第17話 人影



 僕と夕貴はしばらく空になった戸棚の前に立たずんで、暗闇の中でガラス扉がキィキィと揺れる音を聞いていた。


 凍りついたかのように動かない夕貴の横顔を見つめながら、僕は小さく囁いた。


「誰か先生が持ち出したのかな? 修理に出されたとか」


 夕貴はガラス戸を見つめたまま呟いた。


「わからない」


 もう一度、今度は何かに抗議するかのようにもう少し強い声で言う。


「わからないよ」



 念のため、僕たちは理科室の中をひと通り見て回った。辺りにはところどころ闇がわだかまっていたため、体をあちこちにぶつけた。

だが、痛みは感じなかった。

 

 それくらい僕たちは必死だった。


 どれほど探しても、理科室の中には人体模型はなかった。


「きっと誰か先生が、教室で使うために持っていったんだよ」

「どの先生が? どの教室に?」


 僕の言葉に夕貴が鋭い声で答えた。

 僕は言葉に詰まる。


「それは……わからないけどさ」


 夕貴は、普段の落ち着きが嘘のように、苛立った眼差しで僕を見つめる。


「それで? その先生が教室にあのデカい人体模型を置きっぱなしにしているか、戻すことを忘れたかした、と君は思っているのか? 君はそんな風に思っているの?」


 夕貴が僕を見つめる目は異様に鋭かった。闇の中でもそれがはっきりとわかるくらい、底光りして見えた。


 僕は弱々しい声で答えた。


「わからないよ」

「そうだろうね」


 夕貴は見たこともない土地で育つ、初めて見る生物でも見るような顔つきで僕を眺めた。

 その顔には先ほどまでの僕を追い詰めるような鋭さはなかったが、代わりにどこか嫌悪がこもっていた。


「君は何も考えていないんだもの。わかりっこないよ」


 何も答えられず目を伏せた僕から、夕貴が不意に視線をそらした。

 


 顔を上げると、月明かりを仄かに浴びた夕貴の顔に驚愕が広がっていくのがわかる。


「どうしたんだよ?」


 僕の問いに、夕貴は呟くように答えた。


「……今、向こうの廊下に灯りが……」

「え?」


 夕貴は真っすぐに理科室の窓の外、中庭を挟んだ反対側に見える、B棟の廊下を見ていた。

 夕貴は慌てたように、窓のほうへ駆け寄る。


「向こうの廊下に灯りが動くのが見えたんだ」

「黒須たちじゃないのか?」


 僕は夕貴の横に並びながら、廊下のほうへ目をこらした。

 夕貴は首を振る。


「違う、教室にあったライトの光じゃなかった。それに持っていた人は、子供には見えなかった。……ほら!」


 僕は夕貴の声に従い、指さされた方向へ目を向けた。

 


 確かにその方向には、小さな白色の光が浮かび上がっていた。廊下で動いている影は夕貴が言う通り、子供には見えなかった。

 その光を持った人物は、2階の廊下を歩いており、すぐに僕たちからは死角に入って見えなくなる。歩いている方角を見ると、僕たちが閉じ込められている五年二組の教室へ向かっているようだった。


 僕と夕貴は顔を見合わせた。

 

 夕貴の顔からは先ほど僕に向けられた嫌悪は綺麗に拭い去られていて、代わりに安堵と喜びが広がっていた。


「誰か大人が様子を見に来てくれたんだよ、きっと。僕たちが帰ってこないのを心配して」

「そうだね、きっとそうだ」


 僕たちは「そうだそうだ」と言い合い、急いで理科室から外へ出た。





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