第53話 ディスコンティニュード

 伏野ふしの自身は、その時のことを今どう思っているのだろうかと、矢切やぎりにはそれがひっかかった。

 会社を辞めた後に仕事を求めるにしても、新たなゲーム会社に中途採用で勤めるのではなく、派遣のプランナーという道を選択したことに、どんな想いがあるのだろうか……。


 そして自分自身。矢切やぎりたけしという男は、伏野から、いや、他のスタッフからどう思われているのだろう。

 自分は他の皆と同じように変われたのだろうか。

 我が身を振り返ってみると、過去参加したどのプロジェクトよりも、このプロジェクトほど仕事に熱中したことは無かったことに矢切は気づく。


 最初はリスクや責任を背負うのが嫌で、不承不承引き受けたディレクターだった。

 伏野が参加したら、彼に押しつけてしまおう、自分はやりたいことだけをやろうと思っていた。

 だが、気がつけば伏野ふしの誠太郎せいたろうという男はチームをハンドリングしながら、ゲームの方向性を矢切から引き出し、それを言語化し、概要として整え、仕様化して実装するまでの段取りを作った。


 矢切武という男をディレクターとして認めてくれ、その力を引き出して実装までに至る道筋をつけたその手腕は見事だと改めて矢切は思った。

 彼がいなければ、自分はこのプロジェクトでも今までと同じように、難易度の低い、それでいてそれすら何も考えずに仕様書化していた、ただの作業員としての一プランナーに過ぎなくなっていただろう。


『何せ、使えないやつらの集まりだからなあ。』


 あの時耳にした言葉がふと矢切の頭をよぎった時に、矢切は瀬野木せのぎ明日香あすかと約束したシティホテルに着いていた。

 ジャケットを着てきて良かったと思いながらハーフコートを脱いでホテルに入ると、矢切はラウンジのバーへと向かう。


 カウンターの左端に瀬野木明日香は座っていた。

 この日も、ヒールに黒地のシックなワンピースを身を包み、ベージュの上着を重ねて、清楚な雰囲気の中にもどこか色気を感じさせる雰囲気を漂わせている。

 矢切はそっと彼女の隣に座りながら、お待たせしましたと言った。

 瀬野木明日香はウイスキーをロックで飲んでいた。普段はビールかカクテルなので珍しいなと思いながら、矢切は自分も同じくウイスキーのロックを注文する。


「すいません、急にお呼びだてして」

「いえ、俺も会いたかったですから」


 それきり沈黙のとばりがおりて、二人ともしばらく何も話さなかった。

 彼女に酔っている気配はない。

 矢切は、今仕事の追い込み時期なんですと言った。


「あと四週間ほどで量産に入るかどうかのチェック、マスターチェックって言うんですけど、そこに向けてデバッグ……つまり、不具合がないかどうかをチェックを行っている時期なんです」


 ゲームにもゲーム業界にも詳しくはない瀬野木明日香に、矢切は説明した。


「でもプロデューサーから仕様を追加しろっていう指示が来まして、それを考えたものの、チームのみんなからは納期なんて考えなくていいからやりたいことを出せと言われて。今更何を言っているんだと。僕はもう今の案でいいと思ってるんですが」


 そこで言葉を句切って、ウイスキーを一口飲み込む。


「今更何を言っているのかというのは、私にも言えるかもしれません」


 瀬野木明日香がそう言った時、矢切は覚悟を決める時が来たなと思った。今の発言、雰囲気。すべてが矢切にとって好ましからざる結末に向けて、滑り出していた。


「それは、あの男の人のことですか」


 矢切が自分の手の中のグラスに目を向けたまま問うと、瀬野木明日香は頷いてから、実はあの人は夫なんですと言った。


「ぶふっ」


 矢切は口にしたウイスキーにむせた。


 実は自分は結婚している。あの男性は夫で、同い年の三十六才。

 彼とは仕事を通して知り合い、結婚してからもう八年になる。

 だが自分たちは現在冷え切った夫婦だ。

 きっかけは子供ができないことだった。


 二人とも子供を望みつつ、しかし四年経っても妊娠はかなわなかった。

 早めに手を打とうと、二人でいわゆる妊活に励んだ時に、非情な現実が待っていた。

 自分は非常に妊娠しにくい体質で、自然妊娠はほぼ望めないだろうというのが、医者の診断結果だった。

 女としてこれほどショックを受けたことはない。

 だが夫は優しく慰めてくれ、人工授精はどうかという医者の提案を受け入れてくれた。

 こうして、不妊治療と共に人工授精が始まった。

 だが、数度に渡る人工授精も、結局は失敗に終わった。

 自分も苦しかったが、夫も苦しかったに違いない。

 

 三年にわたる治療は結局実を結ぶことはなく、昨年、二人で子供をあきらめるという決断をした。

 それからしばらくしてから、夫にどこか浮気とおぼしき影を感じるようになった。

 夫は有名な広告代理店に勤務している。出張や接待も頻繁だ。

 若く華やかな女性との出会いも多い。

 一度疑いを抱いてしまうと、夫に対する猜疑心は強くなるばかりだった。

 けんかも増えてそれと比例するように夫も自分に距離を取り始め、そうなると自分は夫への憎しみにも似た感情が生まれ、復讐してやりたいと考えるようになった。


 自分も浮気をしてやろう。

 だが、出会い系サイトなどで出会いを求めるのは怖かったので、どうしたものかと

思っていた。

 ともかく、町に出れば昔から声をかけられる多かったので、そこを期待して夜な夜な町へ繰り出すようになった。

 だが、いざとなると誘いの声に乗るのはやはり怖くて、悶々とする日が続いていた……。


「そんな時に、矢切さんにお会いしたんです」


 あの泥酔した日か……。

 矢切は暗澹あんたんたる気持ちを腹に抱えて、彼女の話を聞いていた。

 あの男が彼氏という想像まではしていたが、それを一足に飛び超え、あれは旦那だという。

 自分は騙されていたのだと思おうとしたが、具体的に騙されたことなど何もないということに気づく。

 彼女と知り合い、たまに会ってどこかへ行くようになった。それだけだ。

 そうだ、俺は騙されてなどいないと矢切は思った。


 あるのは、目の前にいる瀬野木明日香という女性を自分は好きだという気持ちだけだった。

 浮かれていたのは確かだが、彼女を好きになってそれまでの自分を変えようとしたことはまぎれもない事実であり、誰かを好きになってその人のために自分を変えようとまで思ったのは初めてのことだった。


 子どもができない。それが何だというのか。

 それで瀬野木明日香という女性にどんな傷がつくというのか。

 矢切は今、彼女という存在を守りたいと思った。

 今まで抱いていた、自分と彼女を比較してどうこうという視点は抜け落ちて、矢切は瀬野木明日香の横顔、その目を見つめて言った。


「僕は、明日香さんが好きです」


 彼女のことを名で呼んだのは初めてだった。

 それだけ言うと、矢切は視線を正面の、お酒が整然と並ぶ棚に移して、黙ってウイスキーを飲で舌の上で転がし、そのスモーキーな苦みを味わう。

 二人とも何も話さないまま時間が過ぎ、ウイスキーを飲み干した時、矢切はふと自分の手の甲に暖かみを感じた。

 瀬野木明日香が、手を重ねてきたのだった。


「実は、上に部屋をとってあるんです。また今日夫とけんかをしてしまって、腹が立って家を出てきて」


 と彼女は言った。


 瀬野木明日香に手を引かれる形で矢切はホテルのエレベータに乗ったが、彼女のとった部屋のある十階で降りると、心臓の鼓動の音が彼女に聞こえているのではないかと危惧した。

 二人で部屋に入ってベッドのそばまで歩み寄り、瀬野木明日香が抱きついてきた時に、矢切は自分の心臓の音をここまで聞いたことはないと思った。

 彼女は矢切の胸に頭を寄せ、その甘い香りと暖かな感触を感じて、矢切もおずおず、という体で両手を彼女の背中に回してそっと抱きしめる。

 彼女をこの両手で抱くという妄想は、何千回となくしていた矢切だったが、それが現実のものになると、その感触の心地よさに思わず両手に力が入ってしまった。


「あっ……」


 そう言って一瞬身を固くした瀬野木明日香に、矢切はすいません、と反射的に謝ってしまったが、身体は離さない。

 彼女はうなずいて、また矢切の胸に額をくっつけた。


 矢切は女を知らない。

 キスすら経験なく、風俗にも行ったことがないまま四十五歳という年齢を迎えていた。

 もちろん健康的な男性であるから性欲はあるが、大学時代から抱いていた「どうせなら最初は自分の好きな、とびきりすてきな人と」という願望をこじらせたまま、恋人などできたこともなくこの年齢まで童貞で来てしまっている。

 それだけに、自分の好きになった女性とホテルの一室で抱き合っているこの状況のもたらす熱と興奮は、一層強いものになっていた。


 かわいい。いいにおいがする。やわらかい。あったかい。

 矢切は言語化できない瀬野木明日から得られる感触に促されるまま、両手で彼女のほおを優しく挟むと、彼女は矢切の目を見てから目を瞑った。


 (ついに俺は)


 今、望みのものが手の内にあるのだ。生きてて良かった。

 これからの「流れ」を想像しながら、矢切はうまくできるだろうか、経験がないとばれないだろうかと、めまぐるしく頭を回転させていく。

 ええい、ままよ、なるようになれ、と瀬野木明日香の顔を見た。

 目を瞑っているのは唇を許してくれているのだということくらいは矢切にも分かる。


 優しく、優しくだぞ。

 そう自分に言い聞かせながら、矢切はまた両手で、今度はそっと彼女を抱き寄せ、自分の唇を彼女のそれに寄せていこうとした。

 その時矢切は瀬野木明日香の表情が、固いことに気がついたのだった。

 緊張からくるものではないのだと瞬時に悟る。

 同時に両手から伝わる彼女の身体もまた固くなったことも伝わった。


 矢切は悟った。

 今日出会ってから今まで、瀬野木明日香は一度も本当に笑ってはいないのだ。

 そして今のこの表情は、彼女が自分を好きで身体を許そうとしてくれているのではないのだということを、如実に物語っている。

 言ってみれば、彼女は夫へのあてつけに、自棄になっているのだ。


 それを矢切は、瀬野木明日香があの男、彼女の夫といた時に見せた様な笑顔を思い出すことで瞬時に悟った。

 自分といた時には見せたことがないあの笑顔――。


 (けど、だからどうした?)


 現にこうして、彼女は俺に身体を預けてくれている。

 そして、自分は彼女のことが好きだ。愛していると言っていい。

 望むなら結婚したい。

 そのためなら慰謝料などいくらでも払ってやる。

 彼女を抱けるなら。面倒ごとなぞ屁でもない――。


 矢切は、衝動のまま、瀬野木明日香をベッドに押し倒した。

 驚いた彼女は、さらに身を固くしたが、矢切が見つめながらその両手を押さえつけると、再び目を閉じた。

 まるで、観念しているかのように目を瞑ったその顔は、乱れた長い黒髪がかかって、なおのこと矢切を興奮させた。

 その唇も、白い首筋も、柔らな隆起を描く胸の膨らみも、これらを自分のものにできるのだと目に力が入る。

 それから彼女がふと、顔を横に向けて恥ずかしそうに言った。


「シャワー、浴びてきていいですか……?」

「は、はい、もちろん」


 矢切が慌てて彼女から離れると、瀬野木明日香はそっと身体を起こして、バスルームへ入っていった。

 矢切は、彼女の後で自分もシャワーで身体を洗わなければと考え、ジャケットを脱ぐと、シャツの胸ポケットに入っている紙に気づいた。

 仕事上がりの間際に伏野から渡されたものである。

 そこには、『放浪モード』を通しプレイして気になった調整方針の箇所と、それに対する対策案が過剰書きと手書きの図解で羅列されていた。


「お待たせしました……」


 瀬野木明日香がバスルームから出てきた。

 間接照明の中、湯気をまとい濡れた髪が、一層彼女を妖しく、美しく見せて、矢切の目を引き込む。

 だが、矢切はジャケットの上にハーフコートを羽織り、ベッドに腰かけていた。


「矢切さん……?」


 瀬野木明日はバスローブのまま両手で胸元を守るように腕組みをして、矢切に近づいた。


「どうかされました?」


 矢切は言った。


「旦那さんのこと、まだ好きなら、話し合ったほうがいいと思います」 


 矢切は思いついたことを片っ端から口にした。

 旦那さんが本当に浮気をしているのか、まずはその事実の確認が大事なのではないか、何よりも旦那さんのことがまだ好きなのであれば、その気持ちを正直に伝えたほうがいい……。


「明日香さんにまだ好きだって言われたら、旦那さんの気持ちもまた変わりますよ」


 矢切はベッドから立ち上がり、瀬野木明日香に向き直った。


「もう、会えないと思います。俺は――」


 とっさに矢切の頭に浮かんだのは、あの狭いオフィスだった。


「俺は、ゲームを作らないといけないので」


 矢切は瀬野木明日香に向かって頭を下げた。


「今までありがとうございました」


 そう言うと、部屋から出て行った。


 駅までの道を歩きながら、矢切は自分のとった意気地なしとしか思えない行動を、しかし冷静に振り返っていた。

 結局、俺は逃げたのだと矢切は思う。

 彼女が自分を好きでいてくれて身体を許してくれるのではない。

 おそらく彼女はまだ夫のことを愛している。

 となれば、今夜もし自分に抱かれれば、それは後に彼女にとって背負うべき苦しみになってしまうだろう。

 それはいやだ、と矢切は思った。


 瀬野木明日香が安定して幸福な日々が送れるなら、自分は今のままでいいとか、そんな格好のいいことを考えたわけではない。

 彼女の人生の中で自分がネガティブな存在となることが耐えられなかった。

 それだけだった。

 このまま彼女を抱いても、今後幸せな日々は訪れないということを矢切は悟っている。


 (俺は、男としちゃ底辺な部類だからな)


 苦笑する。

 不倫という体裁で関係を持ったとして、瀬野木明日香を幸せにできる自信が、矢切には無かった。

 だが、雑踏の中を駅に向かって歩いていくうちに、彼女を抱きしめた時の感触が蘇り、矢切の頭は徐々に後悔の念が押し寄せてきた。


 もったいない、バカ、アホ、まぬけ、意気地なし、くそ童貞。


 思いつく限りの罵詈雑言が勝手に脳内に次から次へと浮かびながら、矢切は千載一遇どころではないチャンスを、自分から手放した己を呪いながら駅に向かって歩いていく。

 電車に乗ってからは、瀬野木明日香との思い出を反芻はんすうして、なんとすてきな人だったろうかと、再び逃した魚の巨大さを思った。

 そうやって、胸に広がる空白としか呼べない思いをなんとかごまかしていた。

 悲しいはずなのに、涙は出てくる気配もない。


 自分は、やはり人間として必要な感情の何かが欠落していると矢切は思った。

 幼少時以外、泣いた記憶が皆無なのだ。日常生活でもどんな漫画や映画を見ても、悲しいと思っても涙として現れたことは無かった。


 (やっぱり、俺はおかしいのかねえ、人として)


 矢切は、これからの週末はまた暇になるなと思った。

 だが、すぐに瀬野木明日香に言ったことを思いだす。


「俺は、ゲームを作らないといけないので」。


 ああそうだ。俺は、ゲームを作らないと――。


 腕時計を見ると、時刻は二十三時四十五分時過ぎ。

 矢切はトリグラフの、あの狭いオフィスへと向かうために、会社のある駅で電車を降りた。

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