第14話 ささ雨

 私はこの雨をささ雨と名付けてみた。


 私が目を覚ますと既にこの雨は縁側の淵を濡らしており、夜のうちに干しておいた洗濯物はしっとりと水を吸い込んでいた。私が目をこすりながら障子を開けて乾いた布巾をかけると、すうっと布巾に水が吸い込まれた。何故だか洗濯物を取り込むよりもまず床を吹きたい気分だった。実の所、縁側に雨が降りこんでいる以上布巾をかけたところで高が知れているが、私はこの雨に妙な確信を持っていた。果たしてその通りであった。私が重くなった洗濯物を担ぎ込んでいる間では、この雨は縁側を再び水浸しにすることは叶わないのであった。


「しかし、こうしてみるともう一度床を拭かねばなるまいな」


 洗濯物は水を吸っていた。


 人知れず、前日から前触れのない朝方にかけての雨を私は雨戸越しに聴いている。雨樋が鳴かないなので心地がいい。別に雨樋の音は嫌いではないのだが、しかしささ雨に限ってはその音は煩わしくなる。耳元で流れ落つるささめき声を私は聞きたい。がやがやと五月蠅い外野はお呼びではないのだ。


 雨音に操られように私は雨戸に靠れていた半身を起こし、床の木目に目線を走らせた。するとそこには小さな――私の小指の先ほどの大きさしかない――羽虫が一匹、術無げに右へ左へ足とも呼べぬ細すぎるそれを懸命に動かしていた。私は羽虫を注視した。手を伸ばせば潰せる距離だ。私は元来虫が、特に小さな羽虫が大嫌いな性分なので直ちに叩き潰してもよかったのだが、しかしそうはしなかった。ぱたぱたあるいはぽつぽつと落つる雨がまるで羽虫の囁きのように聞こえ、半分ほど振り上げた私の腕を下ろさせた。何を言っているのであろうか。私は知る由もないが、ただ命乞いではあるまい。おそらくこの羽虫は私が気付くよりも早く私のことを見ていたのであろう。再び私は床に目を這わせた。羽虫は一匹だけだった。はてほかの虫共はどこへ行ったのだろうか。虫という生き物は何故だか雨の前には姿を晦ます。大事な羽が濡れたら使い物にならなくなるそうだ。私の知り合いの虫好きの学生が言っていた。であるならば水を吸って黒くなった木目の上を這っているこの羽虫は、我が家を雨宿りとして選んだのだ。しかも丁寧に断りまで入れて。


 既に取り込んだ洗濯物は水気をとって部屋に干してある。雨水は想像以上に冷たく、ぴいんと私の背筋を引き延ばした。


「近々秋も終わるな」


 雨脚は朝よりも弱くなっていた。時折雲の切れ目から見える他の雲とは色の違う雲がもうすぐ雨の止むことを知らせてくれた。窓より見える楓はもう雨粒を落とさない。秋の暮れに抗うように耐えていた。私はそれを徒労だと思ったが、じわじわと哀愁へそして純朴へ塗り替えられていった。


 楓の下を茜色の傘を差した貴婦人が通り過ぎた。その傘の上へ楓の葉が一葉落ちた。


 朝はもう早くない。サラリーマンなどはとっくに出勤している時間だ。私は仕事柄家で作業することが多いのだが、特にやることもない日にはこうして日がな一日徒に過ごす。これを私は非常に好いていた。


 また楓の葉が落ちた。


 ふと雨音が聞こえなくなった。雨戸に耳をつけても戸は鳴らなかった。それと同時にあの羽虫も私に語り掛けてこなくなった。


 雨は上がった。


 雲の薄いところには陽が今か今かと雲の覆いを突き破ろうと蠢いている。風がそれに追い打ちをかけ、陽の光が零れた。


 私は雨戸を一枚だけ開けて息を思いきり吸い込んだ。とても濡れた、それでいて冷たく、しかし私に染み込む心地いい空気だった。


 私は洗濯物を再び干そうと雨戸をすべて開け広げ、縁側に並べたがやはり止すことにした。物干し竿はまだささ雨と共にいた。私は野暮にならないようそっと洗濯物を部屋の中へ干し直した。

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