ボヤ騒動

 店員さんの言葉で安心していた矢先、何やら遠くの方で誰かが怒鳴っているような声が聞こえた。野次馬だと思われるのは癪だけど、集団生活する上では何が起こったか確認しておいた方がいい。

 見ると初老くらいの白髪のおじさんがタバコを咥えてライターで火をつけようとしていて、それを店員さんが必死で止めているところだった。

「ガス漏れやホコリなどへの引火も考えられますので……」

「うるせぃ! 壁に穴開いて換気されたんだから別にいいだろ!」

 建物が壊れてガス漏れの危険を分かっている辺り、店員さんらはしっかりリスク管理ができているらしい。でもこういう変な客が一人いるだけで秩序は途端に崩れる。

「目障りなヤツだナ」

 真後ろから聞こえた声にギョッとすると、いつの間についてきたのか少女がいた。特に表情を変えているわけではないと思うけど、タバコのおっさんを見る少女の顔は背筋をぞっとさせるものがあった。

「殺すカ?」

「……は?」

「あいつを」

 少女は表情筋を少しも動かさずに言った。迷惑だな、と思いはすれどそれで殺そうなんて思う人はまずいない。仮に「殺したい」なんて口では言ってても心の中では殺すつもりはないのがほとんどだ。でも今この少女からは本気の殺気というものが出ている気がして、思わず首筋に冷や汗が流れた。

「殺すなんて簡単に言うもんじゃない。人の命は大切なんだから」

「あいつのせいでここにいる全員が死ぬとしても?」

 その一言にハッとして少女の目を見た。それは相変わらずの猫のような大きい目。確かに、もし駅員さんらの言う通りガスが充満していれば、爆発して全員がお陀仏ということにもなりかねない。普段時なら迷惑行為くらい「迷惑だ」と思うだけでいい。でも今は迷惑行為が死に直結するかもしれない。黙りこむ僕に、少女はさらに続けた。

「そもそも、あいつに何の価値があるのサ。家族がいればそいつらに必要とされているかもしれない。でも見た感じあいつは一人。死んだって誰も悲しまない。あいつが生きていることに価値なんかない。そうダロ?」

「そんなこと……」

 ない、とは言いきれなかった。それこそ普段時なら命あることが素晴らしいという考えが大前提で存在しているだけで承認されるべきだし、実際されていたと思う。そのおかげで僕も生きる意味が分からないと言いながらも当たり前のように生かされていた訳だ。でも極限状態の今、足を引っ張るものは生き残る上で邪魔以外の何者でもない。その上誰からも存在を求められていないとしたら。それはもう、生きている意味がないに等しいのかもしれなかった。

「壁に開いた穴から突き落とせば死ぬし、勝手によろけて落ちたってことにすれば怪しまれることもほとんどないデショ。違ウ~?」

 まるで悪魔の囁きのように少女の声が頭に響く。少女の言うことも一理ある。一理あるけど……。僕の中では静かに嵐が起こっていた。それは決着がつくことはなく、最終的に「判断できない」との判断が脳内に示された。判断できないとなればこれまでの行動規範に従うしかない。「人間の命は大切でいかなる理由があろうと奪ってはならない」、それが僕の中にある行動規範だった。

「少なくとも僕の手ではできない」

「……フーン」

 少女は途端に興味をなくしたようにくるりと踵を返す。僕もそれについて自分に割り当てられた毛布へと戻った。ここへ来る道中といい今といい、少女が突然スイッチの入ったように突拍子もないことを言い出すのはなぜなんだろうか。歳不相応なのは誰の目に見ても明らかだ。だからと言って「お前はなんなんだ」と問い詰めるも怖いし、何より小学生相手とは言っても失礼だ。結局何も聞くことができないまま、毛布の上で二人体育座りをしているしかなかった。

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