喋ったらただじゃおかねえぞ」
黒須は恫喝するような言葉を僕たちに叩きつけると、唯一の灯りであるランタン型のライトを掴んだ。
そうして、暗闇に閉ざされた教室から外へ出て行った。
2.
黒須がライトを持って行ってしまったために、教室の中は月明かりが翳るとほぼ真っ暗になる。
僕たちは月明かりを頼りに何とか、ユカリを縛っていたビニール紐を解いた。
ユカリの顔は陰惨な暴力で醜く腫れあがっており、正視に耐えなかった。
黒須はユカリの状態について、大人に先に説明するために一人で出て行ったのだろう。
暗いから机の角にぶつかったとかなんとか、そんな風に説明しそうだ。
大人は子供同士の細かいもめ事を嫌う。
彼らは大抵の場合、僕たち子供がつく嘘が嘘であることに薄々気付いている。
しかし、嘘だと分からなかった自分たちが責められたり、間抜け扱いされるような露骨な嘘でない限りは、その嘘に乗っかってくる。
表向きは子供を信じているだの、子供がそんなことをするはずがないだのそういうことを言う。
しかし、本当は僕たちに真剣に関わるのが面倒臭いだけなのだ。
大人は子供と、自分たちが関わり合いたような方法だけで関わろうとする。
大人は子供に騙されるほど愚かなのではない。
自分で自分を騙すことを何も痛痒には感じないほど、不誠実になれるだけなのだ。
子供は成長する過程でそのことを学び、大人の不誠実さを身に着け大人になる。
黒須がユカリに暴力を振るったことも、僕たちが真剣になって訴えれば、大人の中でも一人二人は信じてくれる人がいるかもしれない。
だが「大人」という枠組み全体の不誠実と怠惰に飲まれて、恐らくうやむやになる。
「大人」の世界、というのは、僕たち子供にとってそういうものだ。本来はまったく関係のない世界なのだ。
カウマイが大人にとって何ほどの意味も持たないように。
シノはハサミでユカリを縛っているビニール紐を切りながら、精一杯気遣いを装った声で「悪かったな」「大丈夫か」「でもお前も悪いんだぞ」と囁いている。
ユカリの表情は長い髪に隠されていて、いつも以上によく分からなかった。
瞬く間にビニール紐を解いたが、ユカリは僕たちのほうへ寄って来ようとはしなかた。
教室の中でもまったく光が届かない、暗い片隅にそのままうずくまって、ついにひと言も声を出さなかった。
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