15-3

 プール? その単語を反復してみて、ようやく思い出す。いくらこの状況に困惑しているからとはいえ、どうして気付かなかったのだろう。

 昨日の水泳の授業のときだ。プールに入る前、生徒たちはプールサイドに並び教師の話を聞いていた。見学の為制服姿のままだった水村もそこに並んでいた。見学者でも、最初はそこで話を聞くルールだった。

 教師がその日の授業内容をつらつらと話す中で、俺は隣にいたざきとふざけ合っていた。田崎が、冗談で俺の肩を小突く。それほど強くない力だったが、バランスを崩し、プールの中へと体が傾いた。

 そのすぐ隣には水村がいた。俺がとつに水村の腕をつかんだのか、それとも水村が俺を助けようとして腕を摑んでくれたのか、一瞬のことでよく覚えていない。ともかくも、俺たちはそのまま、二人でもつれ合うようにしてプールに落ちた。

 何やってんだよお前と男子からは笑いが起こり、女子は大丈夫? と水村を心配する声を上げていた。お前らちゃんとやれと先生からは叱られてしまった。俺たちは軽口すらたたくことなくそれぞれプールから上がる。ただただ恥をかいただけの出来事だ。

 たったそれだけ? たったそれだけのことでこんなことが起きているというのか。けれど確かに水村の言う通り、今までろくにしやべったことのない俺たちにとって、関わりがあった瞬間はそのときくらいしかない。

 とりあえずさ、と水村が何か言いかけて、口をつぐむ。おばちゃんがアイスコーヒーを持ってきた。不愛想にシロップとミルクを置くと、何も言わずカウンターへ戻る。このおばちゃんは客に無関心で、昼過ぎから喫茶店にいる学生に対して詰問したりはしないだろうから、水村のこの店のチョイスは正しかったと思う。

「とりあえずさ」もう一度水村が口を開く。「もとに戻る方法、探さなくちゃね」

 そうだ。それが最優先事項だ。しかし、何をすればいいのかすら分からない。

「探さなくっちゃね、って言ったってさあ、具体的な原因だって分かんないのにどうするってんだよ。まずこの今の状態がありえないわけでさあ」

「私もどうやったら戻るかわからないけどさ。とりあえずいろいろやってみようよ。昨日みたいに、いっしょにプールに飛び込んでみるとかさ」

 諭すような水村の物言いに更にいらちが募る。

「随分冷静沈着じゃんよ。何? もしかして入れ替わるの慣れてるとか?」

「いやまさか。私だってはじめてだよ、こんなこと。でも坂平くんすっごいあわててるから、こっちのほうはなんか妙に冷静になっちゃって」

「はあ?」

 かちんときてにらみつける。そこには間の抜けた顔で俺を見ている俺がいる。いくら凄んでみせても、結局その姿は背の低い女子が頑張って目を吊り上げている様子でしかなくて、そう思うと急に馬鹿馬鹿しくなって長めに息を吐く。この時のことは今でも水村にされる。坂平くん、自分では気づいてなかったかもだけど、超パニック状態で挙動不審だったよ。

「じゃあとりあえず、水着に着替えて学校に集合するか」

「そうだね。いろいろ試してみようよ」

 水着。その単語に思わずよこしまな想像をしてしまう。さっきはそれどころじゃなかったが、いざ改めて自分の体が異性のそれになっているという事実を認識して、急激にむずがゆさが全身を走った。

 しかし、それは水村だって同じことだ。俺は内心の動揺を悟られないように、不機嫌を装って尋ねる。

「お前、俺の裸見てないだろうな」

 一瞬きょとんとした顔を見せた後、どういう表情を作ったらいいか考えあぐねているような、不格好な笑顔を見せる。

「ごめん。着替えたりしたから」

「ああいや、それはもちろんいいんだけど。こう、パンツ脱いだりとか」

「ごめん、トイレ行きたかったから……」

 その言葉に一気に顔が熱くなる。うわあまじかよお、と小さく叫んで手のひらで顔を覆った。まだ家族以外の異性には誰にも見せたことがないのに。こんな形で見られることになるなんて。屈辱にも似たしゆうで顔を上げられない。

「あ、でも、そんなしっかりとは見てないから安心して」

 慌てたその声に、伏せた視線をゆっくりと戻す。困った笑みを浮かべる水村を見て、なんだか急に自分が子供じみている気がして居住まいを正す。

「ごめん。それは俺だけじゃなくて、水村もだよな。俺も、できるだけ見ないようにしたから」

「あ、ううんそれはぜんぜんいいよ、しかたないもん。でも、だいじょうぶだった?」

「大丈夫って、何が?」

「いや、ほら。私、昨日から生理だったから」

 言われて、白い便器の上で波状に滴った赤黒い色と、腹の奥から得体の知れない何かがずるりと滑り落ちる感覚を思い出してしまう。急に下着の奥に不快さを感じる。どうにか平静を装って、大丈夫だよ、と答える。

「女子も色々大変なんだな」

「まあね。でも、男子もいろいろ大変そう」

 そう言って水村が俺の顔ではにかむ。

 今思えば、あの時の俺は幼稚だったなと思う。そして、水村は大人だった。同じ状況に立たされているはずの彼女の冷静さに俺は救われていた。今はもう水村はその過去を笑い話にしかしないけれど、入れ替わってしまったことを知った時の恐怖と不安は俺とは比べ物にならなかったはずだ。女である自分の中に入り込んだ男のすることとは何か。女の体で十五年間生きてきてようやく思い知ったが、その想像だけで気が狂いそうになる。

 それでも水村はそれを隠して笑っていた。想像力の乏しい俺がそれに気付くのはもっとずっと後になってだった。

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