第41話 林田啓文
ついにやってしまったか、という思いだった。
賃貸のワンルームマンションは、ほぼあらゆる電化製品のコードを抜き、お風呂は一日おき、食事はほぼ一日一食。
インスタント食品が中心となり、たまにありつけるスーパーの半額弁当が生命線だった。
だが、ここのところ、仕事も多くなって遅くまで残業することもあり、スーパーの閉店時間を過ぎての帰宅が多くなってきたことが災いした。
(貯金は、来月の家賃用に残しておいた分があるけど、入院費用を考えるとそれも吹っ飛ぶ。けど入居時に支払った敷金があるはずだから後三ヶ月は大丈夫……。借金は避けたいけど、いざとなったらやむをえないな)
保険か共済に入っておけば良かったと、林田はぼうっとそんなことを考えていた。
三十にして憧れていたゲーム業界にやっと入れたと思ったら、待っていたのはゲーム以外の雑用やウェブ関係の仕事が中心だった。
加えて、林田は自分のデザイナーとしてのセンスが自分で思っているよりもずっと凡庸以下であることが、ペルガモンというお世辞にもハイレベルなデザイナーなどいない会社に居てすらよく分かってしまった。
それでも、ゲーム業界の末端とはいえ現場には居るのだという事実だけが、林田を懸命に働かせた。
いつも陽気に振る舞い、やる気を見せた。
元々、明るくて前向きな性格以外取り柄などないのだから。
二年目の冬辺りから、会社が危ないという噂を聞くようになった。
元々、いわゆるブラック企業体質なうえ、人の退職・中途入社は日常茶飯事で、職場の空気には落ち着きが無い。
そんな現場でも、常に皆を良くも悪くもまとめている
三十代半ばの
そんな江洲は、特に倒産の噂が職場に流れ始めたころに、スタッフ全員を前に、演説をぶった。
皆に不安を与えて申し訳なく思う。
確かに、今会社は苦しい状況にある。
だが、社長以下幹部は必死で金策に走り、また新たな仕事を取りに行っている。
自分はこの会社に愛着がある。
思うところは色々あるだろうが、皆に協力してほしいのは、どんな仕事でも受け、それをやり抜くという姿勢だ。
自分もこれから営業に全力を注ぐので、何とか協力してほしい……。
普段が普段だから、誰も江洲の演説に感銘など受けなかったが、直後にわずかではあったがボーナスが出たこともあってか、一応退職の波は収まり、ほどなく『ガンファルコン』の仕事を受託することになったのだった。
江洲をディレクターとしてチームが組まれ、そして林田はそこに入ることはできなかった。
ところが、開発は思ったように進行しなかった様で、チームのスタッフからは続々と不満の声が漏れ始めた。
そして江洲は別のスタッフに無理矢理ディレクターを譲り、また営業へ出ると言って外回りを始めたのである。
やがて、再び会社が危ないという噂が現場に立ち始めるのと、江洲が退職したのはほぼ同じタイミングだった。
江洲だけではなく、彼と仲の良かった幹部やスタッフの何人かが一斉に退職していた。
彼らは今までの取引先である中規模のゲーム会社の子会社として新設されるスタジオへ、設立メンバーとして転職していったのである。
「やってられるか!」
残されたスタッフらは当然、ふざけるなと憤る。
あれだけ普段は偉そうな態度で、ご立派な演説までぶって皆でがんばろうと言って他人に無理を強いていた人間が、いざとなったら真っ先に好条件の転職先へ逃げた。
残されたスタッフらは『ガンファルコン』の開発途上で、専務らの説得もまったく効果無く次々と退職していき、すぐに開発チームとして機能しなくなってしまった。
ヘクトルの担当プロデューサーまで責任を取らされる形で交代する事ととなり、開発体制が座組みから再構築されることになった。
そして、改めてトリグラフが主導で開発を再開することが決まり、ペルガモンからも出向者を出さないわけにはいかないという段階になって、林田は初めて希望通り、ゲーム開発のチームに入れることになったのだった。
この状況に加えて、さらに出向で仕事をしたい者など、もはやペルガモンには林田以外誰もいなかった。
林田は、江洲が退職したころに、もうこの会社は持たないだろうなとの予感がすでにあった。
大体、幹部連中の中にあってまともなのは専務くらいである。
彼は皆のために知恵を出し汗を流し、あちこち金策にかけずり回り、身銭を切ってまでボーナスを出してくれた。
いわゆるアーケードゲーム黎明期やファミコン時代のプログラマーだった専務は昔気質の人で、請われる形で他社からペルガモンに来た人なのだが、結局よそから来たこの人だけが、会社を何とかしようと走り回っていた。
それでも林田は、ゲーム開発に直接携われるチャンスを逃したくなかった。
同僚の中には一緒に退職しようと誘ってくれた人もいたが、ここを辞めればゲーム会社への再就職が難しいことは自分が一番よく分かっている。
どんな不格好でもいい、どんなつまらないゲームになってもいい、自分の名前が刻まれ、自分が作ったといえるゲームを一本だけでもリリースしたい。
ただそれだけを希望として、林田はトリグラフへ出向したのだった。
出向でトリグラフに出勤するようになってからの日々は、仕事さえできればどうでもいいと考えていた林田だった。
現に、最初の一ヶ月はペルガモンと大して変わらない開発進行で、どこも進め方は似たようなものかと思っていたが、
そして、クオリティを上げるために、
その後で担当になったUIを、今度は
林田にしてみれば、ゲーム開発に関わることができ、そしてそのゲームのクオリティが上がるのであれば、自分のプライドなどどうでもいいことだった。
(俺は、俺にできることだけを一生懸命やるだけだ)
そう思って仕事をしてきた。
そして、『ガンファルコン』はいいゲームになってきている。
チームの空気が良くなってきたことも、林田にとっては嬉しい誤算だった。
ゲーム開発は、こんな風に風通しがよく、気軽に相談できるような現場で行えるようになるものなのか。
そして、そこに末端の席とはいえ自分が開発者として関われることに、林田は感謝していた。
ところが、七月からただでさえ少ない給料が、半分になってしまった。
とりあえず会社に電話を入れてみると、専務である
行ってみると、夜でもいつも大半の人が残業をしていたはずの会社に誰もおらず、さらに機材の一部が無くなっている。
専務は会議室で状況を説明してくれた。
もうお金が回らなくなってきた。
社長も、他の役員も行方不明で、連絡が取れない。
申し訳ないが、今は給料をきちんと払うこともできない。
しかし、いつになるか分からないが必ず払う。
とりあえず、次の仕事を決めるためにも退職した方がいい……。
専務はそう言ってくれたが、林田は今の『ガンファルコン』の状況を伝え、できれば最後までこの開発チームに残りたいと言った。
専務は、金策の手はできるかぎり打ってはいるが、会社は倒産することになるだろう、それまでの間、本来なら就職活動もしてもらったほうがよいかと思う、このまま現場に残るならそんな余裕も無くなるが大丈夫かと聞き、自分は頷いた。
専務は腕を組んで考えこんでいたが、よしわかった、これは未払いの給料の一部だと言って、自らの財布から十万円を出して渡してくれた。
領収書を書こうとしたが、そんなものはいらない、がんばってくれと言って自分を送り出してくれた……。
専務は五十五歳くらいだろうか。はげ上がった頭部は寂しいが、最後まで現場に立ち続けているその姿には不思議な活力と魅力があると自分は思った。
それからは節約につぐ節約生活が始まった。とにかく、マスターアップまで耐えしのがなければならない。
ただでさえ安い給料で、浪費癖がたたって貯金もわずかだ。
実家に両親はいるが、前の仕事を辞めた時以来ケンカ状態で金を貸してくれとも言えるわけがなかった。
借金するしかないか、いやそれは最後の手段だ。
とりあえず、手持ちで金になりそうなものはすべて売り払っていきながら、
それも、限界が来た。
冷静に考えて、節約した結果体調を崩して入院するなど、本末転倒もいいところだ。
保険にも入っていないから、入院費用はそのまま赤字になる。
もう、借金するほかないかと、林田は考え始めた。
後から他の皆と同じ様に、林田の事情を
林田から改めて聞いた内容は、
林田本人は、いたって明るく笑っているのだが。
「大丈夫ですよ。敷金があるから今住んでいるマンションも後三ヶ月は住めると思いますし」
「そういう問題じゃないだろう、林田さん」
金矢は腕を組んだ。
働いているのに給料が満額もらえないなど、どう考えても健全な状態ではない。
自ら望んでいるからといって、そんな状態のまま仕事を続けさせるのは気が引けるし、食事や光熱費といった生活費はどうするのかという問題もある。
また貧しい食生活の結果病気にでもなられたら困るのだ。
本来、この問題はペルガモンと林田との間のことであって、トリグラフのスタッフである金矢が口を挟む問題では無いのだが、このままでは開発進行に問題が生じることと、何よりも、林田がこの『ガンファルコン』にかける思いを知ってしまったことが、金矢に林田を何とかしてやりたいという思いを抱かせる要因になっている。
金矢は林田という人間が、何となく、という体ではあるものの、好きだった。
素直でいつでも陽気で明るく、どんな仕事を頼んでも嫌な顔をせず引き受けてくれる。
確かに、デザイナーとしてのセンスは
金矢は、林田と話し合う前に、このプロジェクトのマネージャーである
開発が遅延したところで自分に責任はないと言わんばかりで、鳥羽などはこのろくに仕事をせず日中はずっとネットばかり見ているマネージャーを首にすれば林田を雇えると金矢に言ったが、さすがにそれを提案するわけにはいかない。
「とりあえず、ペルガモンがどうなっているか、直接確認した方がよくないですか?」
矢切のその提案に、金矢はしばらく考えていたもののすぐに決断した。
「……そうだな。林田さん、悪いけどその専務さんに連絡を取ってもらえるかな」
「わかりました」
林田は専務と連絡を取り、その結果、状況を確認するため金矢、矢切、林田の三人が、定時後にペルガモンへ向かうことになった。
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