第2話 裸婦像、後ろから見るか、前から見るかVer.1
午後の四時半。もう少しで美術館が閉館する。私は一人で絵画を見に来ていた。
そろそろ帰ろうと身を翻し、幾つかの展示コーナーを通り過ぎる。そのとき、私の視界の隅の方に不自然なものを確認した。そちらへ目を向けると、背中を惜しげもなく晒した裸婦像がスポットライトに照らされていた。
おや、と私は立ち止まった。
「おかしなものがある」
裸婦像を収めている額と壁の隙間に一通の手紙が挟み込まれてあった。
私の心臓は、何もしていないのに悪戯を仕込む子供のように早鐘を打った。どうもあの手紙は私へ向けられたもののような気がしてならなかった。宛名も差出人も書かれていない手紙であるにも関わらず、私はそう確信した。辺りを見回し誰もいないことを確認すると、そっと手紙を抜き取った。
やはり、裏も表も変哲のない封筒である。私は封蝋を剥がし、三つ折りにされた便箋を抜いて広げてみた。そこには鉛筆で、
『私は彼女の前にいる』
と走り書きされていた。
「んな馬鹿な」
絵画をまじまじと眺める。そして、口では悪態を吐きながらも、こんな手紙を半ば本気にしている自分に気付かされた。
何をしているのだ私は、と自問してももう遅い。一度芽生えた疑念は私の内を瞬く間に覆い尽くす。名前もわからない彼女の輪郭を目で辿り、少しでも彼女の向こうに潜んでいるやも知れない某かの面影に目を凝らした。
が、何も見えるはずもない。この手紙は誰かの悪戯に決まっている。そのようなものに騙されかけた私が恥ずかしい。恥ずかしい筈なのだが、周囲に誰もいないせいか、本当にいないのかどうかもう少しだけ確かめてみたい、という欲求に駈られた。
これはあくまで確認だ、と大義名分をでっち上げ、脳内では無理だと分かっているにも関わらず、裸婦像を右から左から注意深く観察する。案の定何かが見えるわけでもない。背景に見えるのは緑の深い森林であり、それ以外の何物でもない。
私は完全に飲み込まれていた。これまで、幾枚もの絵画を鑑賞してきた私が、たった一枚の裸婦像に圧倒されていた。誰にあの九文字に引きずり込まれたのだと言えよう。だが、それが事実だった。それがなければ私はこの裸婦像を素通りしていたに違いない。この手紙が私を惹き付けたのだ。
して、この手紙の差出人は誰なのであろうか。お世辞にも綺麗とは言えない文字だ。一つ一つのバランスは悪いし、形も歪である。それに、私でも気がつけたくらいには目立つ置き方のされていたのだから、もし私以外の人がここを通ったのなら気が付くはずだ。故に置かれてからそう時間の経っていないことが窺える。
私同様、閉館間際まで残っていた者による仕業だということは容易に想像できる。しかし、このようなことをする意図が読み取れない。私をここまで惹き付けて何をさせたいのだろうか。いや、待つのだ。何もこの手紙は私宛ではないのではないか?
始めの内こそ私宛だと確信していたものの、そう考えてみると途端に自信がなくなってきた。すると、私は誰宛とも知らぬ手紙を勝手に引き抜き、あろうことか中身を盗み見た挙げ句、勝手に裸婦像の虜になったというのか?
実に滑稽な話である。これでは私は道化師ではないか。ハッ! 今にも本当の受取人が来るのではなかろうか。私の持った手紙を指差して、これは私のものだと静かに宣言するのではなかろうか。
少し落ち着こう。これはただの裸婦像だ。裸婦の後ろに誰かが描かれている訳がない。描く意味がない。描いたところで表からは見えないのだからな。とはいえ、それがわかっていながら私はここまで執着したのも事実だ。だが、このことはきっぱりと忘れるべきだ。この裸婦像は裸婦像。芸術作品だ。動くわけがない。
私は深呼吸をすると、もう一度裸婦像に向かい合った。手紙を折り畳み、封筒に仕舞う。封だけはどうしようもないのでそのままに、そっと元の位置に戻した。丁度、閉館五分前を告げるアナウンスが鳴った。私は帰ることにした。
「明日もう一度来て確かめよう」
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