浮かべもしない綾芽先輩は海の底へ沈んで藻屑になるよ。

「漂流しましたね」


 先輩の浮き輪にすがりつきながら俺は言った。


「漂流しましたね」


 綾芽先輩にそっくりそのまま言い返された。

 どこを見渡しても元いた海水浴場が見えない。

 完全に遭難してしまったらしい。


「今回ばかりは死んじゃうかも」と綾芽先輩がぽつりと呟いた。


「縁起でもないこと言わないでくださいよ」


「泳ぐのに夢中でどこに向かってるかとか、全く考えてなかったなあ」


 俺はそんな夢中になってる先輩に夢中だったよ。

 そのせいでモブ子を見失って絶賛漂流中なんだけどさ。


「まあこの浮き輪の空気が抜けるとか、そういうことが無い限りは大丈夫ですよ。浮いてれば大体なんとかなるから……」


「空気が抜けたらどうなるの?」


 浮き輪をしっかりと掴んで、先輩が聞く。

 そりゃ、泳げないし浮かべもしない綾芽先輩は海の底へ沈んで藻屑になるよ。

 それを伝えたら先輩は力なく笑った。


「モブ子がそのうち助け呼んでくれますって。それまで落ち着いて待ちましょ」


「そうね。落ち着いて、落ち着いてね……翔くん、なんか話そうよ。楽しい話」


 楽しい話か。

 死ぬことに怯えるより、別のことを考えていたほうが精神的にもいいしね。

 俺は話し始めた。


「これ、去年の11月頃の話なんですけどね。渚に誘われて駅伝大会に参加したんですよ。そういえば、会場はあの海水浴場の辺りだったかな……。道の確認ってことでスタート前に事前にコース走ってたらですね」


 うんうん。先輩は相槌を打ってくれている。


「それこそ俺たちがビーチパラソル立てたあたりに、船が座礁してたんですよ。木造船。たぶん外国の密漁船だったんじゃないかなって思うんですけど」


「いやそれ全然楽しい話じゃないよ。国際問題の危機だよそれ」


「海って人攫いの噂もありますからね……」


「誰も怪談話してなんて言ってないよ。すごい怖くなってきたよ」


「すみません。綾芽先輩こそなんか話してくださいよ」


 えー。綾芽先輩は言った。


「じゃあ涼子の話しようかな。私、涼子とは中学校から一緒なんだよね」


 そういえば涼子先輩いま何してるんだろう。


「今でこそ涼子って金髪だし髪すごいストレートでしょ。でもね、実は中1のときのあの子は当然黒髪だし、めちゃくちゃ癖毛だし……あとメガネかけてた」


「あの人が!?」


 予想以上に反応がよかったからか、先輩は楽しそうに話す。


「涼子、すごい近眼なんだよね。あとあの時は変なメガネしてたし。……あの頃の写真見たら絶対笑うよ、翔くん」


「へえ。後で見せてくださいね」


 頷いてくれた。

 やった、これで次も会う口実ができたぞ。


「どういう風に友達になったんですか? 馴れ初め聞きたいです」


「馴れ初めって。それだと私と涼子が恋仲になっちゃうよ」


 先輩は優しい顔で空を見上げた。

 涼子かあ。そう呟く声が聞こえる。


「詳しく話すのは恥ずかしいなあ。あの子のプライバシーの問題もあるし。まあ、お互い助けて助け合って、今の信頼関係があるわけだよ」


 一見相容れない性格の、綾芽先輩と涼子先輩。

 4年以上の年月で培った2人の関係。2人には2人にしか分からない秘密があったりするんだろう。それは俺が入り込む領域じゃない。

 

 だけど、俺には引っかかっている部分があった。

 絶大な信頼関係があるはずの2人。

 そのはずなのに。

 涼子先輩は、綾芽先輩の”何か”に違和感を覚えている。

 それが何の話かとかは、全く分かんないんだけどさ。あの人ぼかして話すし。


 それからも俺は綾芽先輩と他愛もない話をして時間を過ごした。

 先輩と話すのは楽しかった。反応が面白いのもあるんだけど、この人自身の経験とか考え方が、だいぶ普通の人とは違ってぶっ飛んでてさ。かなり引き込まれるんだ。綾芽ワールド炸裂って感じ。


 体感時間にして2時間が経った頃だろうか。

 それを発見したのは綾芽先輩だった。


「向こうからなんか来てるよね?」


 先輩が指差した方向に注意を向ける。

 その方向から、水しぶきとエンジン音を上げながらジェットスキーが向かってきているのが見えた。

 よく見ると……渚と涼子先輩?

 俺が手を振ると、ジェットスキーは俺たちの目の前で止まった。


「翔ー! 無事かー!?」と運転手の渚が聞く。


「なんとか大丈夫だったよ。……お前この乗り物どうしたの?」


「セレブの姉ちゃんが貸してくれたよ。ナンパしてたんだ」


 ニヤニヤ笑いながら渚は話す。


「これって、運転するのに免許とかいるんじゃないの?」


「16歳なった瞬間に講習受けて取ったぜ。姉ちゃんナンパするんだからこういうの運転できるようにしておくのは当然だろ」


 コイツの常識はよくわからないが助かった。

 感謝の言葉を伝えると、気にすんなと返ってきた。こういうところがカッコいいんだよ渚は。 


 俺は綾芽先輩と涼子先輩のほうを見た。何かを話している。

 眺めてみた感じ、涼子先輩が怒ってて綾芽先輩がひたすら謝ってる様子。涼子さんのほうは結構本気なのに、先輩はそこまで重く受け止めてないようだった。


「モブ子ちゃんも心配してたんだぜ? 2人がいない。私が変な提案したせいだーって、泣きながらさ。お前、あとでちゃんと謝っとけよな」


「きちんと謝るよ。……そのジェットスキー、2人乗り用っぽいけど、俺たちどうやって戻ればいいの?」


「牽引する」


「は?」


 牽引ってどういうことだ。

 どこからともなく太いロープを取り出しニヤつく渚。

 まさか、それにしがみ付いて帰れっていうのか!?


「そんなにスピード出すつもりはねえし、ちょっとしたアトラクション気分で楽しめるって」


 渚は綾芽先輩に断りを入れて、ロープでジェットスキーと浮き輪を繋げた。

 余った部分の縄が俺の近くに投げつけられた。

 本気でこれを掴んでろっていうのか……死ぬだろ、下手したら……。


「それじゃ、帰りますか。姉貴は俺の背中にちゃんとくっついててくださいね。綾芽さんも水飲まないように気を付けて。……翔はまあ、死なずに頑張るんだぜ」


「いや、まてまてまてまて」


 俺の抗議も虚しく、彼はエンジンをかけ直した。

 アクセルレバーを捻る渚。切り裂くように水面を進んでいく水上バイク。

 水しぶきがえげつないからどう頑張っても水飲むわこれ。

 スピードが上がる。それと比例してロープを掴む力を無意識に強める。

 は、速いっ!!!!


「「ぎゃあ゛あ゛あぁぁあああああああああ────ッ!」」


 2人の叫び声は走行音でかき消された。



 命からがら、砂浜にたどり着いた俺たち。

 いや渚と涼子先輩はドライブ気分で楽しそうだったけどさ。

 一瞬三途の川が見えた俺と綾芽先輩は海に背を向けて死んだ目をしていた。


「大丈夫でしたか!? 綾芽先輩、ほんとにごめんなさい……」


 モブ子が大粒の涙を流しながら謝る。

 本当に謝らなければならないのはこっちの方だ。だけどその元気がない。ポツリとごめんと言った。


 それからはあんまり海には出なかった。

 懲りずにナンパし続ける渚と、それに冷ややかな視線を送る涼子先輩。

 サンドクラフトに挑戦するモブ子。お城とか作ってた。

 ビーチパラソルでできた日陰の下で、3人の様子を先輩と一緒に眺めていた。

「夏ですね」と俺は言った。「夏だよ」と返ってきた。

 とにかく元気がなくなったのだ。



 日も暮れて、すっかり暗くなった。

 昼間とは違って静かになった海を横目に、俺たちは駅を目指して歩いた。

 先頭を歩く俺と渚。少し離れて綾芽先輩と涼子先輩。何やら2人にしか分からない話をしている。モブ子はもっと後ろをなぜか1人で歩いていた。


「お前なあ。遭難して2人切りになったってのに、何にもいい雰囲気とかならなかったの? そりゃあないぜ、奥手だなあ」


 事の顛末を話すと、渚は嘆いた。


「それどころじゃねえっての。それより、渚のナンパの成果はどうなんだよ」


「お前らと一緒に帰ってるってのが残念な証拠だよ。後半はずっと姉貴の視線が痛かったからさ、あんまり自分を出せなかったんだ」


「涼子先輩のこと姉貴って呼んでるんだ……」


 突然、後ろから肩を叩かれる。

 振り向くとすぐ近くに綾芽先輩がいて、思わず変な声が出てしまった。


「楽しかったね。翔くん」


 先輩はくしゃっと笑っていた。釣られて俺も笑う。


「また来年も、来たいです」


 ──また来年も、来たいです。

 どうしてだろう。それを口にした途端、先輩がキョトンとした顔で少し固まった。

 ただ、すぐにまたいつものかわいい笑顔で、うんと頷いてくれた。



 その瞬間、カシャ、というカメラのシャッター音が鳴った。



「モブ子、お前写真撮りやがったな!」と涼子先輩が音をした方を向いて叫ぶ。


「だって、4人がすごいエモかったんですよ。写真見ます?」


 モブ子は近づいてきて、スマホ画面をみんなに見せてくれた。

 映っていたのは、モブ子以外の4人。

 涼子先輩のカッコいい後ろ姿。それと、何かを見てニヤついているように見える渚。何を見ているんだ? 写真の中の渚の視線の先を見る。

 

 その視線の先では、綾芽先輩と俺が、すごく楽しそうに笑っていた。


「へえ。新型アイフォンってこんなに綺麗に撮れるんだ……」


「先輩、感動する場所そこじゃないでしょ?」とモブ子が言う。


 綾芽先輩が照れている……ように見えるのは気のせいだろうか?



「いい写真だけど、これじゃモブ子映ってねえじゃん」と涼子先輩が指摘した。


「あー……確かに。じゃ、みんなで撮りますか」


 モブ子は海をバックに、スマホを上へ掲げた。

 みんな、スマホの画面を見る。


「みんな入ってますよね? 撮りますよー!」


 カシャ。

 軽快な音が再び鳴った。

 モブ子がカメラロールを確認する。


「うわ。涼子先輩の目つき、悪い!」


「生まれつきだ!」とモブ子の頭を軽く叩く涼子さん。


 ドッと笑いが起きる。

 笑ってから、先輩が海を眺めて、呟いた。


「青春したなあ」


 その顔はどこか満足そうで。どこか寂しそうだった。

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