15-6

 あの朝ほど絶望を感じた時はない。目を覚まして真っ先に目に入ってきたのは、ピンク色のカーテンだった。まどろみのぼんやりとした視界の中にその色が映し出された瞬間、脳味噌が一気に覚醒した。ベッドから飛び起きて、足をもつれさせながら鏡の前に立つ。

 水村まなみだった。水村まなみが、ぼうぜん自失で自らを眺めている姿がそこに映っていた。

 息がしづらい。鼓動の音が耳元で鳴ってうるさい。しびれる指先で携帯電話をつかみ、坂平家の電話番号を打つ。苛々と右足を揺すりながらコール音を数えていると、三コールめが鳴り終わると同時に「はい、坂平です」と男の声が聞こえた。

「おいふざけんなよ、全然元に戻ってねえじゃんか」

 電話の向こうで息をむ気配がする。ややあって、「落ち着いて、坂平くん」となだめる声色で細く聞こえてくる。

「ありえないでしょ。お前一晩寝たら戻るって言ってたじゃんか。ふざけんなよ。噓じゃねえか。全然戻ってねえじゃねえか。返せよ。俺の体返せよ!」

 とにかく頭の中がごちゃごちゃだった。ごちゃごちゃで真っ暗で無性にむかついて、どうしていいか分からずにとにかく叫んでいた。もしかしたら泣いていたのかもしれない。自分がどんな感情を抱いているのかも分からなくて、もう全部めちゃくちゃにしてしまいたいという強烈な破壊衝動だけを感じていたのは覚えている。

「坂平くん、とりあえず会って話そ。さすがに今日は休めないから、学校で会おう。大通りまで出れば、高校前までのバス出てるから」

 分かった、と返事をしたかどうかも覚えていない。我が家から学校までの道のりを伝えたかどうかも。ひどいけんたい感を覚えたまま電話を切ると、ベッドに放り投げてブランケットに顔をうずめた。先程までの様々なものが入り混じって爆発しそうな感情とはうって変わって、空っぽで真っ白な虚脱感のみが体の中にあった。

 学校で会おう、と水村は言った。でもこんなになってまで行く必要はあるんだろうか? どう考えたって勉強なんてしている状況じゃない。何より気持ちが日常についていかない。学校へ行くつもりの水村に対して頭がおかしいとすら思った。できれば布団の中で丸まって、悪夢が終わるのをじっと静かに待っていたかった。

 それでもなんとか学校へ向かう準備をし始めたのは、まだ日常から逸脱したくない気持ちがあったからだろう。水村に教えてもらった通りに付けていたナプキンは赤くべっとりと汚れていた。何かを焦がしたような臭いがする。トイレに向かい汚れたそれをごみ箱に捨て、棚にあった新しいナプキンを取り出し下着に付ける。その一連の行為にすら、俺は一体何をしているんだろうとむなしくなる。トイレを出ると、制服に着替え、空っぽの鞄にベッドに放り投げたままだった携帯電話を入れて、寝癖をぐしで整えて階段を下りる。

「どうした、今日は早いじゃないか」

 キッチンに座っていた水村の父親が、新聞から顔を上げてずれていた眼鏡を直す。四角い顔のいかついふうぼうをした父親だ。とはいえ見た目ほど厳格ではなさそうで、ただ基本的に無口で、昨夜もテレビを見ながら話しかける母親に言葉少なに相槌を返す姿の記憶しかない。

「ちょっと早く出なきゃいけなくて」

「ええやだ、朝ご飯まだお父さんのぶんしか用意してないわよ。それよりあんた顔は洗ったの? 歯は? みがいた?」

「遅れそうだから朝ご飯はいい。今から洗う」

 母親を軽くあしらい、リビングを出る。洗面台に向かい、コップに水を注ぎ口をゆすぐ。そのまま冷水で顔を洗う。タオルで拭いて顔を上げる。水村まなみだ。きっと何度顔を洗ったって、悪夢は覚めないままだろう。

「あんた、体調はだいじょうぶなのね?」

 水村の母親がリビングから顔を出す。大丈夫、行ってきますとなるべく顔を見ないようにして答えると、ローファーのかかとを潰して外に出る。

 吐きそうなくらいの晴天だった。暑さは日に日に強くなっている。じりじりと照り付ける陽光に、ぐらりと目眩がした。尻尾を振ってぐるぐると庭先で回っている飼い犬を無視して、バス停へ歩き始める。またじわりと股間から何かが滴る感触があってうんざりする。クソだ。なかなかバスは来ない。全部クソだ。やっと来たバスは冷房が効きすぎていて一気に体が冷えていく。みんなみんなクソ食らえだ。

 それでも校門の前に立つ学ラン姿の自分の姿を見た時、安堵してしまった。額の汗をハンカチで必死にぬぐうそのしようすいしきった顔を見て、思わず笑ってしまう。

「夏服で学ラン着てる奴初めて見た」

 その声に顔を上げると、苦い笑みを浮かべて「やっぱり着ないもんなんだ、これ」と上着を脱ぐ。

「にしても坂平くんってもしかして汗っかき? さっきから汗止まんないよー」

「そうかもしんない。スカートって結構涼しくていいな、これ」

「戻ってもスカート穿きたくなっちゃうんじゃない?」

「それはないわ、さすがに」

 軽口を叩きあっているうち、胃のの奥に沈殿していた黒々した何かがいつの間にか消えていることに気が付く。

 朝早いせいか登校してくる生徒達もまばらだ。きっと朝練で早めに来ている連中なのだろう、大抵が馬鹿でかい部活バッグを肩にかけている。幸い見知った顔はなく、俺達は連れ立って校舎に入る。自分達の教室をスルーして、人目のないところをと探し、屋上に続く階段の踊り場に腰を下ろした。屋上は基本的に施錠されていて立ち入りは禁止されており、わざわざここに来る生徒もいないだろうと考えたのだ。誰かの目を盗んで異性と密談をする背徳感に妙な快感を覚えそうになったが、文字通り立場が逆転しているという今の事実に一気に現実に引き戻される。

「とりあえず、どうにかやり過ごさなきゃね」

 どうにか汗も引いた様子の水村が、作ったような神妙な面持ちで低く言う。

「坂平くんって、いちばん仲いいのだれ?」

「えー? まあ仲良いってか、一番よくつるんでるのは田崎かな。あとはいいとか、その辺」

「そっか。私は笹垣さんと高見さんと遊ぶことが多いかな。笹垣さんのことは下の名前がさくらだからさくちゃん、高見さんのことはたかみーって呼んでるよ。ちなみに私はみっちゃんって呼ばれてる」

「あー。つまり、そいつらの対応に気を付けろってことね」

「そういうことー」

 それからできうる限りの情報を交換したが、はっきり言って家庭内で誤魔化すのとはわけが違う、と思った。とにかく俺と水村は何から何まで違う。水村が親しくしている奴らとは俺は一度も喋ったことがないし、逆もしかりだ。成績だって違う。俺の成績は下から数えた方が早いが、水村はそれなりの点数をいつも取っているらしい。体育の成績だけは正反対だった。水村はソフトテニス部で、俺はサッカー部。もちろん部活は今日も普通にある。今日は病み上がりだからと言って休めてもその場しのぎにしかならない。

 今日さえ乗り越えられればきっと、とはもはや二人とも口にはしなかった。いつ元通りになるかなんて分からない。でもきっとその時が来ると信じて、お互いをかんぺきに演じ続けるしかない。俺は水村まなみを失敗してはいけないし、水村は坂平陸を失敗してはならない。その為に俺達は必死で情報交換をした。

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