第3話 三者三葉

壱の幕


『どうしてこうなったのか良くわからない』


 それが私の率直な感想であった。


 というのも、私は一つ用を足そうと近くの公衆便所に立ち寄ったのだが、何気なく入り口に近い左から二番目の便器を選んだところ、ほぼ同時に私を挟むようにして二人の男が用を足し始めたのだ。


 驚くべきなのは、この公衆便所は他の所と違って広く作られており、小便器の数も十以上あった、ということであろう。そのような便所にて、どうして一番左端に男が三人並んで用を足さねばならないのだろうか。


 人間にはパーソナルスペースと呼ばれるものがある。電車の座席を端から一つ飛ばしに座ったり、エスカレーターを一段空けて乗ったりするあれだ。あれは、暗に自分はこれ以上近づかないから君も近づくな、という警告だと私は考えている。


 そして、これは空間の広さによって大きさが変わってくる。満員電車ならば小さく、空いていれば大きく変化する。


 では、たった三人しかいない大きな公衆便所ならば、もっと間隔を開けて用を足すべきではないだろうか? それが適切なパーソナルスペースではないだろうか?


 私は抗議の意味を込めて左右を睨み付けてみたけれども、二人とも我関せずと頬被りを決め込み、眼前の”もう一歩前へ”と書かれたポスターを凝視している。


 私はわざと大きく咳払いをして前を向いた。すると、左で用を足している男が舌打ち混じりに私を一瞥したではないか! まるで、私が悪いと言いたげに……!


 私は一番最初に用を足し始めたのだぞ? つまり、私はそこから動けないのであり、そのような私に不満を持つのは間違っているわけで、それをさも自分に非がないように振る舞うのは人としてどうであるのか!


 私は今すぐ詰め寄りたいのをグッとこらえて、取り合えず今は出すものを出し切ろうと、ふうっと息を吐いた。が、視界の右端に挙動不審に動く、男の頭に注意が向いた。その男はちらちらと私の様子を伺っているらしかった。


 先に言っておくと、私は一番最初に用を足し始めたのであって、最初に便所に入ったわけではない。私は二番目に便所に入った。最初に便所に入ったのは右で用を足す男だ。


 この男は私が便所に入ると対面に歩いてきたので、てっきり用を済ませて出ていく所なのだろうとすれ違うつもりだったのだが、それは大きな誤算だったらしい。まったく腹立たしいことである。


 だが、考えてもみて欲しい。誰が出口に向かう男を、まだ用を足していないと見抜けようか。


 そもそも、何故この男は小便器を通り越したのだろうか。便所にはこの男が先に入ったのであるから、彼は何処を選んでもよかった筈だ。


 考え事でもしていたのであろうか。しかし便所を往復するまで熟考し、更に私に気が付かないなんてことがあろうか。


 有り得そうにない。どうしても何らかの意図があったのでは、と勘繰ってしまう。考えたくもないのに考えてしまう。


 右隣の男は相当尿が溜まっていたと見え、長い上に音が大きかった。思わず耳を塞ぎたくなるくらいである。排尿音を聞かせてやろう、という変態的な趣味を持った男ではなかろうか。


 私は悶々としながら”もう一歩前へ”と書かれたポスターを睨み付けた。



 弐の幕



『どうしてこうなったのか良くわからない』


 それが俺の率直な感想だった。


 道を歩いていると突然尿意を催したので、近くの便所に早足で向かったら、前を歩いていた男も便所に入った。そこまではいい。排尿は生理現象なのだから、それを咎める気はさらさらない。


 しかし、これほど広い便所を奥から順に入らないのは、甚だ俺の気分を害した。


 かといって奥から順に詰めていけばいい、ということでもない。やはり、広い便所に三人しかいないことを考えるとそれもまたおかしいのだ。必要なのは適度な距離感であり、適切なパーソナルスペースなのだ。


 故に俺は一番左で用を足そうとした。一番奥を最初にいた男が。真ん中を俺の前にいた男が。ここまできれいになるとは思っていないが、それでもこれに近しい形になると思っていたのだ。


 それが一体全体どういうことなのだ? 何故一番出口に近い俺の方に集まる? 


 中でも、理解し難いのは最初に便所にいた男だ。この男はどうして用を足していないのだ! 出口に向かって歩いているのなら、もう出るものだと思うに決まっているだろうが! わかっていたならば、俺は迷いなく奥の方で用を足していた。


 加えてこの男、とにかく排尿の音が大きい。それはもう俺の音を掻き消すくらいに大きい。最早聞かせているのでは、と勘繰ってしまうほどに大きい。俺は、男の音など聞きたくもないし――これは男女関係ない――、自分のも聞かせたくない。


 正直、小便器にも音を掻き消すボタンを付けて欲しいものだ。ボタンを押せば、合戦開始の合図みたいに、法螺貝の低い笛の音など流れればいいのに、と実は本気で思っている。


 俺は何を言っているのだろうか。こんな馬鹿げたことを考えている暇があるのなら、さっさと用を済ませればいいのだ。


 しかし、一番腹が立つのは俺の前を歩いていた男だろう。この男、便所に入ると迷いなく入り口から二番目の小便器を陣取ったのだ。最早、意味がわからない。何故一つ空けた? お前は何をしたい?


 男が二番目の小便器と向かい合ったときには、俺は既に一番左の便器にしようと一歩踏み出していたわけで、それを隣に男がいるから、などという理由で場所を変えるのも何だか腹立たしい。


 俺は憤然と眼前に貼られた"もう一歩前へ"と書かれたポスターを眺めて気持ちを落ち着けることにした。これは例外だ、何にでもある数少ない例外なんだ、と思い込もうとした。


 それがどうだ。俺が、折角横の男のことは忘れよう、それがいい、と自問しているとき、横の男はあろうことか俺を煽ってきたのだ。


 右目の隅に憎たらしい顔が映り、俺はそれを極力無視しようと努めたが、わざとらしくされた大きな咳払いに、俺はつい舌打ちをして睨み付けてしまった。


 しまった、と毒づいてももう遅い。吐いてしまった舌打ちは、明らかに隣の男に聞かれてしまい、眉をひそませた男と目があってしまった。すぐに逸らしたので、大事にならないと思うが、それでも気分がいいものではなかった。


 俺は黙ってポスターを見て気持ちを落ち着かせることにした。



 参の幕



『どうしてこうなったのか良くわからない』


 それが僕の率直な感想だった。


 潔癖症である僕は、普段公衆便所など死んでも利用しないと心に誓っていたのだが、今日に限って耐え難い尿意に襲われてしまい、背に腹は代えられぬと飛び込んだ次第だった。


 しかし、潔癖症は僕の性であり一時の尿意でどうこう出来る問題ではない。僕は入りたくもない公衆便所で右往左往する羽目になったのだった。


 最初の内は、何処が一番綺麗な便器だろうか、と一つずつ検分して見たけれども、公衆便所の小便器などに清潔さを求めること自体間違っている気付いただけだった。


 誰のともわからない尿に濡れた小便器を見るだけで吐き気がして、僕は個室で済まそうとも考えた。座るのは論外だったので、立ってしようとしたのだが、便器の蓋が上がっていないことに気が付いて、結局出来なかった。


 蓋を持ち上げればいいだろうって? 潔癖症である僕に垢や汚れの付いた蓋を持ち上げろって? そもそも、公衆便所に入ることが苦行なのにこれ以上の苦行を積んでどうしろというつもりだ。僕は釈迦じゃない。


 その内、僕の尿意は立っているだけでは我慢できなくなり、動いて気を紛らせなければ漏れそうになるくらいまで高まった。全身を便器に囲まれて便所内を行ったり来たりし始めた。


 その時だった。誰かがこの便所に入ってくる気配を感じた。生来の恥ずかしがり屋でもある僕は、こんな姿を誰かに晒せる筈もなかった。一番奥にいた僕は、数ある小便器の中から比較的綺麗な左から三番目の小便器に立った。


 そうして、この不可思議な景色が出来上がった。


 僕は隣を窺えなかった。明らかに空気の悪さを感じたし――論じること勿れ。便所の空気がいい筈がない――、二人の静かに小便器に打ち付けるあの音が、僕を詰問しているような気がした――被害妄想だとは言わせない――。


 実際、僕はあの音に乗せて僅かばかりの謝罪をしていた。せめてこの音の続く限りは、彼らに謝ろう、としていた。こうなったのも僕の性格に起因しているのだし、出来るだけ無様な姿を晒すまいと、努めて音を立てた。


 馬鹿なのかと思われるかもしれないが、不機嫌さを隠そうともしない二人に、僕が口を利ける筈もない訳で、どうやってこの不手際を謝罪しようと考えた末の結果なのだ。馬鹿だと罵る前に、僕の置かれた状況を考えてみるべきではなかろうか?


 とはいえ、僕にも分からないことがある。確かに、この状況を作ったのは僕かもしれない。だが、隣の男の人はまだしも一番左の男の人は、どうしてあんなところで用を足そうと思ったのであろうか。


 ただでさえ汚い公衆便所で、わざわざ狭いところを選ぶ気が知れない。いくら僕が変人だからと言ってそれくらいの分別はある。宣言しよう、一番左の男の頭はおかしい、と。


 僕が言えたことではないのかもしれないけれども、しかし変人の僕だからこそ言えることではないだろうか。


 僕は最大限の謝罪を込めて、ポスターの通り、”もう一歩前へ”踏み出した。



 第四幕



 三人の男たちはほとんど同時に用を終えると、三つ並んだ洗面台で手を洗い、公衆便所を後にした。彼らは終始無言だった。誰も口を利かず、ただ何事もなかったかのように振る舞いながら、各々の方向へ去っていった。


 公衆便所には誰もいなくなり、流れる水の音だけが便所内を木霊した。


 左三つの小便器だけ、嫌になるほど煩かった。

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