第10話

「──こんにちは、先輩」


 こんにちは、湊君。


 私はプールサイドに座っていつものように足プールをしていた。

白い日傘のをくるくる、と回して湊君を出迎える。

そしていつものように湊君がタオルを渡してきて、その上で本を開いて私の準備は完了だ。

湊君はベンチでティーシャツを脱いで、軽く準備体操をしてシャワーを浴びてきて、帽子とゴーグルをつけて準備は完了だ。

プールの中に静かに入った湊君が、ゆっくりと泳ぎ出した。

フォーム確認のための静かな平泳ぎは、新しい波を作って私の足を揺らす。


 プールサイドはすっかり私のお気に入りの場所になっていた。

図書部の当番があっても帰りに立ち寄ったり、すっかり湊君とも話──は、あまりしないけれど顔見知りになった。

湊君は一年五組で、水泳部。

他に水泳部の三年の先輩はいるらしいのだけれど、先輩達は市のプールに行くそうで、湊君一人だけが放課後ここで泳いでいるらしい。

こんな綺麗で静かな場所なのに勿体ない、と私は思った。


 ※


 ぱしゃん、ぱしゃん、と水の音がする。

この本も中盤、章終わりで区切りがいいので私は本を閉じてトマトジュースを飲んだ。

今日も今日とて陽射しが強い。

その太陽の下で、湊君は黙々と泳いでいた。

魚のように、きらきら光る水色の中を。


 ……いいなぁ。


 また感傷的になってしまった自分から我に返った時、湊君が仰向けに浮かんでいるのに気づいた。

ゴーグルを額に上げて揺らいでいる。


 湊君?


 私は少々重たい水を蹴って湊君を呼んだ。

湊君は気づいて笑い返してくれた。

湊君は、すいーっ、と私が濡れないように泳いできてこう言った。


「俺、こうやって空を見るのが好きなんです」


 白い日傘の影の中で私は湊君を見下ろす。

日に焼けた上半身も、顔も、腕も太陽にさらして、空と平行線になっている。

水面すいめんと同じように揺れている。


 ──私は、空、好きじゃない。


 そう思った私の膝の横に湊君が腕を置いて見上げてきた。

目が少し、きつい。


 ……暗いの。


 何度か見上げた空は暗かった。

昼なのに夜中みたいに、夜中よりも黒かった。

見上げたくて見上げたわけじゃない空は、そんな色だった。


 ──もう目が開けれないかもと思うと、怖いの。


 倒れた時の事を思い出してしまった私は口だけ笑みを作って、軽く首を横に振った。

すると湊君は、ざばっ、とプールから上がって私の後ろに回り込んだ。

そして日傘を取られてしまって、顔を上げたら陽が眩しくて、目の前が真っ白になった──空が広がっていた。


 ……青い。


 プールの底みたいな色がそこにあった。

そしてもう一つ、影が私を見守っていた。

それは逆向きになった湊君だった。


「どうですか?」


 白い歯を見せた湊君が笑っている。

どうやら私に見せたかったらしい。

湊君が好きなものをだ。

私は頷く代わりにゆっくりと目を閉じた。

その時、ぱたっ、と私の瞼に何か落ちた。

またゆっくり目を開けると、湊君はもう笑っていなくて、代わりに大きく目が開いていた。


「すっ、すみません、水がっ」


 ああ、湊君の頭からしたたってきたのね。


 湊君は慌てて私の顔に、髪に滴る雫をどうにかしようと拭ってくれたりしたけれど、それでは逆効果だった。

あまりに、わたわた、としているのでそのさまが可笑しくて、私は、ぷふっ、とふいてしまった。


「すみませんっ、すみませ──せ、先輩?」


 私は湊君の手を取って、自分の頬に押し付けた。


「……あの、ぬ、濡れますよ?」


 知ってますよ?


 湊君の手は大きくて、あまり冷たくない。


「手」


「は、はい?」


ぬるくて気持ちいい」


 私がそう言うと湊君は、また違った顔を見せてくれたのだった。


 ※


 ……おや?


 教室の真ん中の席で私は目を覚ました。

ホームルーム中、机が冷たくて気持ちいいな、と頬をつけていたら眠ってしまっていたようだ。

やっぱり口の端にやや垂れた涎を手の甲で拭って、ぼーっ、としていると、朱里ちゃんが話しかけてきた。

赤いタオルは彼女のラッキーカラーでトレードマークだ。


「凪、あんたよく寝てたねー。先生諦めてたよ」


 全然気づきませんで。


「最近元気そ」


 そうかな。


 すると朱里ちゃんは耳打ちしてきた。


「あのプールの──好きなの?」


 まだ至近距離にいる朱里ちゃんに、うん、と頷いた。

まさかの答えだったらしく、朱里ちゃんの顔が真っ赤になっていく。

何故? と私は首を傾げた。

私はプールが好きだ。

やや冷たい足プールも好きだし、小さなステンドグラスも好きだ。

静かな場所も好き、と朱里ちゃんに教えると、軽くデコピンされた。


「そうじゃないっつーの! プールにいる後輩君の事!」


 湊君?


 私は額を押さえてまた軽く首をひねる。


 好きと言われたら、好き、というか、嫌いだったらプールに行かない。

ふむ……考えたら私と湊君の関係って何だろう。

先輩、後輩で……友達? んー……?


「ま、日傘差してても暑いのは変わんないからさ、体調には気を付けなよ。あ、後輩君がちゃんとしてるか」


 む。


「……あんたに何かあったら私が悲しいから言ってんの」


 朱里ちゃんは私をよく知っている。

心配されるのが苦手なのを知って、こうやって上手く言ってくれる。


「──朱里ちゃん、大好き」


 そういうのは言わなくていいの、と朱里ちゃんはまた照れて教室を後にしたのだった。

私も図書部の当番の日だ。

その後──そうだ、たまには差し入れでも持っていこう。


 彼はトマトジュース、好きかしら?

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