第32話 クリーンアップ
プロジェクト『HSG』の開発は一見平穏に進んでいった。
すでに、ゲームの方向性がある程度明確になっていることもあり、いつの間にやら毎週月曜日は全員が集まって今週どこまで実装を進めるかについて話しあう体制になっていたし、深刻なバグのほか、問題点や改善したい点は、すぐに口頭なり、チャットなりで方向や相談として挙げられ、何かというと皆がすぐに集まるようになっていた。
その場で決まったことは、担当のプランナーがすぐにチャットで報告し、それを随時仕様書やリスト、作業タスクに反映させていく。
チーム内で他人から距離を置いている
仕様書も適宜作成されては打ち合わせで内容が詰められ、
堀倉はUIに加えて、本来の担当領分のエフェクトも林田や金矢と協力して、次々と成果物を上げていった。
林田は相変わらずヘッドフォンで音楽を聴きながら、ノリノリで仕事をしている。
モデルも、UIも、モーションも、あらゆる作業の主導権を他のスタッフに取られてしまったというのに、彼は落ち込むことも不機嫌な態度も見せず、全カテゴリーのヘルプ作業や仮素材の作成作業にいそしんでいるのだった。
プランナー陣も、仕様書を作りながらステージの配置データや進行を制御するスプリクトを分担して作成している。
お互いに作ったステージデータをプレイしてはあそこを直せここはおかしいと、笑いながらツッコミあいをしている様だった。
特に
仕事以外でも何かいいことがあったのだろうか。
鳥羽は単独でこなせる類いの仕事が中心になったということもあり、そういった賑やかな場に立つことはなかった。
(この空気の中に入りたいわけではないさ)
鳥羽は不機嫌な表情のままで作業を続けた。
そして
あれだけ固まっていた転職への決意は揺らいでしまい、木曜日、久々に定時で退社して一人で駅前の立ち飲み屋で日本酒を飲みながら、堂々巡りに入った自分の考えを整理しようと悪戦苦闘した。
(転職した方がいい。成りたかった工業デザイナーになれるんだ。給料も上がる。何の不満がある?)
それが正論というか、自らの望むもっとも効率の良い取るべき道であることは自分でも分かっていた。
それなのに迷いが生じている。それはどこから生まれているのか。
人生を開いていける機会が目の前に来たというのに、それに今更ためらいを生じさせているのは何なのか。
(仕事が今うまくいってるからか?)
だが、それは一時的なものに過ぎないと堀倉は冷静に捉えることができていた。
このプロジェクトが終わり、会社に戻ればまた指示された作業をこなすだけの日々が続くのだ。
であれば、今の『HSG』だけを終え、後は工業デザイナーとして新たに自分の経歴を出発させた方がよい。
理屈で考えれば考えるほど、答えは明確であるはずなのに、堀倉はその自分の答えにどこか釈然としないものを感じて、その正体を見いだせないことが気になって仕方が無かった。
どうしてだろう、自分は何にひっかかりを感じているのだろうかと考え続け、そしてそれはATMで預金から二十万円を引き出して封筒に入れ、丁寧にカバンにしまった時、妻の声によって突如もたらされた。
「他人を押しのけない優しい人。一緒に人生を歩いていける。だから私蘭人さんがいいの」
あの時、
他人を押しのけない優しい人。
だが今自分は、それとは違う行動を取ろうとしている。
堀倉は歩きながら、防波堤が決壊したかのように、次々と自分の思考が流れていくのを感じ取った。
(わかった。僕は今、身の丈に合わないことをしようとしている。だからそれが引っかかるんだ)
お金を払って裏口入社するという行為が、倫理的な、法律的な問題というよりも「それは自分の器に合った行動なのか」という点で、違和感を生じさせているのだと堀倉は気づいた。
「自分を、自分より大きく見せることはできないよ」
歩きながら堀倉は呟いた。
市役所に勤める公務員で、平凡を絵に描いたような父が教えてくれたこの言葉は、高校生のころから堀倉の心の中にずっとあって、それは大学生のころに父が病気で亡くなってからより一層強く心に刻まれていた。
ただの公務員に過ぎないと思っていた父の葬儀には親族でも役所関係でもない人間が五十人以上参列して親族一同を驚かせた。
それらの参列者は、会社を首になったり親の介護などで生活が立ちいかなくなった際に、父が親身になって上司にかけあって公的補助の申請を行ったり支援するNPOを紹介したりして、人生を立て直したという人たちやその関係者だった。
家ではプロ野球チームの阪神タイガースを応援することと本を読むこと以外、これといって趣味の無かった、まさに平凡という言葉の生きた実例であるかのような父の言葉が、堀倉の心を占めていた。
(そうだな、僕は僕だ。僕に合わないサイズの服を無理に着たって、歩きづらくなるだけだ)
堀倉が隣に座ると、「で、どうだ、金は持ってきたか」と言った。
「ヤマ、ありがたい話だけど、転職の件は辞退するよ」
堀倉がそう言うと、山戸は不機嫌そうに「ああ?」と言った。
「おい、こんなチャンスもうないぞ。分かってるのか」
「分かってる。でもいいんだ。別の人にチャンスをあげてくれ」
「お前なあ」
山戸は、呆れと怒りが入り交じった声を上げた。
「金か? 金払うのが嫌なのか?」
「そうじゃないよ」
堀倉は苦笑して首を振り、バーテンダーにビールを注文した。
「無理に転職しても続かないって思った。それだけだよ」
山戸は舌打ちして、ウイスキーの水割りを飲み干し、お代わりを注文した。
「なんだよ、結局自信がないだけか。お前、学生時代と全然変わらねえな。だからあの時も面接で落ちたんだよ」
「そうだな、僕は変わってないよ」
堀倉はそう言いながらも、いや、今の自分は少し変わったと思った。
そして、山戸と話しているうちに、今の仕事にやりがいを感じている自分に気づいたのだった。
自分が考え、デザインしたUIが実装され、それが評価された。
評価されたことそのものは勿論嬉しいのだが、何よりも堀倉にとって「自分のデザインしたものがユーザーの快適さに繫がっている」ことそのものが嬉しく、仕事の喜びになっていることに気がついたのだ。
「はあ?」
山戸は眉をしかめたが、堀倉は胸のつかえが無くなった感触を味わっていた。
「とにかく、転職の話は辞退するよ。でもヤマ、話を持ってきてくれてありがとう」
堀倉はそう言って、山戸の方へ身体を向けて頭を下げた。
「……
「そうだね、それも考えたんだけど、奥さんは僕が無理して転職してもうれしくないって言ってくれたんだ」
堀倉は、自分なりにそう脚色して妻の言葉を伝えた。
山戸はその言葉を聞くと、しばらく黙っていたが、やがて下を向いて聞こえるように大きな息を吐いた。
「あーっ、負けだ負けだ、俺らの負け」
「負け? 俺ら?」
山戸は何を言っているのか。堀倉は首をかしげる。
山戸は両手を上に上げて降参のジェスチャーをした。
「今回の転職の件で金が要るって話、アレ嘘なんだわ」
「嘘? 転職の話自体が無かったってことか?」
山戸は首を振った。
「転職の人材を探してる話自体はほんとさ。でも俺はこの話、最初は
「ハマに?」
真面目で友人としても信頼のおける、
「濱部には断られたから、他のヤツに話を持っていこうとしたんだ。そしたら濱部が、この話をお前に持って行ったらって言ったんだよ」
濱部が自分に気を利かせてくれたのかと、堀倉は今度お礼を言わねばと考えたが、山戸は苦笑するように言った。
「そしたら堀倉から金を取れるかもって、あいつが言ったんだよ」
「……どういうことだ?」
山戸は、今度は真面目な顔つきになって、濱部一正が言ったことを説明してくれた。
この転職の話、堀倉に持って行ってやったらどうだ。
彼はデザイナーになりたがっている。渡りに船だろう。
だが、ただでこの話を持って行っては、彼も気が引けるだろう。
金を出してもらったらどうか……。
「おいおい」
堀倉は、内心驚愕の思いで山戸に疑問をぶつけた。
「お前の話じゃ、採用を確実にしてもらうために上司に渡すって話だったじゃないか。僕が金を渡して応募して受からなかったらどうするつもりだったんだよ」
「俺もそれを濱部に言ったさ。そしたらアイツ、何て言ったと思う?」
堀倉が答えずにいると、山戸は言った。
「堀倉は絶対文句も何も言わないってさ。そして、自分に絶対相談してくる、その時は自分が後押ししするから、渡された金の半分をよこせってな」
「ハマが……?」
堀倉は、すべて山戸の作り話ではないかと思った。
だが、冷静に考えて、山戸がそのような作り話をする必要はまったくないのだ。
「ハマが何だってそんなことを」
「あいつ、仕事がうまくいってないんだ。今は元部下だった後輩に抜かれて、その下で働いてる。会社の業績も左前で、来年はデザインとは関係ない別部署へ異動させられるかもしれないらしい。おまけにあいつマルチ商法に手を出しやがった。それで出た損失を埋めようと必死なんだ」
「ハマが……」
食品メーカーのデザイン部門に勤め、結婚もして主任の地位を得、収入も十分で、堀倉から見れば順風満帆を絵に描いたような人生を歩んでいるはずの濱部が、どうしてマルチ商法などに手を出してしまったのか。
「損失っていくらぐらいなんだ? 十万そこらだったらあいつの給料でどうにかなるだろうに」
「十万じゃきかないくらいの損が出てるみたいだが、あいつの給料は奥さんが全部管理してるからな。小遣い制でずいぶん
山戸は、濱部の能力というより、人脈に期待して転職の声をかけたと付け加え、今のが今回の話の裏の全部だと言ってから、身体を堀倉の方に向けた。
「俺は金なんかどうでも良かった。香奈ちゃんをモノにしたお前がねたましかったんだ。そんなお前が転職のために俺に金を払うって絵づらが見たくてハマの話に乗ったんだ。転職が成功して俺の下にきたら、いびり抜いてやるつもりだったし」
山戸はそこで視線を落とした。
「だけど負けたよ。完全にな。お前はやっぱり香奈ちゃんに」
山戸はそこで言葉を切った。
彼が学生時代のみならず、今に至るまで香奈に想いを寄せていることは驚愕であり、また客観的に見れば怖くもあるのだが、それでもなぜか堀倉は山戸という男を完全に否定することはできなかった。
「それでも僕はお礼は言うよ。今回の転職の話が無ければ、僕は今の仕事に真剣に向き合うことは無かったと思う」
そう言って堀倉は、自分が真相を知ったことは、濱部には知らせないよう山戸に頼んで、バーテンダーにチェックを頼んだ。
「いいのかよ。アイツはお前を騙して金を巻き上げようとしたんだぞ」
「いいさ、知らんフリしてる」
学生時代、濱部が声をかけてくれなければ、自分はサークルで孤立して辞めていたように思う。そうなれば香奈と結ばれることも無かったかもしれない。
人懐っこい濱部一正の笑顔を思い出しながら、バーテンダーが差し出した伝票を見て財布を取りだそうとしたが、山戸が伝票を抑えて首を振った。
「ありがとう、よろしく」
堀倉は席を立ち、店を出ようと歩き出した。背後から山戸が声をかけてきた。
「お前、今のゲームの仕事、そんなに楽しいのか?」
「ああ、楽しいよ」
今度は嘘ではない答えを口にしてから右手を挙げて、堀倉は店を出て行った。
その夜、堀倉は二十万円が必要なくなったことだけを香奈に伝えた。そして、自分が提案したUIが採用され、UI担当になったことを話すと、香奈は喜んでデニムの両前足を掴んで、共に万歳をした。
堀倉が妻を抱き寄せ、ありがとうとだけ言うと、デニムがにゃーんと答える。
山戸からも濱部からも、それから連絡が入ることは二度と無かった。
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