15-2

「もしもし」

 反射的にそう口にしてから、相手が誰か確かめることすらせず電話に出てしまったことに気が付いた。違和感を気取られてはまずい、と思わず身を硬くする。しかし、相手は何も言ってこない。恐る恐るもう一度「もしもし?」と声をかける。

「もしもし」

 今にも消え入りそうな男の声が聞こえてくる。そう言ったきり言葉を発する気配がない。

「あの、水村ですけど」

 無音になるのが怖くて、声をかける。相手が小さく、ああ、とつぶやくのが聞こえた。

「あの。私、たぶん坂平です」

 さっきよりもか細い声だったが、その言葉でようやく可能性の一つが確信に変わる。

「お前、水村だろ」

 電話の向こうから、大きく息を吸う声が聞こえた。

「坂平くん?」

 その言葉を聞いて、俺はその日初めてあんした。理由はどうあれ、今俺たちが置かれている状況をようやく知ることができたのだ。

「うわあまじか、まじでそういうやつか。そういうのってまじであるのか」

 状況を知ると同時に新たな困惑が襲ってくる。携帯電話を片手にベッドの上でのたうち回っていると、「ねえ。ねえ、坂平くん」と声をかけられた。

「とりあえず、会って話さない? 家出てこられる?」

「あ、確かに、それがいいな。お前の母さんいるけど、まあ、どうにかして家出る」

 じゃあ、三十分後に異邦人で、と約束して、大通りまで出る行き方を互いに教える。そこまで行けばきっと分かるだろう、と確認し合って電話を切った。

 とりあえず着替えなければ、と思いクローゼットを開けるが、見事に何を着ていいのか分からない。適当にシャツを選び、きちんと畳まれたスカートたちの奥から半ズボンを引っ張り出す。服を脱ぐときに一瞬ちゆうちよしたが、まあ今更かと思い直し、着替えて階段を下りる。

「ちょっと出かけてくる」

 テレビを見ていた水村の母親に声をかける。こちらを振り向く気配がしたが、顔を合わせないようにして玄関へ急ぐ。

「え、なにあんた、もう具合だいじょうぶなの?」

「大丈夫。行ってきます!」

 水村に教えてもらった通り、靴箱の上にある白い小箱から自転車のかぎを取り出し、並べてあったスニーカーを履き、ドアを開ける。途端にわん、と犬のえる声がして段差を下りようとしていた足が思わず止まる。真っ白い大きな犬が庭先から顔を出していた。

 あいつ犬飼ってんのか。鋭い動物のきゆうかくとやらで、もしかしたら俺が本当の水村でないことに気付かれるかもしれない、と一瞬身構えたが、当のそいつは間の抜けた顔で舌を出し尻尾を振っているだけで、思わず頰が緩んだ。頭をわしゃわしゃと撫で、車庫にしまってあった自転車にまたがる。

 異邦人に向かいながら、女というだけでこんなにも勝手が違うものか、と思っていた。まず自転車をぐ足に力が入りづらい。坂道がかなりしんどい。いつもしている立ち漕ぎも長い間はできなかった。そして、どこからかは分からないが風が吹くとふわりといい香りがする。これは多分俺の匂い、すなわち水村の匂いだ。シャンプーなのか洋服の洗剤なのかは分からないが、甘い匂いがして下半身がむずむずする。むずむずしながらもいつも勝手に反応するそれは存在しなくて、腹の奥がもやもやとするだけで居心地が悪い。そんなことを思いながらもかんからどろりと何かが滑り落ちる感覚が時折あって、不快さで思わずサドルから腰を浮かす。

 異邦人には水村が先に着いていた。扉を開くカランというベルの音で、ぱっと奥の席に座っている男が顔を上げる。間違いなく俺だった。俺の顔をした男が、不安げな表情でこちらをまじまじと見つめている。他に客は誰もいない。きちんと効いているのかどうかも分からない冷房の唸る音だけが響き渡る。

 いらっしゃいませ、という酒焼けした店主のおばちゃんの声を背に、そいつの向かいに座る。不安で曇っていたはずの両目がいつの間にか好奇心の色を帯びて俺をねめつけている。

 自分という存在がテーブルを挟んでそこにいる。でもそれは自分ではないのだ。ものすごい居心地の悪さを感じた。少し恐怖心に似ていたかもしれない。何も言葉を口にすることができなかった。それは相手も同じなようで、ただじっと俺を見つめ続けている。俺は気味が悪くなってじっと目を伏せ続ける。

 おばちゃんが水を持ってきてテーブルに置く。何にしますか、とかれ「アイスコーヒーひとつ」と答える。席には既に飲みかけのコーラが置いてあった。お待ち下さい、というしゃがれた声が聞こえたと同時に、俺は手ぶらで来てしまったことを思い出す。

「あ、やばい。どうしよう俺お金忘れた」

「あ、だいじょうぶ。私持ってきたから」

 その言葉に思わず顔を上げる。目が合った。俺がいる。あ、俺ってこんな顔してるんだな、と思った。見慣れているはずなのに、鏡に映っていた時とは違う違和感があった。よくよく見ると着ている青いシャツは俺のじゃなくて弟のだ。自分の顔をした人間が、か細い声で女言葉を使っているのを見ても、不思議と気持ち悪さは湧かなかった。全く性格の違う双子の相手を見ているようで、違う生き物なんだなと変に納得していた。

「だいじょうぶって言っても、坂平くんのお金だけど。ごめん」

「あーいや、まあしょうがないっしょ。むしろ、ありがとう」

 答えながら、俺の声ってなんか気持ち悪いな、みんな気持ち悪いって思いながら聞いてたのかな、なんて思っていたら、「私の声ってこんななんだ」と水村がぽつりと呟いた。

「機械とか通さない自分の声ってはじめて聞いたかも。なんで自分の声を聞くときってちょっと違く聞こえるんだろうね」

 言いながら水村が下唇をいじる。俺の口の形がぐにゃりとゆがむ。もう既に俺の体がなずけられた気分になって、少しムッとする。

「そんなことどうでもいいよ。問題はなんでこんなことになっちゃったのかってことだろ」

「そうそう、それだよね。ほんとびっくりしたよ、朝起きたら知らない部屋にいるんだもん」

「てか意味分かんなくね? 漫画とかドラマとかだとさあ、こういうのって何かきっかけみたいなもんがあるもんじゃん。そういうの一切なくね?」

「え、でも私あれだと思った。昨日のプール。っていうか、私と坂平くんの接点ってそれしかないかなあって」

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