第22話

「──……茨さん、花茨さん」


 呼ばれた気がして、あたしは目を瞑ったまま頷いた。


「花茨さん、起きてください」


「……何ですかぁ先輩、うるさいですよぉ?」


 いつの間に横向きに寝返っていたあたしは、むぅぅ、と唸りながら仰向けになってそう言った。


「うるさいって、じゃなくてですね、もう六限目が──」


 ──多分六限目の本鈴ほんれいだと思われる音が鳴り響いて、やっとで目を薄くだけれど開けたあたしは、あぁ……、と困り顔の巻神先輩を見た。

何度も起こしてくれたのか、眼鏡が少しずり落ちている。


「あはー。六限目始まっちゃいましたねぇ」


「何回も起こしたんですけれど……」


 それはそれは。

まぁ寝過ごす事はよくある事なので。

本当はいけないのだけれど、仕方ない事だったりもするったらする。


「仕方のない後輩ですね。花茨百子さん」


 あらぁ?


「怒らないでくださいよぅ」


「え? 怒ってませんよ?」


 だってまたため息ついたじゃないですか、とあたしは起き上がって巻神先輩の隣に座り直した。

屋上の扉に背中をつけて、首を左右に、こきこき、と動かす。


「面白いな、と思ったんです」


「……あたし、寝言とか言ってました?」


「いえいえ、静かなものでした」


 先輩は眼鏡を上げて、本を閉じた。


「気持ち良さそうに、安心しきった子供みたいにすやすや眠っていましたよ」


 安心ですか。


 確かに終鈴しゅうれい、予鈴のチャイムでいつもは薄っすらでも起きるのに、今日は起きなかった。

特別眠かったというわけでもなかったはずなのに、どうしてだろう。


「……先輩って、どうして変わりたいんですか?」


 すると巻神先輩は一度あたしを見て、顔ごとゆっくり目線を外した。

そして眼鏡を外して上を──空を、見た。


「何やってんだろ、って思ったのが始まりです。僕は……あ、俺は」


「いいですよ、僕で」


 今だけは、とあたしが付け加えると巻神先輩は眉を下げて、ふっ、と微笑んだ。


「……僕は、後悔を見つけてしまったんです。まだ先の、見えない明日から向こうの後悔をです」


 かちっ、と眼鏡が折りたたまれた。


「勉強ばかりしてきた反動、とでも言いましょうか。もっと違う景色を見たい、と思ったんです」


 教科書や参考書、ノートをとる自分の手とシャーペン。

たまに見る教室の窓からの空。


「……その箱の中にいるのが窮屈になりました。僕は今の僕じゃなくて、違う僕にもなってみたい、じゃあ──なってみよう。そう思った日、ここであなたに会ったんです。花茨さん」


 また、ふっ、と笑った先輩に、あたしは笑い返す事が出来なかった。

それはどこかで、胸の奥のどこかで今の先輩を笑っていたあたしがいたからだ。


「あの日の五限目は自習で、先生もいない。僕にとって勇気のいる冒険で……でもここに来たらもう花茨さんがいました。それも枕も用意してて、寝ていて……本当に驚いたんですよ?」


 それはあたしも驚いたのだけれど、とここでやっと、少しだけれど笑えた。

そして巻神先輩はこう言った。


「──僕はあなたが羨ましい」


 風が、あたしと先輩の髪を揺らした。

さぁっ、と拭いたそれは見上げていた雲をも少し早く動かしていて、落ち着いた頃、あたしと先輩は目を合わせていた。


「……ここで寝てみたいんですか?」


「ははっ! 違います違います。どう言ったらいいんでしょうね」


 それはつまり──。


「──成績優秀な不良、というやつですか?」


 巻神先輩は三年生だし、進路の事を考えたら無茶は出来ない。

すると先輩は、ふむ、と腕を組んで考え始めた。

それは真面目な生徒が一生懸命に不良について考えているさまだ。

そんな先輩を見ていて、あたしは我慢が出来なくなって笑い出した。


「あはっ、先輩って面白いですねぇ」


「え、あの……初めて言われました、そんな事」


「真面目であるがゆえに、ってやつです。それに、あたしと同じです」


「同じ?」


 あたしは耳を隠していた髪を掻き上げて、を先輩に見せた。


「自分が、つまんなく思えたんですよね?」


「──はい」


「あたしもです。だから、耳に穴を開けました」


 あたしは左耳だけピアスをつけている。

巻神先輩と同じように思った時、衝動的に購入して、衝動的に開けたのだ。

見えるような事をしなかったのは、それまで積み上げた事を全部投げる事が出来なかったからだ。

そんな事で弱虫だなんて思わないけれど、弱虫と思われてもいい。

あたしは、あたしを変えたかった。


「……痛くありませんでしたか?」


「一瞬でしたから。それよりも──そうですね、眠くなりました」


 それはそれは、と巻神先輩は笑い出した。

多分、伝わった。

自分が変わるそれが何か、先輩はもう変わり初めている。


「どうですか? 先輩」


 んぅ? と先輩は困り顔を見せたけれど、すぐに勘づいてくれた。


「──ええ、そうですね。随分と肩の力が抜けたように思います。それと、僕に俺は似合いませんね」


「ですね!」


 元気よく返事をしてしまったため、巻神先輩は、それはそれでちょっと何かあれです、ともごもご言い出したのだった。

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