第35話

「──先生、もうここでいいですってば」


「駄目」


 レストランを出た後、アタシと先生は並んで歩いていた。

アタシは、結構です、と断ったのに家まで送るとがんとして譲らない。

どうやら琉璃姉ちゃんがそう言ったみたいだ。


「こっち?」


「……はぁ、じゃあ近道します。公園通ります」


 公園を突っ切れば家まで早い。

それに──。


「──大丈夫か?」


「……何がですか?」


 先生が手を差し出してきた。


「足、痛いんだろ?」


 隠してたのに、やっぱり歩き方が変だったみたいでバレてしまった。

パンプスの爪先が尖っているから、ぎゅっ、と締め付けられるみたいになって、少し前からずっと痛い。

きっと靴擦れしていると思う。

慣れないピンヒールで踵も痛い。


「我慢しなくていいのに」


「別に我慢なんてしてません」


「意地っ張り」


 むっ。


「怒るのは自分でもそう思ってるからだよ」


 せっかくご飯美味しかったのに、この先生は食えない。

そう思いながらもアタシは先生の指先に触れた。

手すり代わり、と思ったら大きな手がすっぽりとアタシの手を包んだ。


「俺の勝ち」


「何を子供みたいな事を」


「あ、お姫様抱っこしようか?」


「おひっ!? 結構です!!」


 灰田くらい余裕で持てるけれど、と言うけれど心の底からお断りだ。

今だって結構恥ずかしいのに、そうじゃない先生は、大人の余裕って感じで少しむかつく。


 やられっぱなしは、うん、むかつく。


 アタシは先生の手を掴んだまま止まった。


「何して──」


 ──こうする。

アタシはパンプスを脱いで、裸足でコンクリートの地面に立った。

じんわり、と足の指が開いていく感じ、やや冷たい地面の感触も気持ちいい。


「あー、開放感」


 そう笑って言うと、先生も釣られて笑って、ネクタイを緩めた。


 夜の公園は外灯の光でところどころ明るくて、空に月も浮いている。

アタシは見上げながらパンプスの踵に指を引っかけて歩き出した。


「灰田、ちょっとひと休みしよ」


 先生は自動販売機を指差した。

どれ? と聞くので、ほうじ茶、と答える。

俺も、と言った先生は二回それを押して、近くのベンチに腰を下ろした。

アタシも座って足を投げ出す。

やっぱり靴擦れが出来ていて、いーっ、と口をゆがめた。

それにしても今日は色々あったな、とほうじ茶の缶のプルタブを引っ張りながら思い返す。

階段から落ちて足を打って、パンプスで靴擦れして、怪我ばかり。


「吸っていい? 風上にいろよ」


「あ、はい……煙草、吸うんですね」


「うん」


 かちゃんっ、とジッポの蓋が指で弾かれて、じゃっ、と煙草に火を点ける先生の横顔を横目で見る。

数秒だけ灯った先生の顔は、また違う大人のように見えた。

煙が、少し目に染みた。


「……先生」


「ん?」


「今日は、ありがとうございました」


「何ー? 急に素直ー」


「真面目に言ってるんでちゃんと聞いてください」


 真剣さが伝わったか、先生は組んでいた足を解いた。

アタシも背筋を伸ばして、紫色の夜の公園を真っ直ぐに見つめる。


「背伸びの仕方、教えてくれたんですよね」


 アタシはどんなに学生という枠からはみ出してみようとしても、まだ子供で、手のかかる生徒だ。


「初めて、わかったような気がします。背伸びし過ぎると痛いって」


 かかとの高い靴は疲れるし、痛い。

アタシはまだまだ裸足の方が楽で、好きだ。


「そうだね。灰田って危なっかしいとこあるし」


 それは階段での事を言っているのだろうか。


「あれは俺のせい。だから食事はお詫びもねてだよ」


 またそんな言い方をする先生にアタシは言った。


「……アタシの事見てくれて、ありがとうございます。先生」


 心からのお礼を言った時、自然と笑みが零れた。


「手がかかる生徒なのに、手を伸ばしてくれて」


「……手が届かなきゃ意味ねぇけどな」


「届いてます。ほら」


 アタシは先生の眼鏡をとってやった。

そのまま自分に掛けてみる。

ノーフレームの伊達眼鏡は似合っているだろうか、とそのまま先生を覗き込んでみると、先生は少しを置いてから微笑んでくれた。


「……いやはや、困ったね」


「何がですか?」


 先生は煙草を消して、ふーっ、と息を吐いた。



 両手でほうじ茶の缶を握り締めた先生は、横目でアタシを見ている。

先生と生徒、大人と子供の、数十センチの距離があった。


「……先生、これ、預かっててください」


 アタシはまだ痛いパンプスを指差す。


「これからもアタシの事、見ていてください」


 立ち上がったアタシは裸足のまま、先生の前に立って言って、眼鏡を外して先生に掛けた。


 今はまだ、先生は先生だ。


「半年後──」


 アタシは笑った。

少し照れるから、笑って誤魔化した。


「──その靴持って追いかけてきてね」


 


「……ははっ! やられた」


 両手を軽く上げた先生は笑っていた。

アタシだけが知っている王子様の顔で、笑っていた。


「楽しみにしてるよ、灰田。あ、今日のプリントはちゃんと提出するように。卒業出来なくなったら困るだろ」


「……はーあ、台無し。逃げようかな」


「はっ、先生のしつこさ舐めんなよー?」


 これはまずった。

先生が本気になったら太刀打ち出来ないだろう。

けれど、だからこそ、楽しんでやろうじゃないか、とアタシは思った。


 この恋の、駆け引きを。

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