片腕の男

私は定年を迎えてから趣味で登山をするようになりましてね。あの日も1人で登っていたんです。


しばらく歩いているとトイレに行きたくなりました。でも休憩所をだいぶ前に通り過ぎていましたから困りましたよ。


その日は平日で他の登山客はほとんどいませんでしたから、その辺で用を足すこともできましたが、山を汚したくありませんでした。


すると、ちょうどその時、山小屋が一軒見えてきたのです。それに、窓越しにチラッと若い男性の姿が見えましたからご在宅のようです。


なんて幸運なんだと思いましたが、今から思うとこれが不幸の始まりでしたね。


「すみません、トイレをお借りしたいのですが…」


戸をノックすると、しばらく反応がありませんでした。


しかし、人がいることを知っていた私は再度呼び掛けました。


「旦那さん、本当にトイレだけお借りしたら去りますので。お願いできませんか。」


すると私を突き飛ばすように若い男が飛び出してきました。


その男はマスクをしていて、顔はよく見えませんでしたが、右腕の付け根のところを抑えており、かなり出血しているようでした。


「どうかされたのですか?」


「ちょっと怪我をしてしまいました。でも大丈夫です。自力で下まで歩きます。トイレならどうぞ使ってください。」


そう言うと、その男性は早々と去ってしまいました。私は不思議に思いましたが、あまり余裕がなかったので、お言葉に甘えてトイレを使わせてもらったのです。


そして、トイレを出て山小屋をあとにしよう思ったのですが、その前にリビングの方をチラッと覗いてみました。


同居者がいたら、その方にお礼を言ってから出ようと思いまして。


そして大変驚きましたよ。


リビングにはブルーシートが広げられ、その上で身体中血だらけになった"片腕の男"が死んでいたんです。


私はとっさに警察を呼ばなければと思いましたが、残念ながら携帯は電波が届きませんでした。


この山小屋に電話線は引かれていないようなので、急いで下山することにしたんです。


驚きで心臓が激しく鼓動し、痛むほどでした。そんな中、必死で下山するとすぐに警察に事情を話しました。


最初は警察も疑うようでしたが、私があまりに必死に話すものですから、急いで現地に向かうことになりました。


私が山小屋まで案内しなければなりませんでした。正直もうヘトヘトでしたが、人が死んでいましたからね。なるべく早く警察を送り届けようと必死に歩きましたよ。


そして、山小屋についたんです。


「ここです!リビングに行ってください。」


その場で膝をついてしまった私を置いて、警察達は家に突入していきました。


しかし、しばらくすると彼らが首をかしげながら出てきました。


私は訊ねました。

「男性の状態はどうでしたか?」


「それが、片腕の死体なんてありませんでしたよ。」


「えっ」


私は急いでリビングに入りました。たしかに死体はブルーシートもろとも消えていたのです。


私は死体がたしかに存在したと主張しました。それにリビングから玄関へ続く廊下には至るところに血痕がありましたから、すぐに鑑識が調べてくれたのです。


調査の結果、私が見た死体はこの山小屋に住む「高崎慎一」という男だということが明らかになりました。


高崎慎一は数年前に弟の慎二と、この山小屋での生活を始めたようです。


私が見た死体には右腕がありませんでしたが、兄の慎一は幼少期の事故で右腕を失っていました。


つまり、リビングで死んでいたのが兄の慎一で、玄関ですれ違った五体満足の男が、弟の慎二ということになります。


2人とも連絡が取れなかったため、弟の慎二が重要参考人として、指名手配されることになりました。


警察は弟の慎二が何らかのトラブルから兄を殺害し、死体を遺棄したと睨んでいるのです。


ちなみに、廊下に残された血痕は全て弟の慎二のものでしたが、兄を殺害する際に抵抗を受け、腕を怪我したと考えれば腑に落ちます。


そして、この事件から長い年月が経ちましたが、未だに弟の慎二も、兄の慎一の死体も見つかっていません。


でも、私は間違いなく死体を見たはずなのです。


一体、弟の慎二は今どこに身を潜めているのでしょうかねぇ。



*****



誰にも言わないでくれよ。


実はさ、俺は昔、人を殺したことがあるんだ。


山小屋で暮らしている時にさ、実の兄弟をこの手で殺したんだよ。


入念な計画を立てたよ。


その日は登山客が少ない平日。


俺はあいつにDIYをするとか嘘をついて、リビングにブルーシートを広げると、後ろから背中を何度も刺したんだ。


ここまでは順調だったよ。


でもな、その時、登山客が熊よけのために持ってる鈴の音が聞こえたんだ。


咄嗟に窓から覗いたら、じじいと目が合っちまった。


しかも、そのじじいはトイレを使いたいとかで家に来やがったんだ。


最初は無視してたんだけどな、目が合ってるから居るのがバレてたわけだ。ずっと玄関で呼び掛けてくるんだよ。


下手したら勝手に入ってくるんじゃないかと焦った俺は、先に勝負に出たんだ。


"弟"の右腕を切り落とすと、身体中を傷つけて、腕の傷を目立たなくしたんだ。


そして、俺のジャケットの袖口から、その右腕を通すと、マスクで顔を覆って弟の振りをして飛び出したんだ。


最初はじじいも俺の腕の出血に驚いていたようだけどさ。


1人で下るので大丈夫ですって言ったら、納得してトイレに駆け込んでいったよ。


俺はその後、物陰に隠れて待っていたんだ。


すると、そのじじいが慌てた様子で山小屋を出てったからさ、死体を回収してじじいとは別のルートで山を下りたんだ。


我ながら、いい判断をしたものだと思うよ。


警察はじじいの証言をもとに、俺が殺されていたものだと思って、弟を手配し続けているんだからな。


全てを話し終えると、片腕の男は満足げな笑みを浮かべながら、その場を去っていった。




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