2(*)

「明日で会えなくなっちゃうのにさ。もっと楽しそうな顔してくれたっていいじゃん。

 ユタカのばーかばーか」


「ば……馬鹿はおかしいだろ!」


 ユタカがクッカの物言いに思わず声を荒らげて足を止めた所で、急に道の両脇の木々ががさがさとざわめいた。


「えっ何?」


 驚いたクッカが咄嗟にユタカの後ろに隠れ、腕にぎゅうと掴まってきたので、ユタカは心臓が飛び出しそうになった。


「ちょっと待ちな」


 森の中から声がして、男が二人の前を塞ぐ様に出てきた。

 男は二十歳そこそこで、背はあまり高くないがかなり鍛えられた体つきをしている。茶色の刈り上げた短髪に薄汚れたシャツに革のズボンで、やたら大ぶりな山刀を腰に下げている。所謂ちんぴらの風体だ。ユタカ達が突然のことに驚いて目の前の男から一歩後ずさる。


「孤児院への帰り道かな? もうちょっと明るい時間に帰るべきだったね」


 今度は後ろからは女の声がした。女は男より少し年上で、二十歳後半位に見える。長い黒髪を高い位置でまとめて、男と同じ様にシャツに茶色の革のズボンで、こちらはナイフを腰の横に三本、並べるように下げている。

 見知らぬ男と女に一本道の前後で囲まれ、二人がたじろいでいると、背後の女が口を開いた。


「おまえら、金持ってるみたいじゃん。歩くたびに小銭の音がしてるよ。

 あんた達が持っててもしょうがないでしょ。あたしらが有効に使ってあげるから」


 女はクッカにつかつかと歩み寄って向かって手を伸ばし、クッカが肩に下げていた肩掛け鞄を無理矢理奪い取ろうとした。

 クッカが咄嗟に鞄を自分の身体の後ろに隠し、女に向かって声を張り上げる。


「何言ってんのよ! これは私達のよ!」


「おいガキ、後ろがガラ空きだぞ」


 ユタカとクッカの背後にいた男が、笑いながらクッカが背に回した鞄を掴んで奪い取ろうとする。それに気がついたクッカが男に負けじと鞄の肩掛け紐を強く掴んで引っ張るが、男に足払いをされて倒れ、鞄の紐を手から離してしまった。


 クッカが「きゃっ」と悲鳴を上げて尻もちをついた。


「姉さん!」


 ユタカは慌ててクッカに手を貸し、引き起こした。男は鞄を小脇に抱えてにやにやしている。


「返せよ!」


「返せと言われて返すと思うか? 諦めな」


「諦めるわけないだろ!」


 ユタカは手にしていたアップルパイの包みを地面に置くと、怒りのままに鞄を持った男に掴みかかった。男は半笑いでユタカをいとも簡単に振り解き、さっとユタカのシャツの胸ぐらを掴むと、頬を殴った。

 男の拳がユタカを打った鈍い音に、クッカが悲鳴を上げ、口を押さえた。ユタカは殴られた勢いで地面に仰向けに倒れ込んだ。クッカが青い顔をして屈みこみ、ユタカの顔を覗き込んだ。


「大丈夫!?」


(い、痛い……)


 ユタカはクッカの言葉に「大丈夫」と返すことが出来なかった。地面に倒れたまま、両手で殴られた頬を抑える。

 鉄の味が口の中にどんどん広がり、同時に驚くほど沢山の涙が目から溢れてきた。

 孤児院の子と喧嘩になったことはあるが、そんなものとは比べ物にならない。相手を確実に傷つけようとする、暴力の圧倒的な痛みだ。


「待って、今、治してあげるから!」


 クッカがユタカの頬に右手の指先を乗せ、口の中で素早く呪文を詠唱して左手で印を切った。仄かな温かさを帯びた白い光が痛みを包み込み、解かしていく。


 その様子を見た女が男に向かって高い声を上げた。


「このガキ、回復魔術使えるじゃん! その小銭より相当な金になるよ」


「ああ。とんだ収穫だな。このガキは市場に連れてこう」


「そうね。じゃ、男の子。君には用は無いからそこで倒れてて。またね」


 男はユタカに触れているクッカの手首を掴んで引っ張った。クッカの呪文の詠唱が途切れる。


「やめて! 魔術医師の治療を中断させるのは悪魔の所業よ!」


 クッカが激しく抵抗して男の手を振りほどこうとするが、大人の男の腕力には細身の少女の力はとても及ばない。男はクッカを引きずるようにして森の中に連れて行こうとする。


(姉さんが……!)


 それを見たユタカは激昂し、頬の痛みを忘れて立ち上がり、男にもう一度掴みかかった。


「クッカ姉さんに触るな!」


 ユタカは男に飛びかかって、クッカの手首を掴んだ男の太い下腕に思い切り噛み付いた。


「っ……このガキ!!」


 男はユタカが噛み付いた腕を振りほどくように大きく上下に振った。その動きに耐えきれずユタカは男の腕を離してしまった。


 振り払われた勢いで後ろに投げ出されたユタカの腹を、男が正面から思いきり蹴り飛ばした。避けることもできずに蹴りをまともに食らったユタカは、蹴りの勢いで後方に生えていた木に背中から激突した。


「っ……!」


 ユタカは身体に力が入らなくなり、そのまま崩れ落ちて地面に倒れてうずくまった。今まで経験したことの無い痛みがユタカの全部を支配して、息が詰まる。身体がぶるぶると震えだした。


「ユタカ!!」


 クッカが悲鳴に近い叫び声を上げてユタカに駆け寄ろうとするが、男が強く手首を引っ張ってそれを止める。


「お前はいらねえんだよ」


 女が吐き捨てる様に言う。心底迷惑だという顔つきでうずくまるユタカの所まで歩みを進めると、ユタカの頭を勢いをつけて横向きに踏みつけた。自分でも信じられない位の大きさの悲鳴が口から飛び出す。


「お前、ひょろいガキのくせに王子様気取りか。十年早いわ。

 いや、お前じゃ何年経っても無理だな」


 女が笑いながらユタカを見下ろして言う。


「もう止めて! 着いて行くから! 死んじゃうわ!」


 クッカが泣きながら女に向かって叫んだ。


「おっ。聞き分けが良くて助かるね。後味悪いから流石に殺しはしないけどさ」


 女はユタカの頭から足を退けた。ユタカは震えながら、倒れたままで何とか顔を上げてクッカの方を見る。

 クッカはユタカを見つめ、瑠璃色の大きな瞳からぼろぼろと涙を流していた。いつだって花が咲いた様な笑顔しか見せなかったクッカが、泣いているのだ。


 、とユタカは思った。そして今、クッカを助けられるのは自分しかいない。絶対に何とかしなければいけないのに。

 その気持ちと裏腹に、強大な痛みに捕らえられた身体はこれ以上は寸分も動かなかった。


 ユタカは声を絞り出す。


「……駄目だ、絶対。クッカ姉さんは明日、学校に入るんだ。

 国で一番の魔術医師になるって、言ってただろ……」


「そんなの、ユタカが死んじゃったら、意味無いんだよ」


 クッカが玉のような涙を滴らせた瞳で、ユタカの瞳を見つめ、小さな声で言った。


「……」


 ユタカはただ、絶望した。

 自分がもっともっと、強かったら。大好きな人を守れる強さがあったら、こんな事にならなかった。

 優しいね、と言われる自分なんて、要らなかったのだ。


(姉さんを守れなかった。大好きだったのに)


 泣いてもどうにもならないが、ユタカにはもう、泣くことしかできなかった。

 嗚咽と共に涙がぽたぽたと滴って、乾いた地面の色を変えて染み込んでいく。


「おい、大人しく来な。

 抵抗するとあの男の子、もっと酷い目に遭うよ」


 クッカは女を強く睨みつけたが、素直に従って男が引く手首の力を抜いた。女は男が掴んだクッカの手首と逆の手を掴み、強引に森の中へ歩みを進めようとした。

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