6.土曜日のシンデレラ

第31話

 ──三年二組、灰田ハイダ優月ユヅキ

一人の夜は寂しいけれど、夜の音を聞きながら散歩するのはとても楽しいんです──


「──土曜日、登校しなさい」


 それはめんどくさいなぁ。


「無断欠席ばっかりしてたのはお前だろう?」


 それはそうですけれど。


「救済措置と考えろ。このままだと卒業危ないからな」


 それは、困る。


「成績は悪くないんだけどなぁ」


 それはこういう事を回避するためなんですけれど。


不貞腐ふてくされるな。補わなきゃならないくらい無茶してきたって事だからな。じゃあ土曜日、必ず来なさい。わかりましたかぁ?」


 先日、狼先生──いや、生徒指導でもある先生にこう言われたアタシは一人、土曜日の学校に来ていた。

部活が盛んなこの学校に生徒は他にも来ているけれど、皆は実習棟や部室棟にいるようで、さすがに教室棟にはアタシくらいしかいないようで、がらん、と、しん、と静かだ。


 三年二組の窓際の後ろから二番目の自分の席で頬杖をついていたアタシは、シャーペンをくるっ、と回した。

机の上にある三枚のプリントが今日の救済措置だ。

もうほとんど解いてしまって残りは一枚、プリントの下半分のみだ。

パックのほうじ茶を飲みながら、晴天に流れる雲を見つめる。


 あー……部活に逃げようとしたら根回ししてんだもんな……頭が良い狼だよ、まったく。


 狼先生はアタシが所属している手芸部の顧問で、そして部長にもを話していて、逃げ場所を奪われてしまった。

っていうかバラすなよ、とも思ったけれど学校に来なかったアタシが悪い。


「はぁ」


 たった一つのため息も乾いた教室に響いた気がした。

けれど教室に一人きりなんてのはなかなかない事なのでちょっと新鮮でもある。

それにとても楽だな、と感じていた。

遠くから聞こえる運動部の声も微かに耳に入ってくる程度で、窓の向こうに見える実習棟の廊下を通る生徒もアタシには気づいていないようだ。

暑いのを除けば快適で、何より、というのが一番──その時、教室の扉にノック音がなった。

暑さのため廊下側の扉も窓も全部開けていたのだけれど、その扉に立っていたのはアタシが一番苦手な先生だった。

狼先生は二番目だ。


「灰田さん、終わったかな?」


「……どうしてここに?」


 城ヶ峰ジョウガミネ先生という男の先生だ。

アタシのクラスの副担任でもあって、古典の教師である。


「狼先生は?」


「オオカミ?」


 あ、しまった。


 狼というのは生徒の中でのあだ名のようなもので、先生達には内緒だったのに言ってしまった。


「ああ、わかった。大槻オオツキ先生は部活動の方に行かれたので代わりをね」


 つまり今まで監視していなかったくせに、今になって監視役をよこしてきた、という事だ。


「そうですか……って、何してるんですか?」


 城ヶ峰先生は教室に入るなり、アタシの前の席の椅子を引いた。

そのまま横向きに座ってアタシの机に肘をつき、そして解き終わった二枚のプリントを手に取ったのだ。


「進行チェックです──うん、ちゃんとやってるじゃない」


 そりゃあ、まぁ。


「ん? ここ、間違ってる」


「え」


「ここ」


 城ヶ峰先生はプリントを指差す。

数学のプリントで、間違いはなかったはずだけれど、とシャーペンの反対側で頭を掻いた。

すると先生は、こっちを先に計算、と単純なミスを教えてくれた。

まさか古典の教師に数学を教わる事になるなんて思いもよらない。


「うん、正解」


「……ありがとう、ございます」


 アタシがそう言うと、先生は一瞬、を置いてから微笑んだのが気になった。


「……なんですか?」


「ん? 何が?」


「顔」


「なんかついてる?」


「何で笑ってんですか、って聞いてるんです」


 城ヶ峰先生のこういうところが苦手だ。

早く察してほしいというか、テンポが崩されるというか、リズムが取りにくい。


「素直だなって思って」


 先生は先生という職業からか、こう暑いというのにネクタイをきっちり結んでいる。


「教えていただいたのでお礼くらいは言いますけれど」


「うん。やっぱり素直だね」


 もう一度同じ事を言われた。

柔らかい口調と優しい声は他の先生よりも話しやすいとかで、クラスメイトや他の生徒からも人気が高い。

意味もないのに微笑むのはアタシにはよくわからない。

今みたいに。


 ……調子狂う。


「灰田さんも狼先生って呼ぶんだ?」


「……まぁ、ぴったりなあだ名じゃないですか」


「ははっ」


 あ、笑った。


 こんなに近くで見たのは初めてかもしれない。

ノーフレームの眼鏡の奥の目が細くなっていて、前髪が少し長いのか眼鏡にかかって鬱陶しそう。


「先生もあだ名、あるじゃないですか。


 城ヶ峰先生の名前は旺二郎オウジロウ──だったはず。

名前からもあるだろうけれど、理想の王子様っぽいからだという意味でこのあだ名らしい。

イメージだけで言えばそうかな、とアタシも思う。

さらさらの髪の毛は元々色素が薄いのか綺麗な茶色だし、背も高いし、顔の造りも王子のあだ名っぽく見えなくもない。


「灰田さんも呼んでいいよ?」


「あ、遠慮します」


「ははっ、即答! いいね、灰田さんのそういうところ」


 本当に調子が狂う。

何故褒められたんだろう、何故笑われたんだろう、とアタシはまたプリントに向かった。

もうこれが終われば学校を出れる。

昼に登校してから約四時間、だらだらとやっていたものだ。

そして最後の問題に差し掛かった時、先生がこう言った。


「──学校、嫌い?」


 手を止めたアタシはプリントを見たまま答える。

多分、無断欠席をしているから聞いているんだろう。


「……好きじゃないだけです」


「理由は?」


「……色々、うるさくて」


 音や、視線が──うるさい時がある。


 アタシはシャーペンをぎゅっ、と握った。

きっと、アタシのこの気持ちは先生にはわからない。

生徒じゃ、ないから。


「──そりゃあ制服もちゃんと着れない生徒にはうるさくもなるかな」


「……は?」


 顔を上げると、城ヶ峰先生は頬杖をついてアタシを見ていた。

さっきの笑みは薄くなっている。


「スカーフ」


 ……めんどくさい。


「靴下」


 暑いじゃん。


「スカート丈」


 背ぇ伸びたって事で。


「化粧──」


「──してません」


「そうなの?」


「セクハラ一歩手前です」


「え、それは焦る」


 冗談だけれど焦った先生は見てみたい。


「冗談はさておき、化粧してないとはびっくりした。灰田さん綺麗だね」


 は?


「…………セクハラ半歩進んだんですけれど」


「まぁまぁ、ここだけの話って事で」


 城ヶ峰先生は人差し指を唇に立てた。

ご丁寧にウインク付きで、まるで外国人のような──


「……先生ってこんなにお喋りでしたっけ」


「それは灰田さんも」


 確かに、とアタシはちょっと笑ってしまった。

教室でこんなに話したのは久しぶりだ。

クラスメイト達とは仲が悪いとかそういうのは全くないので、喋るは喋るけれど、如何いかんせんアタシが学校を休むから久しぶりという事になる。


「服装は何とかなるとして、髪の色はなぁ」


 城ヶ峰先生は頬杖をやめてネクタイを少し緩めた。

きついのか、暑いのか。


「……嫌いですか?」


 今度はアタシが頬杖をついて先生に笑いかけた。

アタシは髪の毛を明るい茶色に染めている。

これは完璧に校則違反だとわかっている。

完璧、だなんて他の校則にグレーゾーンなんてないのだけれど。


 すると先生はため息をつきながら肩を軽く上げてみせた。

呆れているのだろうかと思った時、先生が手を伸ばした。

肩の前におりていたアタシの尻尾──ポニーテールに結んだ毛先をつまんできたのだ。

これにはびっくりして、またセクハラ、と思った。


「──それは誘惑かな?」


 アタシの目は見開かれた。

だってそこには、見た事がない城ヶ峰先生の顔があったからだ。

いつの間にか笑みは消えていて、口の端を上げてにやけている先生は初めてだったからだ。


 こんなしせん──知らない。


「ふっ」


 いつもとは違う、笑い方だった。


婀娜あだっぽくなるのはまだ早いよ」


 あだ?


 そう言って先生はアタシの髪から手を離した。


「顔、赤いよ」


 そしていつもの柔らかい王子の顔に戻ったのだった。

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