第52話 伏野誠太郎
「え」
あの
「ちょっと信じられないですね。今のあいつからはそんなそぶり全然感じないです」
矢切はそう返した。
伏野は派遣のプランナーとしてきた初日から明るくて、さわやかで、自ら陣頭に立ってプロジェクトを引っ張ってくれた。
彼がいなければ、今頃このプロジェクトはどうなっていたやら、わかったものではない。
「伏野君、一昨年にウチからある会社へ、半年ほど出向に行ってたんですわ。その時に……」
そこまで口にして、祖父戸はまた考え込んだが、やがて意を決したように頷いてから、
当時、会社はなかなかプロジェクトが立ち上がらず、作業がない人員が出てしまっていた。
そんな時、何社か別のゲーム会社が、プランナーが足りないということでケーニヒスティーゲルに出向してもらえる人はいないかと打診をかけてきた。
渡りに船ということで、プランナーのうち、数人が他社へ出向することになった。
モバイルゲームを手がける中小のゲーム開発会社、ケツァルコアトルに出向したのが伏野だ。
ところが現場は、混沌の二字を現実化したような惨状だったらしい。
ある大手メーカーから受けた受託開発の仕事。
タップのみで遊べることをウリとした、スマホのアクションRPG。
仕様書は体裁を成しておらず、何が正しい状態かはドキュメントからは読み取れない。
すでに初期仕様を作成したプランナーは誰一人いなかった。
混沌とした仕様書のままで無理矢理実装されたゲームは、データ構造が複雑で、全容を把握できている人間は一人もいない。
一つのクエストデータを追加するだけでも膨大な手間がかかる。
チームとしての体裁はなく、大阪のゲームメーカーのディレクターから、ゲームをいつまでにどうするという情報とタスクが、内容の妥当性も実装にかかる期間も考慮されないまま一方的に投げられるだけ。
後は現場のリーダーをはじめ、スタッフが右往左往しながら必要な情報を集めて地道に作業をつぶし、間に合わない項目が出るたびに「もっと早く言え」とメーカーのプロデューサーから文句を言われる。
そんな状態で、運営として毎月、アップデートとして新機能の開発と、新しいクエストデータの追加を繰り返していた。
ワークフローも整備されておらず、皆が何となくで作業をしてしまうから、オペレーションのミスや実装後の問題も多発し、顧客であるメーカーの信頼もどんどん落ちて、チャットでもタスクを管理するツールでのやりとりも厳しい言葉が投げられていた。
そんな中、開発チームも運営チームも、連日皆終電間際まで、時には泊まり込んで無理矢理何とかしているという惨状で、毎月誰かが辞めたり心身を痛めて休職したり、派遣のプランナーも契約期間終了と同時に去ってしまうような現場であったという。
会社は、人さえつっこめばマシになるだろうと、次々と人を投入するが、それで事態は一向に解決されるはずも無かった。
そこへ伏野がアサインされた。
とりあえず、二ヶ月後の大型のアップデートで実装する、あるイベント用のシステムの仕様を手伝うことになったという。
UIの仕様作成のヘルプということで作業を開始した伏野は、現場の惨状を見ると、手元からでもこの状態を改善しようと試みた。
現場では打ち合わせが行われている様子が無く、すべてチャットでこなされているようだったが、新システムはボリュームもあるし、メーカーのディレクターがやりたいことを仕様として仕組み化すると、検討しなければならない項目も多く、また複雑になりそうだった。
そこで、一緒に仕事をしている正社員に頼んで、関係者を呼んで打ち合わせを行った。
これが、悲劇の始まりだった。
「打ち合わせが、悲劇の始まり?」
いささかその状況が想像できず、矢切は
彼は頷いて、自分は伏野本人と、その時現場にいた、別の会社から出向していたプログラマーから個別に事の
UIに関する打ち合わせは、悲惨な結果に終わった。
参加していたのは、プログラマー、サーバーエンジニア、デザイナーのリーダー、それに新システムの仕様の担当者であるケツァルコアトルのプランナーだったが、セクションリーダーの三名が、UIの仕様についてぼろくそにダメだしを行い、スケジュールはもうとうに過ぎているのだから、早く残りの仕様書を出せと要求した。
その三者の言い様は攻撃的に過ぎ、打ち合わせは夕方から二時間行われたが、非常に険悪な空気だったらしい。
現場はこのセクションリーダー三名がキーマンとなっていて、あらゆる仕様はこの三人のレビューを通過しないと、クライアントに確認に出せないルールになっていた。
伏野はそれでもくじけず、スケジュールを改めて確認すると、本来は先月には仕様書が用意されていなければならないはずが、彼が手をつけるまでは概要書があるのみで、仕様書らしきものはまったくなかったという事実が判明した。
概要書といっても、まだ内容的に穴だらけで、何がどこまで顧客と詰められているのかもあやふやな状態だった。
これは確かにスケジュール的に破綻していると、伏野は正社員のプランナーと共に、現状の説明とスケジュールの見直しを現場のプロジェクトリーダーに要求した。
ここから、事態は加速度的に悪くなっていく。
伏野の要求を受け、スケジュールの見直しが検討されることになったが、「スケジュールの見直しといっても、どれだけ遅れるのかの材料がないと、顧客と交渉できない」というリーダーの要求に従い、伏野はくじけずにまた、打ち合わせを行った。
ダメだしを受けた箇所の修正と、実際に実装を担当するスタッフにも内容を説明してレビューとすりあわせを行い、その上で実装にどれくらいかかるかを確認するのが打ち合わせの目的で、それも打ち合わせ前に最初に明示していたという。
打ち合わせは実装スタッフも交えて、また残念な結果になった。
さらなるダメだしが行われ、膨大な修正点が出た。そこまではいい。
だが、問題だったのは、実装にかかる期間はすでにリーダーに提出済みで、どうして自分らがこの打ち合わせに呼ばれたのか分からない、と三人のリーダーは語ったという。
そして、スケジュールの見直しなど要求したところで、今まで何をしていたのかと怒られるだけだ、いいから早く仕様書をすべて挙げろ……。
アサインされてわずか二週間。
複雑なゲームの全容も把握しきれないまま必死に仕様書を作成していた伏野は、流石に落ちこんだ。そして悟った。
このプロジェクトは、チーム運営の形が無い。
ありとあらゆる情報もタスクも、「流れ」に任せているだけなのだ。
リーダー会議とやらはあるらしいが、何のために何を話しているのかも一向に不明。
もっとも、さして有益なものではないことはリーダーとセクションリーダー三名の間に情報交換が無いことからも容易に想像できた。
伏野はそれでも、さらに関係者や実装担当者と膝詰めで必要な情報を確認したり相談したりしながら、担当分の仕様書を仕上げていく。
だが、その過程で、「今の現場の流れを変えようとしためんどうくさいヤツ」という、明確ではないが、そういうプランナーという印象になってしまった。現場で浮いてしまったのだ。
伏野は、職場で孤立する形になった。
露骨ないじめ、というわけではないが、あまり彼に話しかける者はおらず、仕様書をレビュー用のチャンネルに挙げても意地悪な質問や指摘がチャットで繰り返され、打ち合わせを行っても、それはもはや「吊るし上げ」の場と化したようなものだった。
伏野は急速に活力を失った。
ケーニヒスティーゲルには二週間に一度数時間帰社して報告を挙げたが、企画課の課長は彼からの訴えを聞いても「君が甘いのではないか」とだけ返し、何ら動くことはなかった。
それから伏野は、体調不良での欠勤が増えた。
そして出向から二ヶ月目のある日の朝のことだった。
祖父戸が出勤のために家から出た直後、伏野からメールが届いたという。
「どうしても、会社に行きたくない」と。
祖父戸は慌てて企画課の課長に報告し、管理課の人間から伏野の住所を聞くと、すぐに彼の家へ向かった。
伏野の憔悴した表情に驚いた。
彼は呼吸を荒くして、土下座をして泣いた。
すいません、どうしても行けないんです……。
「僕は、分かった、ええから何も考えずにゆっくりと休めとだけ伝えて、会社に向かいました。企画課の課長に経緯を確認すると、彼は伏野君の勤務時間も把握していないばかりか、SOSに対しても、何ら対応していないことを知りました」
そんなに大変な状況だとは知らなかったというのが課長の言い分である。
会社に報告すると、すぐ動いてくれたのは専務だ。
彼は伏野の勤務時間が月に二百四十時間近くに達しているのを確認すると、即ケツァルコアトルに乗り込み、事の顛末を確認して、金ならいくらでも払ってやる、とにかくウチの社員は金輪際御社には行かせないとまくしたてたという。
専務はさらに心療内科で最短日数で予約を取れるところを探すと、伏野を後日医者に連れて行った。
「適応障害」。
それが、医者が伏野誠太郎に下した診断だった。
医者はこのままでは
結局、先方の労働管理の不行き届きと相殺という形となり、伏野はそのまま休職という形でケツァルコアトルから離れることができた。
だが、本人の受けた心のダメージは相当なものだったらしく、結局、一ヶ月の休職の後、件のゲームがサービス終了の発表をしたころと時を同じくして、彼はケーニヒスティーゲルを自己都合退職するという選択を下した。
「……僕は、時間がかかってもええから、何とか復帰してほしいと思ってましてん。彼ほどプランナーとしてきちんと現場を動かせて、誠実で、プロマネを兼任できるようなチーム運営能力を持っているプランナーはなかなかおらへん。ディレクターというよりは、それを補佐するリードプランナーポジションがベストですやろなあ。そんな彼が会社を辞めるというのは会社にとっての損失やと思うたし、何よりも彼と一緒に仕事がしたかった」
彼と一緒に、初めて手がけたモバイルゲームである、『くちびるハントストリート』は、ある企業のPR目的のゲームだったが、リリースから数年、アップデートが終わった今でもダウンロード数が減らずに広告収益をもたらしている希有なタイトルだ。
何よりも、会社のチーム運営改善のモデルケースとして、この時の経験は貴重な試金石となった。
この時の、チームとして何をすべきかを明確化し、同時に個人の不安や課題をできるだけ潜在化させないことを目的としたチーム運営の形式は、会社のあらゆるプロジェクト進行のスタンダードになっており、ケーニヒスティーゲルの、現在の安定した業績の基盤となっているといってもいい。
「それを僕らとやってくれた伏野君があんなことになってしもて……。正直、ケツァルコアトルの人らに怒鳴りつけたい気持ちでしてん」
伏野君が退職してからは、なかなか連絡をするのも
「そやけど、また仕事に戻って、そんな活躍してくれてるのは嬉しいですわ。矢切さん、今日はええ話、ほんまありがとうございます」
祖父戸はやっと笑顔になって、矢切のグラスに酒を注いでくれた。
だが矢切は、胸の中の、言い様の無い、しかし間違いなく悲しみとしか表現しえない感情が、グラスを持つ手にまで浸透すると、胸の鼓動が速くなるのを抑えることができなかった。
あの伏野が……。
矢切は改めて、あの倉庫と読んで差し支えないオフィスでの伏野を思い返す。
彼はいつも明るく、チームを引っ張り続けてくれた。
そして、何よりも伏野誠太郎は
「この概要、いいですよ」
「これってどういう意味ですか?」
「ここは具体的に、ゲームがどうなればいいんですか?」
「いいですねえ、矢切さん! ゲームのイメージが見えてきましたよ!」
だめなものはだめ、いいものはいいと伏野が認めてくれた時の顔と声を、矢切ははっきりと思い出すことができた。
それで矢切は気持ちが昂ぶったのだ。嬉しくなったのだ。
褒められたのではなく、認められたのだ。
同僚に認められたうれしさが確実に矢切武という一人のプランナーの実力を一段引き上げた。
同時に矢切は伏野のある言葉を思い出す。
まだゲームの方向姓が定まらず、皆バラバラだったころ、矢切は夜、伏野に不安を呈したことがあった。
こんなやる気のない連中ばかりで開発がうまく進むわけはない、と。
だが彼は言った。
「きっと、みんな今までの開発で、くやしいことや辛いこと、悲しいことがたくさんあったんですよ」。
だが、そう言っていた伏野誠太郎自身こそが、直近でもっとも辛く、思い出したくもないような経験を背負い、それを重荷としていたのだ……。
矢切は涙こそ流れなかったが、今の自分の心は間違いなく悲しいと思った。
それから祖父戸との他愛もない話で気持ちを抑えながらも、自分を認めてくれた伏野誠太郎という男を貶めた連中に対する怒りがまた湧いてきたのだった。
会がお開きとなった時、よければ伏野君に自分が会いたがっていると伝えてくれないかと言った祖父戸に、矢切は必ず伝えますと答え、ビールを飲み干した。
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