第4話 白昼夢

 あれは昭和の始めの頃、私がまだ東京の下宿で学生をしていた頃であっただろうか。当時の私は金がなく、日がなひもじい生活をしていたことを覚えている。しかし、不思議とひもじさが寂しさに変わることはなかった。ひもじいながらも学友という名の悪友たちと夜は鍋を囲み、箸でつつきあい、毎日のように水炊きを食べていた。偶に鳥の股肉何かを奮発して買ってきた日には、必ず誰が何個食べただの、俺は何個食べただの、下らない喧嘩に発展した。


 その日も学友たちと集まって、例の通りに水炊きを食べた後だった。私は火照った体を冷まそうと寒い冬空に顔を出し、木枯らしの吹く東京の下町を下駄を履いて闊歩闊歩していた。


 東京と言えど冬の夜になると人通りはめっきり少なくなる。私はそのような滅多に見れない東京の姿を、したり顔で見て回るのが好きだった。


 閑散とした飲み屋を通りすぎ、分厚いコートに身を包んだ客引きの合間を縫って行くと、ふと、気が付いたことに普段は全く気が付かない横路が延びていた。私は、こんなところに道なんてあったかしら、と怪訝ながらも近付いていった。


 いざ、横路入ってみると、何やら寒い。冬なのだから当たり前なのだが、それに輪をかけて寒いのだ。私は両腕を抱えて腹を冷やさないように、久留米絣の半纏の結び紐をきゅっと締めた。


 横路を抜けると、そこにはちょっとした広場があった。そして、そこには一人の醜男が、紙芝居の道具を携えて立っていた。醜男は黒々とした髪の毛を七三で分け、整髪料で綺麗に撫で付けているが、それが足りないのか、それとも雑なのか、所々髪の毛が跳ねている。目も落ち窪みとても正常者には見えない。極め付きは、この季節に似合わない燕尾服を着ていた。


 私は、ははあ、狂人だな、狂人が徘徊しているんだな、と気が付いた。何故って、狂人の胸元の名札には、死狂い精神病院、狂前マワル、と書かれてある。とはいえ、この辺では聞かない病院の名前である。おまけに名前の趣味も悪い。


 私は一つ茶化してやろうと、紙芝居の押し車の前に立ち止まり、


「どれ、酔い醒ましに紙芝居でも見ようかね」


 などと、酔ってもいないのに、大袈裟な口振りで狂前マワルという精神異常者の前に座り込んだ。狂前マワルはキッと唇を引き結び、私を見たかと思うと、


「私の話を聞きたいのですか?」


 と、精神異常者特有の焦点の合っていない眼を血走らせて、私に詰め寄った。私は彼を引き離し、早く始めて欲しいと合図を送った。


 狂前マワルは徐に紙芝居の前まで行くと、既に準備されている、それを口上を謳いながら捲っていった。


「ああ~、夜も酔いどれ、酒の従僕、金のない日に飲みに行きゃ、追い出されるのが、世の常さ、毎夜の徳利積み上げりゃ、富士も越えんと如何とす、笑えや笑え世の人よ、酒に溺れる酒の従僕、世間はそれを、酔いどれ三郎、申し申され酔い酔い候、ああ~、何が酷いって、世間は酔い人、毛嫌い申され、あっちへこっちへたらい回し、前までいたはず、友人すらも、離れる始末さ、はあ~酔い酔い、そんな醜男醜い男も、綺麗な女房御座んした、似合わん、似合わん、と周りが申すも、女房先立ち、彼らに申す、愛は無形に、聞きしかば、顔の良し悪し、どうでもよろし、ああ~、とかちてとかちてつったかた~、男が心の内打ち震え、本意であらんと願いしかば、男が心中に、一願発す、ああ~、酔い酔い、清い女房、永遠に我が元、置かんと欲す、場違いじゃろか、高すぎじゃろか、はあ~、酔い酔い、単に思えど、やうもあらず、術なし、術なし、あてもなし、男が内、打ち塞ぎ、悲しか、寂しか、唱え申し、不意に妙案、空より来たれり、神か悪魔か、誰も知らず、はあ~、酔い酔い、話に聞いた、ホルマリン、何やら、姿をそままに保つ、早速男は、妻を眠らし、絞殺し、鋸ギコギコ、八つに分ける、甕にて血抜きし、綺麗にふきふき、薬に漬け込む、これで完成、永遠の美貌だ、男の願いは成就した」


 狂前マワルは最後の紙芝居の頁を捲った。そこには八つに分けられた、美女の死体がホルマリンに漬け込まれている絵が描かれていた。私は口の中が乾いていることに気が付いた。ハッとして唾を飲み込み、立ち上がると、そこにいたはずの醜男はいつの間にか消えていた。


 私は辺りを見渡し、それらしい影を探そうと努めたが、見つかることはなかった。横路に戻ったりもしてみたが、ついぞ発見することは叶わなかった。


 こうなれば仕方がない。私は狂前マワルを見つけることを諦め、下宿に戻ることにした。私は横路から出て、もと来た道を帰ろうとすると、空が明るいことに気が付いた。


 いやはて、いつの間に夜通し紙芝居を見ていたかしら、と思っても見たがどうも違う。私が紙芝居を見ていた広場は空が見えていた。大体あの話自体も決して長いものではない。しかし、空を仰ぐと太陽が高く上り、小春日和の暖かい陽気に包まれた昼下がりである。私は何だか寒気がして、帰り道を急いだ。


 次の日にその話を下宿仲間に話したらとても興味深い話を聞かせてくれた。


「そら、君、それは白昼夢というやつだよ。何でも、精神的に疲れている人が見るらしい。ほら、君には辛いとき酒を飲む癖があるだろう? 大体君は家が裕福で仕送りだって多く貰っているくせに、僕ら貧乏学生と同じ生活をしているのは、それのせいじゃあないか」


 成る程、白昼夢か、いやはや、これは吃驚仰天、天地もひっくり返る。私は疲れてしまっていたらしい。だが、疲れていた理由はなんであろう? 私の生活は、特に疲れるような生活をしている記憶はないのだが。


「君は酷いやつだな。君はついこの間、美人の奥さんを亡くしたばかりではないか。それを何も思うところがないみたいに言うなんて。君はとんでもないやつだよ。僕が君なら泣き暮れて暫くは面に立てないだろうね」


 そう言って私の学友は何処かへ行ってしまった。


 このときの学友の反応は今でも甚だ理解でない。私は学生結婚をした後もきちんと妻と仲良く暮らしているし、勿論離婚などしていない。それに妻が死んだなどと世迷い言を抜かし、挙げ句の果てに私を人でなし扱いにした。


 おそらく私の学友は私に嫉妬しているのだろう。醜男の私が美人と結婚したことに。今でこそ悔やまれるが、あのときもっと他の学友に私と妻の睦まじい姿をもっと見せておくべきであったと思う。


 そう言えば最近、私の家の近くで怪奇事件があったらしい。どうも、犯人は被害者をばらばらにしてホルマリンに浸け、人体標本として部屋に飾っていたそうだ。何やらキナ臭い話である。

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