第13話

 三日ぶりのプールの周りは相変わらず、がらん、としていて、微かに水の音が聞こえている。

湊君が泳いでるんだろう。

私は胸に抱えた紙袋をくしゃっ、とさらに抱き締める。


 変だな……緊張、かな。


 もう慣れたはずのプールまでの短い階段なのに、なかなか足が進まない。

こんなの初めてだ。

少し胸が苦しい。

けれど気分は悪くない。

ふーっ、と薄く長い息をついた私は、うん、と自分に頷いてから階段を上がった。

半分くらいまで上がってすぐに、湊君の後ろ姿が見えた。

大きな背中が水滴で、きらきら、と光っていて、私は見つめてしまっていた。

見惚れて、目が離せなかった。

そうしていると持っていた紙袋を落としてしまった。

がさっ、とした音が湊君を振り向かせる。


 こ、こんにちは、湊君。


 私は日傘を後ろに倒して、湊君を見た。

湊君は驚いていて、そして、ふいっ、と目を逸らした。

あからさまなそれに私はむかついた。

紙袋を拾って、階段を上がり切って、裸足になった。

床が熱いけれど、それどころじゃない。

いつもの湊君がそこにいないから。


「……こんにちは先輩」


 近づいたらやっとでそう言ってくれた。

つっけんどんな言い方で、言ってくれた。


「体調、大丈夫ですか? ずっと休んでたって聞きました」


 うん。

それは大事をとってのいつもの事よ。


 そして湊君はやっぱり突き放したようにこう言った。


「──どうしてここに来たんですか?」


 何、それ。


 湊君が振り返ってくれない。

私を見てくれない。


「どうして来るんですか?」


 ……そんなの──


 私は指に掛けていた革靴をぱたん、と床に落とした。

そして紙袋も、鞄も、白い日傘も乱雑に投げ落とした。

もう全部、邪魔だった。

そんな音達にやっとで振り向いてくれた湊君は、ぎょっ、とした顔になった。

ちょうど私がセーラー服のスカーフを外していたからだと思う。


「せ、先輩っ、何してるんですか?」


 うるさい。


 私は湊君を睨んでから歩き出した。

足の裏も、陽を浴びる私も熱い。

言う事聞いてくれない心臓も、熱くてたまらない。


「先輩っ、何を──」


「──うるさい!!」


 私は数歩走って、プールに飛び込んだ。

きらきら揺らめく水面すいめんは私を拒むことなく沈めてくれた。

一気に張り付く水は痛くて、冷たい。

薄く目を開けたとき、私は水面を見上げていた。

空と並行に、いつかの湊君みたいに沈んでいた。

私から小さな泡が浮かび上がっていく。

空の眩しさがここまで来ようと光っている。

あのステンドグラスが、広がっていた。


 ──綺麗。


 その時、ざぶんっ、と私の頭の方に新しい大きな泡と影が出来た。


 湊君?


 ちょっと怒ったような顔をしている湊君が飛び込んだみたい。

そのまま私をお姫様抱っこの形に手を添える。


「──はっ、はぁっ」


「けほっ、はぁ……」


 そのまま水から出されてしまった。

そんなに長い時間じゃなかったと思うのに、息が切れる。

右上を見上げたら湊君が眉も目も吊り上げていて──。


「──何してんすか!!」


 わぁ、大きな声。


「この前倒れたばっかだっていうのに、自分が何したかわかってんすか!?」


 私は頷く。


「なっ……もう、本当に先輩は──」


 湊君は俯いてしまった。

けれど私からはよく見える。

軽く唇を噛んでいて、何か我慢しているように見えた。

そしてその唇が薄く開いた。


「──凪先輩は何回、俺の心臓、止めたら気が済むんですか?」


 小さなその声に、私の心臓が答えた。

ぺた、と湊君の胸に手を当ててみると、私と同じように答えていた。

どくんどくん、と鳴っている。

うるさいくらいに、鳴り続けている。


「降ろして」


 私がそう言うと、湊君は飛沫を立てないように私を降ろしてくれた。

プールの底は冷たくて、水は私のスカートや髪の毛を静かに揺らしている。

全身ずぶ濡れだ、と私はちょっと面白くなってしまって、笑ってしまった。

両手を広げて、くる、と回ってみる。

私を中心に水面みなもの円が出来て、また違った波を作っていく。

その時だった。


「──凪先輩」


 後ろから、湊君が私を抱き締めたのだ。


「俺、あなたが好きです」


 耳元でささやくような小さな告白は、私を微かに震わせた。


「……一目惚れって、信じますか?」


 ひとめ、ぼれ?


 すると湊君は腕を緩めて私を正面に向かせた。

湊君は恥ずかしそうに微笑んでいる。

そして、最初に会った時に好きになったんです、と言ってくれた。

私は湊君の手を取って、いつかみたいに自分の頬に押し付けた。

伝わればいい、私の、気持ち。


 信じるよ、だって私も──。


 ──何だか恥ずかしくなった私は口を尖らせて黙った。

すると湊君がふき出して笑い出した。


「すみませんっ、だって可愛いから」


 あーもうっ!


 私はまた飛び込んだ。

今度はプールじゃなくて、湊君に。

そしてその口に、キスをした。


 むかつく。

わかったような顔して──。


 湊君は真っ赤な顔で、やっぱり止める気ですね、と恥ずかしがっている。


 もう溺れてもいい、あわになってもいい。

湊君がいればそれでいい。

だから、明日もこのプールサイドに来る。

好きなものが集まるこの場所に、青い恋が泳ぐこの場所に。


「私、湊君が大好きみたいなの。だからもう一度──」


 ──心臓が止まるほどのキスをしましょうか。

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