第5話 思考の同じ男

 ある男がこちらへ近づいてきた。私は狭い路地に体をぴったりとくっつけて道を譲った。道幅が狭いとこうなるから困る、と私は内心愚痴を良いながら、それをおくびにも出さず、にこりと会釈をしたけれども、それでも向こうには私の不平が伝わったようで、すれ違い様に眉をひそめた。


 しまった、と舌打ちをしたのも良くなかった。大の男二人が体を縦にしないと通れない、馬鹿みたいに狭い路地で、向かい合ったまま二人は硬直した。私は過去の私を叱責したくなった。


 そもそも、なぜ私は男の方に体を向けたのだ。別に、壁と対面しても良かったじゃないか。いや、寧ろその方が良いじゃないか。お互いの表情を見ることなく事態を穏便に済ませられるのに、そうしなかったのは何か訳でもあるのだろうか。


 いやない。私は何も考えず体を男の方に向けたのだ。強いて理由を付け加えるならば、利き脚が右足だったからだろう。故に右の壁に右足を先に出した。


 だが悲観してはいけない。ここでたった一つ良かったことは、私と男が双方右利きだったことだ。もしどちらか片方が左利きだったならば、嫌になるほど狭い路地でむさ苦しい男が二人、同じ壁に背中をつけながら対面する、という世にも奇妙で珍妙な景色が出来上がっていた。


 それは精神衛生状甚だしくよろしくない。極めて不衛生である。私はそれを避けられただけでも神に感謝せねばならない。普段は初詣やお守りを買いに行くくらいしか縁のない神様だけれども、私は唐突に神様と親しくなったような気がした。


 無論、それが自分勝手なご都合主義だということは存分に理解している。しかし、私は無心論者ではない。ならば、好きなときに神に感謝してもバチは当たるまい。


 と、まあ余談は置いておき、私は至急この状況を解決せねばならなかった。


 鼻息のかかる距離で互いに眉間に皺を寄せ、こんな阿呆の如き形相の仁王像は見たことがないとはいえ、私と男の仁王像は本物よりも仕事をする自信がある。本物は悪しき者でも良き者でものべつまくなしに通してしまうが、私たち仁王像はどんな者でも通しはしない。こうやって向かい合って睨んでいれば、百戦無敗の門番だ。


 私は馬鹿なのだろうか。何が門番であろうか。何が仁王像であろうか。馬鹿が二人、向かい合って鼻息を掛け合っているだけではないか! 誰でもいい。誰か私を助けてくれ。このままでは気が狂いそうだ。


 待て、その前に一つ考慮しなければならないことがある。私と向かい合っているこの男は、何故こんな狭い路地を、よりにもよって今日のこの時間に通ろうとしてるのだろうか。


 勿論、私にはれっきとした理由がある。ここを通れば職場に五分早く着くからだ。気が滅入るほど時間を大切にする時間社会の現代に於いて、この五分は大きい。


 では、この男はそれまで私しか使ってこなかったこの路地の素晴らしさに気がついたとでも言うのだろうか。男も私が来た方に勤め先があり、ここを通れば通勤時間を幾分か短縮出来るとでも言うのだろうか。


 であるらば、私の方が路地使用歴は長いわけで、つまり先輩になる。そうなると、男がこの状況を打破しなくてはならないはずだ。先輩である私の顔を立てて、これはこれは路地裏先輩の邪魔をしてしまった失敬失敬、と軽く謝ってくれても良いのではないだろうか?


 私は不意に気が大きくなった。この男に対する、路地裏先輩としての優越感が肥大化し胸を張った。すると、男も胸を張った。なるほど中々生意気な後輩である。先輩である私を差し置いて、自らの優位性を主張するとは、後輩の風上にも置けない輩だ。


 そのような態度をとるのならば仕方がない。私は毅然とした顔つきで、更に胸を張った。やはり、男も胸を張った。


 私たちは暫くそうしていた。無言で睨み合いながら、ここで目を逸らしたら敗北者になる、という暗黙の了解が共通認識として互いの中にあった。もうどれくらいそうしていたか分からない。


「何してるんですか?」


 という声が、私の入ってきた方から聞こえて振り向くと、若いOLが不審そうに私たちを眼差していた。途端に、私と男はこれまでの不満も優越感も、何もかも忘れて、ポカンとして互いに目を見た。するとそこには私がいた。私とそっくりな格好をして、そっくりな髪型の男が間抜けな顔をして私を見ていた。


 私は急に恥ずかしくなった。何か言い訳をしようと頭の中を掻き回して言葉を探したけれども、出てくるのは、いや、だの、えーとだの、訳の分からない言葉だった。ようやく見つけ出した言葉を言おうと、OLを見返したがもうそこにはOLはおらず、何事もなかったかのようにいつもの路地だった。


 私と男は互いに眼差した。その目は如何にも私の目だった。

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