15-7

「そろそろ行かなきゃやばいね」

 水村が踊り場から身を乗り出し時計を確認する。今からクラス全体をだましに行くことになる。吐き気がした。どっちが先に行こうか、とじゃんけんをする。水村が負けて、じゃあ先に行くね、と立ち上がり尻をはたく。

「坂平くん、がんばろうね」

 そう笑う水村の頰は昨日とは違って引きつっていて、当たり前だけど、ああやっぱり水村も不安なんだなと思った。それでもどうにか笑って俺を励ましてくれている。俺が何も言えないままでいると、そのまま階段を下りていく。自分のつらそうな顔を見るのは、辛い。もちろんそれは水村だって同じだ。

 そのとき、俺は誓ったのだ。いつ水村が水村の人生を取り戻してもいいように。水村が辛い思いをしなくていいように。そのために俺は水村として完璧に生きて、家族もクラスメイトも恋人も騙してみせるのだと。


 教室に入るや否や、早速笹垣と高見が駆け寄ってきた。思わずきびすを返して逃げ出したくなるのをこらえる。

「みっちゃん! もう体調だいじょうぶなの?」笹垣が耳障りな声でわめく。

「ぜんぜんメール返事してくんないんだもんー。メールできないくらい大変なのかと思っちゃったよー」高見が妙に鼻にかかった声で腕を絡めてくる。

「うん、もう大丈夫」

 口の中がからからで舌が貼り付く。何だか変な声が出た気がした。それでも妙に感じている様子はなくて、少しほっとしながら続ける。

「ずっと寝てたからメール返せなくて、ごめんね」

 何かもっと気の利いたことを、と思ってもうまく言葉が浮かばない。普段はもっとじようぜつなのだろう、元気出してよーと背中を叩かれてあいまいに笑うことしかできない。もっと水村らしくと思っても普段の水村を知らない。俺の知っている水村は、俺の顔で笑い俺の顔で励ます水村だけだ。

 ちらりと水村の方を見やる。田崎や飯田達と談笑する姿は、自然に溶け込んでいるように見える。俺ももっとうまく振る舞わねば。そう思えば思うほど空回りする。

「てか絶対おとといの坂平のせいだよなー」

 笹垣の口から急に名前が出てきてどきりとする。

「あーあれねー。マジないよね、落ちるなら一人で落ちろよーって感じー」

「てかプール落ちるとか超どんくさすぎ」

 自分の悪口を目の前で聞きながら必死で笑顔を作る。早くチャイム鳴れ。早く先生来てくれ。頭の中でひたすらそればかり願っていた。チャイムが鳴って担任が入ってきたとき、心底ほっとした。水村に聞いた席を思い出しながら座る。なんだかどっと疲れてしまって、肩辺りにひどい倦怠感がのしかかっていた。

 とにかくそこからは散々だった。休み時間の度に話しかけてくる笹垣と高見の相手がうまいことできない。抜き打ちの数学のテストがさっぱり分からなくてほとんど白紙で出した。一方水村は体育のリフティングの試験で三回以上続けることができず、坂平ふざけるなと先生に頭をはたかれすいませんと笑っていた。俺の方が恥ずかしくて居たたまれなかった。

 部活に関しては意外とどうにかなった。というのも元々運動神経には自信があったし、それに一学期は体力作りと素振りという基礎的なことしかやらせなかったので、難なくこなすことができた。

 問題は顧問のいそだった。二十代半ばでうちの学校の教師陣の中では一番若く、女子生徒にもイケメンだと人気があるようだったが、俺としてはあまりいい印象は抱かなかった。蛙のように離れた両目からのねっとりとした視線も気持ち悪かったし、長く伸ばした前髪をかき上げる仕草もナルシストじみていてむしが走った。

 何より指導の仕方が異常な気がした。ラケットの握り方や素振りを指導するとき、体に異様に触ってくるのだ。はんそでから出た腕をめ回すように撫で、しつように腰辺りを触ってくる。その度にぞわぞわとおぞが走った。俺の考え過ぎかもしれないとも思ったが、下卑た笑みで胸や脚を眺めるのを見てわざとだと確信した。どうやらお気に入りの生徒が何人かいるようで、そいつらに対してだけやたらべたべたと指導と称して触っているようだった。水村もその内の一人なのだろう。初めて経験した俺にすら分かるのだから、磯矢のセクハラ行為は部内の周知の事実なのだろうが、誰一人として声を上げようとする女子はいないようだった。ありえねえ、と思った。同時に、女でいるというのはやはり大変なんだな、とも思った。

 どうにか長い一日を終え、足早に校舎を出るとそのまま異邦人へ向かう。水村はもう既に席に着いていて、俺に気付くとひらひらと胸の前で小さく手を振った。

「もう部活終わったの? 早くね?」

「さぼっちゃった。ごめんね」

 まあいいけど、とわざとらしく舌を出す水村の向かいに座る。水を持ってきたおばちゃんにアイスコーヒーを頼む。

「あー疲れたー」

 水村の姿を見た途端一気に気が緩む。両手を伸ばしてテーブルに突っ伏した。お疲れ様、と頭上から声が降ってくる。顔を腕に埋めたまま、水村もお疲れ、と返す。

「てかなんなの、笹垣と高見。俺の悪口ばっかだったんだけど」

 半身を起こしちょっと文句を言ってみる。水村は困ったように眉毛を八の字にしてごめんねと謝ってくる。

「いや別に水村が謝んなくても。あー俺なんかうまく喋れなかった気がする。あいつら変に思ってないかなあ」

「たぶんだいじょうぶだよ。私のほうこそ、なんかすごい緊張しちゃった」

「そう? なんかめっちゃ普通に喋ってるように見えたけど」

「なんていうか、みんなノリでしゃべってる感じしたから、とりあえずノリ合わせときゃなんとかなるかなあって」

「あーお前馬鹿にしてんだろー」

「してない、してない」

 それから授業の話になる。とりあえず俺は勉強を頑張ることを水村に約束させられた。わからないところは教えてあげるから、と励まされてしまう。反対に俺は水村に運動をもっと頑張れよと突きつける。さすがにあのリフティング能力で部活に参加されるのはまずい。

「そういえばさ、なんなのあいつ。磯矢」

 コーヒーをストローでかき混ぜる。からからと氷が軽やかな音を出しながらぶつかり合う。

「あー、磯矢先生ね。あれはねーしかたないんだよ」

「仕方ないってなんだよ、あんなん普通にセクハラじゃん。なんで誰も言わねえの?」

「言えないよお。言えるわけないじゃん」

「わっかんねえなあ。俺だったらぶん殴ってやるのに」

「ぶん殴るかあ。それ、できたらめっちゃ気持ちよさそう」

 そう言って水村が不格好な構えで右手でジャブを打つふりをする。やったれやったれ、とあおってみる。

 そんな調子で互いの一日の報告を終える。そして、これから毎日放課後に会って報告をしあうことを決めた。その度に異邦人というのも財布的になかなか厳しいものがあるので、今朝話していた屋上のドア前の踊り場に集合することになった。

 毎日。話していてその単語を口にするときだけ喉に詰まる。いつまでこの状況が続くのだろうか。何度も何度も浮かんでくる誰も答えを知らない疑問をかき消す。また感情的に水村を詰問したところで困った顔をさせてしまうだけだ。それに、それを口にしてしまうと、なんだか本当に二度と戻れなくなってしまう気がして、俺は叫びたくなる気持ちをアイスコーヒーと一緒に飲み込んで笑った。水村も笑ってくれていた。とりあえずは、それで全てオッケーだと思った。

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