15-4

 あらゆることを試したが、俺達は元に戻らなかった。

 思いつく限りのことは試した。まず、水泳部の活動が終わった後こっそりプールに忍び込んで、いっせーのせで落ちた。駄目だった。頭をぶつけ合ってみたり階段を転げ落ちてみたりもした。全部駄目だった。

 したたかに打ち付けた肩の痛みに耐えながら、俺達は先程転げ落ちたばかりの神社の階段に腰を掛け、ぽつりぽつりと話し始める。

「とりあえずさ、一日待ってみようよ」

「うん」

「朝起きたらさ、戻ってるかもしれないでしょ? 入れ替わったのだって、プールに落ちたときじゃなくて、その翌朝だったんだし」

「うん」

「だからさ、そんなへこむことないよ。ポジティブに考えてこうよー」

 水村がガッツポーズをしてにこにこと笑う。それを見て思わず大きな溜息をつく。能天気な女だ。

「とりあえず、少なくとも今日の夜までは私は坂平くんのふりしなきゃいけないし、坂平くんは私のふりしなくちゃいけないから。情報交換しておこうよ」

「情報交換?」

「そう。家族にばれないようにしたほうがいいでしょ、こういうのは」

「まあ、言ってもどうせ信じないだろうけどな」

「頭おかしいと思われちゃうからね。夜までは穏便に過ごそう」

 とりあえず家族構成から、と互いに伝え合う。水村は母親と父親との三人暮らし、ペロという名前の犬が一匹。俺は父と母、そしてろくという二歳下の弟がいる。

「ちなみに、お父さんとお母さんのことはなんて呼んでるの?」

 訊かれて、思わず言葉を詰まらせる。そんなこと訊いてどうすんだよ、と必要以上に鋭い声を出してしまう。

「いやだって、呼び方とかでばれちゃうしさ。ちなみに私は普通にお母さん、お父さんって呼んでるよ」

 最悪だ。むかつく。水村の言うことが至極全うなのも余計腹立たしい。くそ。なんでこんな女の言うこと聞かなきゃなんないんだ。腹立つ。むかつく。

「ママとパパだよ」

 できるだけ自然に言わなくては。羞恥が伝わってしまう。そう思ってものどの奥ですり潰されたような声が出て、耳から首筋にかけてかあっと熱が走った。

 水村の目が見られなくて、スニーカーの爪先を睨みつけた。綺麗に手入れされているのか、それとも買ったばかりなのか、雪のように真っ白だ。けれどさっきのドタバタで、点々と泥汚れがついてしまっている。

「そっかー了解。弟くんのことはなんて呼んでるの?」

 事もなげにそう言ってくれるのは水村の優しさなのだろう。他人の機微に無関心だった当時の俺にもそれくらいは分かっていたが、でもその心遣いが一層惨めな気持ちにさせたことも間違いではなかった。禄だよ、と答える声が自然ととげとげしくなってしまう。それでも水村は表情一つ変えず話し掛けてくる。

「坂平くんの家族って、どういう人たちなの?」

「どういう人達、って言われてもな……」

「だってやっぱり、どういう感じなのかっていうの知っとかないとやりづらくない?」

「まあ、それはそうだけど」

 頭をぽりぽりとく。自分の家族を評するという行為はなんとなく気恥ずかしく感じられた。そもそも、自分の親や家族をどういう人間かなんて目で見たことがない気もする。

「母親は、なんつーか、厳しい。めっちゃ怒る」

「そうなんだ。怖い感じなんだ?」

「昔はそんなことなかった気がするんだけど、最近なんか、めっちゃ怒る」

 その頃の母は、常に何かにき立てられているような、苛立っているような感じがしていた。昔はとても優しく穏やかな母だった。母との思い出でよみがえるのは、いつも自分や禄が幼い頃の場面ばかりだ。一緒によく遊んでくれていたし、買い物にだって毎回連れて行ってくれた。

「お父さんは? どんな人?」

「幽霊みたいな人」

「えー、何それ。お父さんも怖いってこと?」

「違くて。存在感がない」

「影が薄いんだ」

「まあ、そんな感じ」

 そもそも、父親と顔を合わせる機会が少ない。父がどんな仕事をしているのかはよく知らないが、大抵遅くまで帰ってこない。工場で働いていて、どうやら随分と忙しくしているらしい。知っているのはそれくらいだ。休日にはぼんやりとテレビを見ていたり新聞を読んでいたり、とにかく覇気がない。いつの間にかいなくなったと思ったらふらりと散歩に出ていて、そしていつの間にか戻ってきている。そんな人だった。

「弟くん、禄くんは? どんな子なの?」

「あいつは、馬鹿。ほんとめっちゃ馬鹿」

「めっちゃばかなんだ」

 水村が笑う。弟とは仲が良い。喧嘩もよくするが、俺に懐いてくれている。十三歳にしては少し幼い顔立ちと性格をしている。

 ちょっと前までは、俺たち家族はもっと仲が良かった気がする。家族旅行も年に一度は必ず行っていた。父がリストラされ、新しい職に就き、そして今の家に引っ越してから旅行は行かなくなった。母もパートを始め、家族としての時間がだんだんと消えていった。その頃中学生だった俺はそんなことは気にも留めず、むしろうつとうしい恒例行事の旅行がなくなったと喜んですらいたが、その辺りから、母は険しい顔をよくしていた気がする。

 今も険悪というわけではないが、どことなく空気が張り詰めている。父のいない食卓で、母は小言を繰り返す。ひじついて食べるのやめなさい。はしの持ち方汚いわよ。ごちそうさまくらい言えないの。食べ終わった食器はシンクに持って行ってって言ってるでしょ。俺と禄はその後、自室でクソババアと小声で言い合ってくすくすと笑う。そんな日々だ。

「お前んとこはどんな感じなんだよ」

「うち? うちはね、お母さんは普段は優しいけど、怒るとめっちゃ怖い」

「あー。なんかそれ、分かるかも」

「ほんと? 分かる? お父さんは普段は結構無口なんだけど、お酒飲むとすっごいおしゃべりになる」

「へー、家でお酒とか飲むんだ」

「飲む飲む。お父さんは毎晩飲んでるよ。お母さんもたまーに付き合ったりしてる」

 水村の家族の話を聞きながら、俺は胸の奥がざわつくのを感じていた。その当時はその理由を知ることができなくて、訳の分からぬまま苛立ちになりそうなのを抑えていたが、今考えればきっとあれは嫉妬心だったのだろう。穏やかで柔らかな家庭で育ち、一人娘として愛情を一身に受けている水村への。実際それは間違いではなかった。入れ替わってからの十五年間、俺は二人から充分過ぎるほどの愛情を受け取ってきた。

 その他にも好物や食べられないもの、家の間取り、の順番や自分の洋服のしまってある場所など、思いつく限りのことを互いに述べていく。意外と口にしてみると家ならではのルールというのが結構あるようだった。一番に帰った人は必ず窓を開けて換気すること。帰ったら手洗いうがいの他に洟もかむこと。トイレの大は拭く前に一回流すこと。色んな決め事があるんだな、と思った。うちの家族は朝に毎日絶対ヤクルトを一本飲む、と言うと、健康的なんだねえと妙な感心をされた。

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