第23話

 今日は雨。

朝、登校中に歩いていたら深い水溜まりを踏んでしまって、靴の中までぐっしょり濡れてしまった。

緩くうねっている髪も今日は激しくうねっているし、それに一限目から前にサボった嫌味か何問を当てられるし。

全部即答で正解したけれど。

ついでに特別プリントとかも休み時間の内に解いたけれど。


 今日は踊り場で寝よ……。


 きょろきょろ、と一応誰も見ていないのを確認しつつ、あたしは屋上までの階段を素早く上がった。

いつもの小さなバッグにはコーヒー牛乳が二つある。


 先輩、来るかなぁ。


 巻神先輩とあたしは約束してるわけではない。

それぞれサボリたい時は違うから。

階段の最後の一段を上がった時──先輩が見えた。

屋上の扉の前の踊り場は結構広くて、あたしが勝手に置いたダンボール箱くらいしかない。

その横に、先輩は座っていた。


「おはようございま──」


 あたしは慌てて口を手で押さえた。

先輩が先に来てるなんて初めてだったと気づく。


「……先輩?」


 もう一度小さく呼んでみた。

けれど先輩から返事がなくて、あたしは音を立てないように隣に腰を下ろす。


 珍し……寝てるやぁ。


 この前とは違う小さな小説と眼鏡が床に置いてある。

いつもは体育座りみたいに足を折り曲げているのに、まっすぐに伸ばしている。

少し首が傾いている。

あたしも先輩と同じように壁に背をつけて、足を伸ばしてみる。

すると、その前に裸足に上履きは気持ち悪いな、と脱いで、それからまた足を伸ばした。

やっぱり先輩の方が足が長い。

身長差があるから仕方がないけれど、と足の親指同士を軽くくっつけたり離したりする。


 手も、長い……。


 太ももの上に置かれた先輩の手の横に、自分の手を並べてみる。

やっぱり先輩の指は長い。

男女差もあるから仕方がないけれど、とそのまま持ってきたバッグからコーヒー牛乳を取り出して、ストローを挿した。

そしてひと口飲んだ時、五限目の予鈴が鳴り響いた。


 はぁい、サボリスタートぉ。


 なんて思いながらすぐ左の巻神先輩を見た。

雨だというのに、湿気を知らない髪は、さらっ、といつもと同じで、瞑った目から伸びるまつ毛が意外と長いと知った。


「……せんぱーい」


 ……反応なし。


 ちょっとだけため息をついたあたしはまたコーヒー牛乳を飲む。

美味しい、けれど。


 ……こんなに暇だったっけぇ?


 ここに来たらすぐに眠るあたしだけれど、今日はちっとも眠くない。

どうしてだろう。


 ふぁ。


 あ、あくびは出た──その時だった。


 お、お、お……おぉ?


 巻神の頭があたしの肩に落ちてきたのだ。

眠っていて力が抜けているからか、壁から、ずるずる、と滑ったようだ。

すぐ近くで、すぅすぅ、と息が聞こえる。

ちょっと重いけれど平気だ。

それにちょっと暑いけれど、それも平気だ。


「……ふふっ」


 こんなに無防備な先輩は初めてだ。

そう思うあたしもこの前はこんな感じだったのかな、と思う。


 ん? 一応女子のあたしが男子である先輩の前で無防備っていうのは危な──いやいや、先輩に限ってそれはないでしょう、うん。


「──んぅ?」


 おっと。


「おはようございます、先輩」


 まだ肩に頭を乗せている巻神先輩にそう言った。

至近距離にまだ寝ぼけまなこの目があって、あたしは首を傾げながら、ひそひそ、と出来るだけ小さな声で囁く。

階段は響くし、もう授業は始まっている。


「起こしちゃいましたか?」


「…………はっ、なっ!?」


 はい、あたしは先輩の口を叩くように塞ぎました。


「しーっ、もう授業始まってますから」


 大きく目を見開いている巻神先輩はまだあたしの肩に頭を乗せたままでいる。

そして、こくこく、と小さく頷いたのを確認してから手を離した。


「……す、すみません。その……おはよう、ございます」


 やっと状況が掴めた先輩はゆっくり体を起こした。


「すみません、寄り掛かったりして……」


「大丈夫ですよ。そんなに重くなかったですし」


 はーっ、と巻神先輩はため息をつきながら顔を隠した。

もしかして照れているのかもしれない。


「……僕、どんな風に寝てましたか?」


「え?」


「寝てるところって、自分じゃ見えないじゃないですか」


 そういう事か、とあたしはコーヒー牛乳を渡す。


「寝言、言ってましたよ」


「えっ」


「んふ、冗談です。何も言ってませんでしたよ。眉間に少し皺が寄ってたくらいです」


 柔らかな寝息とは裏腹に、険しい感じがした。


「あー……今日みたいな日は、少し。雨はあまり好きではなくて」


 花茨さんも雨にやられたみたいですね、と巻神先輩は、いただきます、とコーヒー牛乳を飲んだ。

あたしはそんな先輩を横目に裸足の親指を絡める。


 屋上の扉の向こうから雨の音がする。

ざーっ、とまだ止まないよ、と言っているみたいに。


「……先輩の寝顔、綺麗でした」


 ぶはっ、と先輩はコーヒー牛乳をふきそうになって、勢いよくあたしを見た。

本当に綺麗だった。

もう少し見ていたいと思うくらいに。

まぁ起きちゃったのだけれど。


 ふぁ。


「眠くなりましたか?」


「……少し」


 さっきまでは全然眠くなかったのに、何でか一気に眠気が来た。

軽く目を擦っていると、巻神先輩はダンボール箱から毛布を取り出してあたしの足にかけてくれた。


「先輩はもう眠くないんですか?」


「はい。僕は昼休み中から寝ていたようなので……それに色々と目が覚めました」


 少し赤い頬を指で掻く先輩は笑っている。


「じゃあ交代って事でぇ──」


 ──ふむ、枕より柔らかくはないけれど、当たり心地は悪くない。


「は、は、花茨さん?」


 どもる先輩を横目に、やや上目に見る。

あたしは先輩の肩、というか腕に寄り掛かったのだ。

少しごつい男の人の腕にこうするのは初めてだ。


 悪くないっていうか、むしろ良いなぁ、これ。


「また、起こしてくれますかぁ?」


 いつものように先輩にそう言う。


「……はい、いいですよ」


 先輩の優しい声を聞いて、あたしは目を瞑った。

雨の音が少し遠くなっていって、代わりに先輩の音が大きくなったような気がした。

それは小説を捲る音で、先輩の呼吸で、先輩の腕から伝わる温度。

そしてあたしの音も、大きくなったような気がした。

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