第33話
ちょうど手を組んで背伸びをしているところだった。
「──こんにちは灰田さん、やってる?」
瞬間、アタシは腕を下ろしてため息をついた。
意図的に作った嫌そうな顔は城ヶ峰先生には面白かったらしく、笑われた。
今週の補習も監視役にといらっしゃったようだ。
先週と違うのは手ぶらではなく、教師の仕事と思われるプリントの束を持っているところだ。
「……こんにちは。って、今日は隣ですか」
城ヶ峰先生は私の隣の席に座るなり、テストの採点をし出した。
クーラーが効いた職員室でやったらいいのでは、と思った。
「──ああ、土曜日は教師棟も節電のためにクーラー入れてないよ。ここと一緒で暑いの何の」
アタシのちら見で察した先生は答えた。
先にリズムを取られたみたいで、気まずい。
「今日は古典だったね」
「あー、はい」
「わかんないとこあったら聞いて」
「今のとこは解けてます」
「あ、雲ってきたね。
話が飛んだ。
けれど窓の外は確かに雲が出てきていつの間にか空が灰色になっている。
先生も外が気になるらしくて、アタシの後ろに回って、窓の外に顔を出していた。
「ん? 何かついてる?」
「……いいえ、別に」
ほんの一瞬──ほんの二秒くらい見惚れてしまっただなんて絶対に言ってやらない。
横顔の顎のラインが綺麗だな、なんて言ってやらない。
アタシはすぐに、ふいっ、と前を向くと、頭上から声がした。
上を向くと──。
「──見惚れた?」
言い当てられて、かっ、と顔が熱くなった。
「……自惚れで、すっ!?」
またすぐに逆さに見えた先生から頭を前に戻した時、髪の毛が引っ張られて、痛みでつい大きな声を出してしまった。
「ちょ、先生?」
また見上げると、先生は眉を
軽く髪が引っ張られているのがわかった。
「動かないで。ボタンに引っかかって……取れないなぁ」
ああそういう事、とアタシは筆箱からカッターを取り出した。
「これでアタシの髪、切ってください」
「ヤだ」
は?
「こんな綺麗な髪を傷つけるなんて、ね?」
逆さまの先生は微笑んでいた。
クラスメイトの男どもでは見せる事が出来ない大人の顔が、そこにあった。
計らずもアタシは、どき、としてしまって体全体が熱くなるのを感じた。
これが先生のあだ名の
「はい、取れた。ついでにボタンも」
少しくらいなら切ってもよかったのに調子狂う──狂ってみようか。
「先生、脱いでくれます?」
そう言うと先生はちょっと引いた。
そういう意味じゃないので、こう言い返す。
「その反応はセクハラです」
「えっ、俺なの?」
「冗談です。取れたボタン付けますんで、シャツ貸してください。すぐに終わりますんで」
バッグから簡易ソーイングセットを取り出して、アタシは椅子を横に座った。
先生も隣の席に戻って、じゃあお願いします、と言ってくれた。
「ああ、灰田さんは手芸部だったね」
そう、だからボタン付けくらいお手の物だ。
針に糸を通して用意していると、先生は隣でシャツを脱ぎ出した。
…………なんか緊張するような、変なの。
シャツを受け取ってすぐ、アタシはボタンを付け始めた。
ティーシャツ姿の先生はテストの採点をするかと思いきや、じっ、とアタシの手元を見ている。
視線がやりにくい。
「ボタン付け、珍しいですか?」
「そうだね。俺はそういうの向いてないし」
「先生って自分の事、俺っていうんですね」
いつもは僕、先生、と言っている。
「あ、しまった」
しまった?
「内緒ね。一応、学校用と分けてるから」
つまり今はプライベート感覚で俺って言ってしまったわけ?
アタシは少しだけ笑った。
「一部の生徒が聞いたら喜びそ」
「灰田さんは喜んでる?」
ん?
「ここだけの話をしようか。俺ね、かなり作ってんの。教師としての顔ってやつー」
……いやいや、いきなり話し出されても困る。
というか、口調がかなり軽くて驚いてもいる。
それにノーフレームの眼鏡もいつの間にか外している。
「眼鏡はスイッチみたいなもん。教師の俺っていうね」
「……今はスイッチオフ?」
「そ。他の生徒にも他の先生方にも見せた事のない本当の──俺」
先生の声が低くなった気がして、アタシは顔を上げた。
頬杖をついて、ボタン付けを見ている先生の伏した目とその顔は、知らない人みたいだった。
「戸惑ってる?」
「……まぁ、少し」
だってどうして、アタシには見せるんだろうと思っているから。
「俺もだよ」
自分から見せておいて何を言っているんだろう。
「灰田さんと似てるところがあるからかな」
「ふっ、どこがですか?」
思わずふき出して笑ってしまった。
だって先生は王子で、顔も良くて、好かれている先生だ。
「あー可笑しい。全然違うじゃないですか。アタシは変な人だって思われてるし、むしろ怖がられてますよ。友達はいるけれど別につるんだりしないし──」
すると先生と目が合って、こう言われた。
「──寂しがり屋なとこは、似てるだろ?」
雨が、降る音がした。
いつの間にか鳴っていたその音は次第に大きくなっていく。
まるでアタシの胸のざわめきのように。
城ヶ峰先生は学生時代、アタシみたいに校則違反をしていて学校もサボっていたらしい。
髪の毛もアタシよりも明るい金髪に染めていた事、どうでもいいからそうしていたわけではなくて、そうしたら何かが違ってくるかもとやっていた事。
今のアタシに当てはまる事を先生は過去にしていたと教えてくれた。
「──色々あるよね」
アタシはただ、微笑む先生を見ていた。
その通りで、何も言えなかった。
「……ボタン、すみませんでした。出来たので帰ります」
「え?」
アタシは手早く糸を切って、先生にシャツを渡した。
そしてプリントを机にそのまま置いてバッグを取って教室を出た。
出た、というよりも、逃げた。
先生が言った事が全部当たっていたからだ。
アタシを見破られて、恥ずかしかった。
今にも泣きそうなほどだったから、逃げた。
「灰田さんっ!」
追ってきてほしくないの、わかってよ!
階段を駆け下りながらアタシは少し振り向いた。
先生の困った顔が見えて──。
──あ。
ずるっ、と階段を踏み外したのがわかって、アタシはそのまま転げ落ちた。
残り五段くらい、手すりを掴もうとしたけれどそれも滑ってしまった。
「灰田さん!!」
上から、先生の叫び声が聞こえた。
痛む膝と肘と手を見て、まぁ大丈夫かな、とアタシは最初にスカートを気にした。
女の子座りみたいな形で落ち──滑り落ちたからか、パンツは無事のようだ。
「びっくりしたぁ……」
「何やってんだ!!」
せ、先生?
先生は階段を駆け下りると、アタシの肩に手を置いて、顔を覗き込んできた。
「怪我は?」
「う、打っただけっぽいです」
「どこ?」
「う、腕と、膝……」
すると先生はアタシの腕を確認するように撫でて、膝にも手を置いた。
「ちょ、セクハラ──」
「──黙れ」
びく、と体が跳ねた。
少し怖かった。
こんな先生は初めてだったから。
初めて、怒っているところを見た。
「……立てるか?」
頷くと、先生はアタシの手を取って立たせてくれて、階段に座れ、とまた座らせた。
その時、右の上履きがない事に気づいて振り向くと、階段の途中に落ちているのが見えた。
「悪かった」
そう言った先生は階段を上る。
アタシは上履きがない裸足の爪先を見つめていた。
悪いのはアタシなのに。
「怒鳴って悪かった」
頭を撫でられた。
子供をあやすみたいに、優しかった。
顔を見たら、もう怒っていない顔がそこにあった。
さっきの厳しくて怖い感じはどこにもなかった。
「……お前はもがいてるとこなんだよな。余計な事言った」
似てるからって、わかったような口をきいてごめん、と先生はアタシの前にしゃがんだ。
「──
「……もう、踏みません」
きっと、このまま踏み続けていたらいつか怪我をする。
今のままのアタシだったら、そうなってしまう。
左の上履きの踵に指を入れて、アタシは履き直した。
型にはまった足が、何故か気持ちよく感じる。
「足、ちょっと上げて」
「あ、ちょ、あの、自分で履けますっ」
「いいから」
先生は上履きを履かせてくれた。
なにこれ、恥ずかし過ぎ。
「ふふっ、足ちっちゃ」
下ろされた足を内股気味に並べる。
何だかふわふわして、さっきよりも気持ちがよかった。
「……先生」
「ん?」
「……ごめんなさい」
先生は微笑みながらアタシのバッグを拾ってくれた。
眼鏡をかけていなくても、先生は先生だった。
まるで王子様みたいな、優しい先生だ。
「──んー、どうしよっかなー?」
「へ?」
せっかく見直したばかりなのに、いい先生だと思ったばかりなのに、この返しは予想外。
「灰田さん、ちょっと俺に付き合わない?」
「……はい?」
すると城ヶ峰先生は、歯を見せてまた違う笑い方をアタシに見せた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます