第八章 執念

第39話 オンスケジュール

 矢切やぎりたけしのこれまでの人生は、色に例えて言えば灰色。ほぼその一色と言ってよかった。

 希望していたゲーム業界に、末端の開発会社とはいえ運良くアルバイトとして入り、正社員に昇格した時が頂点だったかもしれない。

 好きなゲームを仕事にしたというのに、それからというもの運命の女神に見放されたかのように、仕事がうまくいかないのはもちろん、プライベートも充実の二文字とは縁遠い日々だった。


 それでいて仕事ができるように努力しようなどと殊勝なことは考えず、いかにラクをしてうまく立ち回り、それでいておいしいプロジェクトに関わることばかりを考えていたものだから、仕事の実力も付くはずもなかった。

 そんなこれまでの会社での日々が嘘の様に、今、矢切やぎりの日々は充実している。


 毎日、朝起きることすら億劫で、月に数度は体調不良で欠勤するのが慣例になっていたのが、朝自然に目が覚め、すぐに起床することが自然になっている。

 いつもの通勤電車に乗って、例の頭のはげ上がったサラリーマンを見ると、矢切は心の底から自分の方が「上」だと、安堵と優越感を憶えるのだった。

 何せ、トリグラフの、あの倉庫に急ごしらえされたオフィスの空気は以前とは比べものにならないくらい良くなっていた。

 バックビュー視点の実装について版元から実装の許可が正式に下り、期間はまた必要に応じて相談することとなり、作業量は増えているのに、チームの空気は明るい。


 何があったのかは知らないが、鳥羽とば琉一りゅういちが協力的な姿勢に変わってリプレイモードを受け持つことが決まってから以後、彼はそれまでとは別人の様相で皆と接し始めた。

 無口な点こそ変わらないものの、他人を威圧したり、攻撃的な言動はすっかりと陰を潜めて、穏やかに接するようになった。雑談の輪に入ることすらある。


 鳥羽とばが出していたピリピリ感が無くなると、良い意味でチームの雰囲気は軽くなった。

 毎日、朝礼という体で、今週の実装予定と各自進めている作業を報告しあい、疑問点や課題があれば誰もが気軽に口に出せるようになっていた。

 その場では解決できないものは、朝礼終了後に担当者同士で改めて詰める。


 矢切は全体の実装成果物をチェックして、修正点や調整点をリストアップすることと、他の請けおった項目の仕様化を伏野ふしのと協力してやっていた。

 概要は矢切が作成し、伏野が仕様化するのが望んでいた体制だったが、やはり時間的効率を考えて矢切も手伝っている。

 伏野がフローを作成し、矢切はそのフロー内で定義された画面について、伏野のフォーマットに合わせて画面構成仕様を作成していった。


 打合せ前は、必ずラムネ状のお菓子を口に含む伏野の細かいチェックにぶつぶつ文句こそ言うものの、矢切は出社して朝礼の後、画面構成仕様の作業を一区切りつけて、午後から全体のチェックを行い、残業でまた画面構成仕様かチェックの仕事をこなす毎日が楽しくなっていた。

 仕様の打ち合わせでも、今までのような重苦しさも馬鹿にされる空気もないし、変更したい点が出てきても、目的と理由さえ明確であれば、他の皆は進んで受けてくれる。


 日々ゲームは改善されていき、一週間単位でゲームは見違えていった。

 金矢の手がリプレイモードから離れたこともあって、本来のゲーム部分の改善が一挙に進められるようになったからである。

 矢切は一日仕事を終えて会社を退社する時、充実感と心地よい疲労感に包まれるのだった。


 プライベートでは二週に一度のペースでの、瀬野木せのぎ明日香あすかとのデートが続いていた。

 直接会う以外でも連絡用アプリ『サークル』でたまに雑談を交す。

 もう間違いない、両想いだと信じた。

 矢切は早く彼女と恋人関係になりたかった。

 手を繋ぎたい。抱きしめたい。キスをしたい……。


 だが同時に、ここで焦ってはだめだ、俺はいつも先走って失敗して恋愛ごとが成就したためしがないのだと自戒もしている。

 瀬野木明日香とはまだ友達関係かもしれないが、ここまでの関係にすら至ることすらできなかったのがこれまでの矢切武である。

 一方的に相手を好きになり、いきなり告白して玉砕し、また嫌われ、セクハラ呼ばわりされることの多かった矢切にとって、瀬野木明日香の存在はもはや宝石に等しかった。迂闊うかつなことはできない。


 そして矢切の頭には、もう「結婚を前提としたおつきあい」という気持ちが芽生えていた。

 となれば指輪も用意しなければならないが、これまでの無計画な散財がたたって、矢切はろくに貯金がない。

 今から慌てて貯金を意識して無駄な出費やお酒を控えたりと節約を始めたものの、おいつくはずもなかった。

 冬のボーナスに期待するしかないと考えつつ、それまでに瀬野木明日香との仲をどうにか進展させたいジレンマで、身がよじれそうだった。

 それでも矢切は毎日が充実している。


「おはようございまーす」


 矢切がオフィスに入って挨拶すると、先に出社していた皆が挨拶を返してくれる。

 オフィス内の、資料本や、矢切の私物である原作アニメのブルーレイディスクを入れたスチール棚には、真上まかみが資料として買ってきた昔のアウラ・ハントのプラモデルが数体並んでいたり、その周囲には前戸がゲーセンの景品ゲームで獲得してきたアニメの美少女キャラクターのフィギュア数体などが脈絡もなく飾られている。


 そういったプラモやフィギュアが置かれるだけで、部屋に花を飾ったかのようにオフィスが明るく感じられた。

 堀倉ほりくらがホコリまみれになるとかわいそうだからと倉庫にあったセルロイドの板を加工して天井つきの簡易ケースを作り、アウラ・ハントや美少女たちはその中で明るい存在感を醸し出している。


「案外、いいもんですね」


 と鳥羽ですら苦笑しながらフィギュアのおかげで室内が明るくなったことを認めた。


 一日の始まり。朝礼が終わると、皆は作業に集中する。

 矢切は全体をマメにチェックしてから、未作成項目仕様を伏野や前戸と手分けして作成し、九月の中旬には作成予定だった仕様書はほぼ作り終えることができた。

 人数も少ないし、最終的には全員で追い込みをかけるだろうという判断から、仕様書の打ち合わせとレビューには全員が参加することになっていたので、あらかじめある程度仕様書ができるたびにアップしては皆に報告し、その都度気になる点やつっこみは細々と来ており、それらを反映していたが、改めて対面で仕様を説明すると、皆から修正すべき点や改善点が次々と出てくるのだった。


 前戸が出た意見や修正すべき点を、片っ端からホワイトボードに書いていく。

 表面だけでは足りずに裏面まで使うこととなり、結局打ち合わせはほぼ半日を要することになったものの、誰も不満は言わなかった。

 仕様を実装するためのタスクが、前戸によって発行されていく。

 この手の作業はまったくダメだった彼も、伏野の指導を受けて、的確にこなせるようになってきていた。


 打ち合わせで出た仕様書の変更箇所の反映は伏野が請け負ってくれ、代わりに矢切はいよいよゲーム全体の「調整設計書」の作成に入る。

 調整設計書とは、会社によって呼び名は異なるが、平たく言えばバランス調整の指針をとりまとめた資料である。


 『HSG』に限らないが、ゲームの面白さはシステムが決まれば、キャラクターがどう動くかなどの挙動の設定や、パラメータ数値の設定で決まる。

 いわゆるレベルデザインとは異なる、バランス調整だ。レベルデザインとも密接に関係はするが、作業としては別物と言っていい。

 敵や味方の強さや武器の強さなど、ありとあらゆる項目が数値化されているゲームの世界において、この数値は適当に設定されているわけではない。

 各数値は、「プレイヤーにこんな風にプレイしてもらいたいから、こういう数値にしよう」という意図から設定されているものだ。

 これらの指針を資料化したものが、「調整設計書」である。この設計書のイメージに沿うように、各数値やデータを調整していくことになる。


 矢切もこれまでの開発で作ったことはあるのだが、途中で無視されて別の人間が作り直したものが採用されることばかりだった。だが、伏野が教えてくれた調整設計の要点を振り返ると、今まで自分が作ったものは、あまりにも適当で、フィーリングのみで作っていたことがわかってしまった。


 伏野に細かくチェックを受けながら、矢切は調整設計書を作成していき、九月の下旬には何とか指針となりうる資料を完成させ、そのころになるとゲーム本編の改修も飛躍的に進行していた。

 ゲームとして確実に内容を積み上げて実装し、さらに先週よりも確実に良くなった箇所がいくつも出てくる。

 皆、誰も何も言わなくても夜遅くまで残業する日々が続いたが、誰の顔にも疲労感はあっても悲壮感は無い。


 その日も、矢切を始め皆が二十二時を回っても残業していた。

 矢切は前戸が調整をかけてくれたアウラ・ハントの挙動とステージのバランスを繰り返しチェックしていたが、ドンという音が響いてそちらに顔を向けた。

 前戸の「林田はやしださん!」の声がオフィスに響いた。

 林田はやしだ啓文けいぶんが倒れたのである。


 オフィスで倒れた林田はやしだを、真上まかみ前戸まえとが助けおこし、金矢かなやが救急車を呼ぼうとすると、林田はやしだは手を振って大丈夫大丈夫と声を挙げたが、その声は弱々しかった。


「大丈夫じゃないだろう、倒れちまったんだ」


 金矢が努めて冷静に言ったが、林田は苦笑した。


「いやいや、恥ずかしい。実は腹が減っただけなんですよ」


 それを聞いた矢切やぎりは、えーっと冗談めかして言ったが、前戸は笑っていなかった。

 前戸は林田と気があうのか、特に仲が良い。

 金矢は前戸の表情を見てから再度林田の顔を見たが、その顔色は明らかに青ざめている。


「だめだ。出向先の現場の責任者として命じます。今からすぐタクシーで病院に行こう」

「まいったなァ、もう」


 前戸が電話でタクシーを呼び、金矢は後で鳥羽とばに連絡すると言って、弱々しく笑う林田を支えてタクシーに乗り込んだ。

 それを皆で見送ってからオフィスに戻ると、伏野が前戸に尋ねた。


「前戸君、林田さんと仲が良かったですよね? 何か聞いてます?」


 前戸はうつむいて、口を何かモゴモゴとさせた。矢切が伏野の後を継ぐ。


「別に、林田さんや君を責めようってわけじゃない。事情があるなら知りたいだけなんだ」


 現状、ただでさえギリギリのスケジュールで皆仕事をしており、誰が抜けても痛手なのだ。

 林田は、確かにデザイナーとしてのセンスや才能と言う点では他のスタッフより一段も二段も劣るし、これといってメインで受け持っている要素はない。

 だが、デザイン全カテゴリーの手伝いをしており、また的確な指示さえあれば、作業のオペレーションにはまったく問題が無かった。

 ゲームやデザインの方向性が定まった今では、量産体制を支える立派な戦力になりえている。


「……腹が減っただけ、っていうのは、たぶんほんとだと思うッス」


 前戸はうつむいたまま、そうつぶやいた。

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