第51話 アウトバウンド

 オフィスのあるビルの外へ出ると冷たい空気が矢切を覆った。

 気がつけば季節はもう一月も終わろうとしている。

『放浪戦記ガンファルコン』のプロジェクトが新たに始まったのは昨年の二月だったから、もう一年近くの月日が経過しようとしていることになる。

 特にこのプロジェクトにアサインされてからは、時の流れが一際早かったように感じられた。

 プロジェクトのスタート。

 瀬野木せのぎ明日香あすかとの出会い。

 伏野ふしののアサイン。

 プロジェクトの立て直し。

 そして瀬野木明日香との交際……。


 駅に着くまで、瀬野木明日香が何を話そうとしているのかを考えると、ろくでもない想像ばかりが浮かぶ。

 思い返せば彼女と矢切の間には、たまに会ってデートをする間柄以外の何ものでもないのだ。

 そして、あの男との逢瀬と、それを告げた時の彼女の反応は、自分と彼女との関係がどれだけ希薄なのかを再認識させることになった。

 自分は彼女にとってどういう存在なのか。

 それは今夜はっきりとするだろう。

 そして、それは矢切にとって愉快な結末にはなりそうにないことは、自分自身でなんとなく予想がつく。


 矢切はハーフコートのポケットに両手をつっこんで首を振りながら駅の道を歩く。

 瀬野木明日香と交際するようになって、矢切は身の回りのことにも気を遣うようになっていた。

 部屋をきれいにしたり、すぐにやせるはもずないが食事量に気を遣ったり、服装も清潔感に気を配って身ぎれいにするようになり、仕事にもジャケットを羽織って出勤するようになった。

 すべては、瀬野木明日香のためである。

 彼女にふさわしい男になりたいと願い、自分を変えていった。


 瀬野木明日香が自分との交際はただの友達感覚でしか考えておらず、実際はつきあっている男がほかにいるというケースが現在矢切が想像している結果であるが、その仮説にはまだ疑問符がいくつも浮かぶ。

 ただの友達にしては、二週に一度のペースでの逢瀬に応じてくれるというのはやや頻度が高すぎるように思えるし、友達だと思っているのならば、こうして急ぎ会う必要もない。

 ひょっとして、いわゆる「キープ」枠だったのだろうか、いや、自分レベルの男をキープなどする必要はないではないか……。


 デートの時の費用も、矢切が多めに出してはいたものの彼女も必ずお金を出してくれていたし、その態度は極めて控えめであった。

 利用されているという感覚は皆無だ。

 余計に瀬野木明日香の真意がわらかないままで、矢切は何度も下を向いては頭を振る。

 そして答えはこれから出るのだと自分に言い聞かせながら電車に乗ると、ほどなく、電車の窓の向こうの『ルーンハンター』の広告看板が矢切の目に入った。


『ルーンハンター』の新作か……。


『ルーンハンター』は、間違いなくAAAエーエーエータイトルだった。AAAタイトルというものに明確な定義はないが、一応業界では『大ヒットしたタイトル』またはそれを見込んで『膨大な開発費をつぎ込むタイトル』のことと言っていい。

 矢切も何度かプレイしているが、『ルーンハンター』は友人同士など、複数人数で集まって協力プレイをするのが一番面白いと言われており、そんな友人がいない矢切はすぐに止めてしまったゲームである。

 世界規模で約六百万本を売り上げているシリーズで、『HSG』とは何もかもスケールが違いすぎる。

 矢切ではどうやって開発を進めるのか想像すらつかない。


 だが、矢切は、不思議と自分たちの開発している『HSG』は、この『ルーンハンター』にも劣らないクオリティに達しているとの自負を抱いているのだった。

 ゲームには物量がものを言うゲームとそうでないゲームとがあることを、矢切は知っている。

『HSG』は原作にあるアウラ・ハントの魅力をゲームにどう落とし込むかという点がきもだ。ファンに向けてのゲームなのだから。


 そこには、『ルーンハンター』のような、友人や家族と繰り返し何度でも楽しめるようなボリュームや工夫よりも、世界観と共にアウラ・ハントを操作する楽しさ、爽快感、それがゲームとして味わえればいい。

 そして今、それは達成されている。

 コクピット視点にこだわらず、バックビュー視点を追加したのが大正解だった。


 アウラ・ハントの見た目や挙動がはっきりとわかる。

 リアルさを捨て、遊びやすさと挙動を見やすくした結果、面白さが格段に上がった。

 既存の『同盟vs帝国』のような類似ゲームがなぜバックビュー視点にしているのかがよくわかった。


 ステージ数の少なさは、『放浪モード』がカバーしてくれている。

 あれで、原作に出ているキャラクターを集めて部隊を運営していき、各地を転戦していくという原作に則った別の遊びが生まれた。


 ――これは、ファンに刺さる。


 矢切にはすでに自信がある。

 伏野が小うるさく「あまり細かい作業をせず、常にゲームをプレイして方向性を確認してくれ」と言っていた意味とその大事さが今になってよくわかる。

 常に全体を通してゲームに触れてみて、修正してほしいところを伏野に随時相談し、それを彼が注意深く検討してから実装スタッフに相談して反映してくれていった結果が今のゲームの形だった。


 思えば、プロジェクトの最初と今とでは、チームに対する印象もまるで違う。

 百八十度転換したと言っていい。

 矢切は電車に揺られながら、このプロジェクトが始まってからのことを思い返し始める。

 今振り返ると、すさまじい職場環境の変化といえた。

 出向を命じられ、倉庫に無理矢理作ったような狭いオフィスに、お世辞にも協力的とはいえないスタッフ、嫌みなプロデューサーに元のゲームはぼろぼろの状態。

 最初のアルファROMなど、ひどいできだった。

 何よりも、トイレで偶然聞いたあの台詞。


「何せ、使えないやつらの集まりだからなあ」。


 使えない連中、という言葉にひどく衝撃を覚えた。

 そして自分がその範疇はんちゅうにくくられていることが一層矢切のプライドを傷つけた。

 それを見返してやろうと思ったものの、自分自身が使えない連中というくくりに入れられたこと自体に意外さを感じなかったという事実が、他人の評価と心の奥底の自分の評価とに、さほど差異がないことを如実に示していた。


 そして、同僚のスタッフたちも「使えない」という評価に違わない連中、だと思っていた。

 こんな連中とゲーム開発なんてできるか、とすら思った。

 だが、気がつけば同僚たちは、誰もがチームの仲間と呼べるスタッフとなっている。


 金矢かなやけんは、声が大きくて常にこちらを威嚇いかくしてくるような、常に上から目線でめんどくさがりのプログラマーだと思っていた。

 今は、どんな相談にもいやな顔をせず、プログラムセクション全体の視点から相談ごとにのってくれ、また鳥羽とばはらへの指示出しだけではなく目にはつかない地味な作業を広範囲にこなす、頼れる兄貴分のようなリード・プログラマーになった。


 鳥羽とば琉一りゅういちは、一番嫌いな、もっと言うと怖いタイプのプログラマーだった。

 寄らば斬ると言わんばかりの姿勢を目つきと言葉使いの双方で表し、ミスがあろうものならネチネチと攻撃してくる。

 近づきたくないし会話もしたくない。

 やりとりは全部チャットで済ませたいとすら考えていたものだ。

 だが今は、仕様の意図さえ示せば、仕様変更だろうが追加だろうが、妥当性を判断し、納得がいけばすぐに手をつけてくれるし、実装しなければわからないだろうというものも同様だった。

 ミスの指摘も攻撃性が無くなり、淡々としていて、ミス修正の報告に対しては「ありがとうございます」と返すようになっている。

 何より恐るべきはその手の早さであり、『放浪モード』が短期間のうちに実装できたのは彼のスキルによるものが大きい。


 はら才人さいとは、プログラマー陣の中では唯一話しやすくはあったが、いつも自信なさげで声も小さく、頼れないという印象だった。

 だが、UIを任されるようになってからは、眼の色を変えて作業に取り組み、その発言は、声量は小さいが内容が明瞭で自信を感じさせるものになっている。


 真上まかみ剣風けんぷうは、最初は印象薄く、凡百なUIデザイナーだった。

 だが、3Dモデル作成に担当につくや、その磨き上げられたスキルの刃は恐ろしく研ぎ澄まされており、元々あったアウラ・ハントの3Dモデルやモーションのクオリティが格段に上がっていった。

 格納庫のモデルから何から、そのモデリング技術と作業速度の速さがあればこそ、この期間で見た目のクオリティを上げられたといっていい。

 担当が変わってからというもの、発言も明るくなり、態度も柔らかくなった。とにかく仕事が楽しくてしょうがないという状態に見える。


 堀倉ほりくら蘭人らんとは、原と同じく特に印象が無かった。

 エフェクトをはじめとした3D関係の作業を担当としていたが、特に真上が3Dモデルを受け持つようになってからはさらに目立たなくなっていた。

 ところが、UIを手がけるようになってから、潜在化していたセンスやスキルが顕現し、UIの見栄えが格段に良くなった。

 どんな要望も、意図さえ伝えればUIに落とし込んで、原と協力してすぐに画面に反映してくれる。


 林田はやしだ啓文けいぶんは、ノリは良く明るいが、それだけが取り柄の「並」以下のデザイナーだと思っていた。

 いや、それは今でもそうなのだが、彼が自分の担当にこだわらずに、担当を次々と代わってくれたからこそ真上も堀倉も自分の力を発揮できる場を得られたのだ。

 自分の仕事を奪われるというのは、デザイナーに限らず屈辱的なできごとであり、へそを曲げて仕事を譲らないか、非協力的な態度にシフトしても何ら不思議ではなかった。

 だが、林田はポジションを譲って自らは地味なサポートや穴埋めの仕事をコツコツと続けている。

 そこに、自らの最初で最後になるであろうゲーム開発に貢献したいという気持ちがあることを知ったが、それはもう執念と言ってよかった。

 ある意味、もっともこのプロジェクトを成功させたいと思っているのはこの彼なのかもしれない。


 前戸まえと満須雄みすおは、よくいるルーキーの、ゲーム業界に入れただけで満足して自分が特別な仕事をしていると勘違いしているお調子者かと思った。

 だが、キャラクターのアクションに関するかなめを皮膚感覚で掴んでおり、その挙動に関する調整指示は極めて的確だった。

 この種の人材は貴重であることを業界歴が長い矢切は知っており、そのセンスを実はうらやましく思っている。

 だが、彼の本当の価値は、そういったセンスの源である普段の姿からは想像できない、幼少期からの生い立ち、その壮絶さをかけらも感じさせない人となりにあると矢切は感じていた。


 そして、伏野ふしの誠太郎せいたろう

 何年も前、出向先のケーニヒスティーゲルでともに仕事をしたプランナー。真面目だがただそれだけの印象だった。

 今のオフィスで再会した時に派遣のプランナーとなっていた彼の身に起きたことを知ったのは、二ヶ月ほど前のことである。


 矢切は電車から降りて、シティホテルへの道を歩きながら、瀬野木明日香のことを考えるよりもなぜかその時のことを頭の中で再生し始めた。


 二ヶ月前。

 矢切はある休日の日に開催された、ゲーム業界の勉強会なるものに参加した。

『HSG』のプロジェクトに携わって、仕事というものに対して初めて前向きに取り組み始めた矢切は、もっと開発のことを勉強すべきだと、たまたまネットで参加者を募集していた、デバッグの自動化作業をテーマとした勉強会に申し込んだ。


 とにかく、仕事も瀬野木明日香との交際も順調であったから、もっと仕事ができるようになって、彼女と交際するにふさわしい男になるのだと奮起していたのである。

 その会場で、矢切は、伏野が以前在籍していた株式会社ケーニヒスティーゲルのプログラマー、祖父戸そふと廉士れんじと再会したのだった。

 祖父戸そふとは矢切がケーニヒスティーゲルに出向していた時、最初にアサインされたプロジェクトのプログラマーである。

 ほどなく、先方の都合で何人か人の入れ替えがあり、矢切もそのチームから抜けて、伏野がいるチームにアサインされることになった。

 そのため、一緒に仕事をした期間はごくわずかではあるのだが、祖父戸は矢切の事を覚えていてくれ、勉強会の講演と質疑応答が終わり、懇親会への移動時間になった際に、名札を見て話しかけてきてくれたのである。


「やっぱりオストマルクの矢切さんやな。お久しぶりです」


 矢切も少しいかつめなプログラマーである祖父戸のことをすぐに思い出し、二人して懇親会の場に向かった。

 会場となった居酒屋で酒を飲みながら、最初は互いに当たり障り無い話をしていたのだが、矢切は思い切って、実は今、伏野誠太郎君と同じプロジェクトにいるのだと言った。


 先ほどまで柔和だった祖父戸はすぐに顔つきを変え、そうですかと目線をそらした。

 矢切は、今のプロジェクトでは伏野君にとても助けられているのだが、彼が派遣のプランナーになっていたことは意外だった、会社で何かあったのかと胸の内にあることを素直に祖父戸にこぼした。


「伏野君は……」


 やや間を置いてから、祖父戸はそれだけ言って考えこんだ。

 個人の事情を話していいものかどうか、思案しているようだったが、やがて意を決したように頷いてから、ここだけの話にしてもらいたいと真剣な顔をして矢切の目を見た。


「伏野君、実はちょっと心を病んでしもて。それでウチを辞めたんですわ」

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