第5話

「──で、いつまで掴んでんの?」


 あ。


「ごめん、びっくりしてさ」


 私は伊吹のシャツから手を離して、オレンジジュースを飲む。


「別にいいけど。っていうかお前……感じ、変わったな」


 感じが変わったとは。


 伊吹は立ち止まって部室棟の前に広がるグラウンドを眺めた。

グラウンドは運動部の人達が走り回って、頑張ってる声があちこちから飛んでいる。


「中学ん時はなんつーか、男と対等! みたいな感じだったじゃん」


 私は首を傾げながら伊吹の隣に立った。

言われてみれば女の子と遊ぶより男の子と遊ぶ方が多かった。

けれどそれは好きな漫画とか、バスケに混ぜてもらうとか、そういう事情があっただけだ。


「それって男っぽかったって事?」


「他の女達よりはな」


「……否定出来ない」


 伊吹は笑いながら、教室に戻るか、と歩き出したので私も隣を歩く。

さすがにもう狼も実習棟にはいないだろう、と踏んで中庭から教室棟へのルートで、と伊吹が言うのでそうする。


「変わったって、例えば?」


「あー……なんつーか、女っぽくなった」


「ちょ、元から女なんだけど」


「わかってるって。そういうんじゃなくてさ──」


 ちょうど自動販売機がある通路付近で伊吹はそう言う。

頭をがしがし、と掻きながら目をうろちょろさせている。


「──わかんねぇかなぁ」


 何だ?


 かこん、と飲み終わったオレンジジュースのパックをゴミ箱に捨てて、私もその後に捨てた。


「わかんないよ。自分では変わったと思ってないんだもん」


「……変わったよ」


「そ? ありがと」


 にひっ、と伊吹に笑うと、一瞬遅れて、ふっ、と笑ってくれた。


 伊吹ってこういう笑い方したっけ?


 細目で、何だか少し大人っぽくて、計らずも、どきっ、とした。


 …………どき? ん? 何だこれ。


「……変わったの、伊吹の方じゃん」


「え? 聞こえなかった、何?」


 私が小さく言ったから聞こえなかったようで、伊吹は私の顔を覗き込んできた。

けれど私は何でか顔を見られたくなくて、赤いタオルを頭に被って、ちょっと早歩きで先を歩く。


「変な奴」


 変なのは伊吹もじゃん……。


 ※


 赤いタオルの端っこを両手で握って、教室棟の階段を上がっていく。


「あー……数学やだやだ」


「だから教えてやるって」


「ありがと。んじゃなくて、あれから先生見てないじゃん?」


 伊吹は手すりに寄り掛かって、ちょっと見上げる。


「校内探しまくってたりして。あの先生しつこいからなー」


 にや、と悪戯に笑う伊吹はきっと楽しんでいる。

自分の事じゃないからってひどくない? と、私は最後の一段を上がった。

ここから左に曲がれば私のクラス、二年三組だ。

右に曲がれば伊吹のクラスの二年二組がある。

階段分離れての隣のクラスだけれど、入った事がないな、って事で──。


「──伊吹の席ってどこ?」


 私は、ぱたぱたっ、と小走りで二組の方へ向かって扉を開けた。


「お邪魔しまーす」


 二組の教室も誰もいなくて、机と椅子だけが並んでいる。

窓も開いてなかったので、むわっ、とぬるい空気が漂っていて、私はすぐに窓を開けた。

やっぱり温いけれどいい風が入ってきて気持ちがいい。

伊吹もすぐ隣の窓を開けてくれた。


「私の席の場所ここなんだー。窓際一番前!」


 誰の席かわからないけれど座らせてもらう。

自分の椅子より若干低くて変な感じがする。


「俺の席は、ここ」


 伊吹は隣の席に座った。


「あはっ、伊吹みたいに背ぇ大きいのが前の席だと後ろの人見えなーいってなりそ」


 そんなにでかくねーよ、と伊吹は机に置いたバッグを枕に突っ伏した。

私もならって机に突っ伏す。

顔を横に向けると伊吹は私を見ていた。


「……やっぱ他の教室って何か違うね」


「そう?」


「うん。同じ席の場所なのにさ。匂いかなぁ……」


 目だけで教室を見回してもやっぱり違う。

窓の外を見てもいつもの景色、というか、実習棟が見えるだけなんだけれど、角度とか、空の感じも違う。

私はまた伊吹の方に顔を戻した。

伊吹はまだ私を見ていた。


 ──ああ、そっか。


「伊吹がいるから違うんだ」


 すると伊吹は体を起こして頬杖をついた。


「俺からすりゃ、森岡がいるからだけど」


 それもそっか、と私は笑った。

突っ伏したまま腕を前に伸ばして、その時、頭に被せていた赤いタオルが首元に落ちた。


「中学の時からだよな。赤、好きなのって」


「ラッキーカラーだもーん」


 そう言うと伊吹が笑った。


「やっぱ目立つんだよな、その赤。お前は気づかなかっただろうけど、俺は結構見つけてた」


「マジか」


「自販機の前でもさ、森岡かなってちょっと思ってたんだよね」


 すると伊吹は、すっ、と手を伸ばしてきて、そして私の髪を触った。

突然だったので私の肩が、びくっ、と少しだけ跳ねてしまった。


「あ、ごめん。勝手に触って」


「……ううん、何?」


「髪、跳ねてたからさ」


「──ん」


 私は伊吹を見たまま、任せた。

大きな手のひらが近くにあって、ふわっ、と撫でられる髪が気持ちよくて、くすぐったい。


「……ふはっ」


「なっ、何だよ」


「ううん、何でもなーい」


 恥ずかしいような、そんな気持ちに耐えきれなくて私はふいてしまった。


「ありがと、髪」


「ん。伸ばしてんの?」


「んー、どうかなー」


「女っぽくて俺は好きだけど」


「短くても女ん子だっての! っていうか、まだ女っぽくないってー?」


 私がそう言うと伊吹が小さく、こう言った。


「だからそういうんじゃないってのに……わっかんねぇ奴だなぁ」


 ん? どういう意味?


 私が、きょとん、としていると伊吹はため息をつきながら席を立った。


「まぁいいや。居残りプリントやんぞ」


「あー……」


 帰り遅くなんだろ、と言うので私はやっとで重い腰を上げるのだった。

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