第27話 ジョブチェンジ

 夜中、目を覚ました堀倉ほりくらは、隣で寝ているはずの妻が居ないことに気づいた。

 隣の部屋から、かすかに気配がする。

 堀倉は布団から抜け出すと、そっとふすまを開けて隣の部屋を見た。

 暗闇の中で、妻の香奈かながヘッドフォンをつけてテレビゲームをしている。

 隣にはデニムが寝ていた。よく見ると、香奈がプレイしているのは、堀倉がシヴァに入社して初めて開発に携わったゲームだった。

 堀倉が入ってきた様子に気がつくと、香奈はヘッドフォンを外した。


「ごめんね、起こしちゃった?」

「いや。でも、何をしてるんだい?」

「蘭人さんが初めて作ったゲーム」


乱馬龍剣伝らんまりゅうけんでん』。

 プレイステーション3でリリースされたアクションRPGだった。

 開発当時は大変だったが、右も左も分からないままもがいて、いつの間にやらマスターアップを迎えていた感覚が強い。

 だが発売日当日には、堀倉もわざわざ大手の電機販売店へソフトが売れる瞬間を観に行ったものだった。


 だが嬉しかったのはその始めてのタイトル開発の時のみで、それから続く開発の日々の中で繰り返される自分に対する低評価の言葉に、気持ちは萎えていき、自分は工業デザイナーに転職するのだと割り切り、黙々とただ業務をこなすだけの日々が続いた。

 堀倉は、黙って妻の隣に座り、『乱馬龍剣伝』の画面を見た。


『乱馬龍剣伝』は、オープンワールドのアクションRPGとして開発が開始されたものの、結局スケールを相当ダウンし、遅延して完成に至ったゲームだ。

 堀倉が担当したのは、主に敵キャラクターの3Dモデルとモーションだったが、特に目立つこともなく、何らの評価を得られることもなく開発は終わった。


「どうして急に、これをやってるんだい?」


 堀倉は台所に行って、コップで水を飲んでから尋ねた。


「うん、蘭人さんの最初の仕事が、急にみたくなったの」

「そうか」


 蘭人は黙って、また妻の隣に座り、そのまま『乱馬龍剣伝』の画面を見続けた。

 まだまだゲームにも不慣れで手探りで作業をしていたころ。

 初めて画面に自分の作成したキャラクターが表示された時……。


 堀倉が当時のことを回想していると、妻はそっとコントローラを渡してきた。

 そのまま受け取り、黙ってプレイしていく。

 ゲーム全体をプレイしたことはない。

 さわりで止めた。

 改めてプレイしてみると、ずいぶんと新鮮なイメージだった。

 一世代前のゲーム機ではあるが、それほど見た目も悪くない。

 だが、やはり自分の作ったモデルには物足りなさを感じた。

 それに、各所のUIも気になるところが多い。

 あの当時も、そう思っていた。

 だが、自分の担当ではないし、余計なことは口にしなかった。


 UIか……。


 デザインには、きちんとした意味がある。

 作り手の意図、意思が反映されているものだ。

 人が使うものならば、なおさら使い勝手が良く、かつ洗練されたものでなければならない。

 堀倉はプレイしながら、自分ならば何をどう変更していくかをイメージしていく。今更そんなことをしたところで、意味がないのはわかりきっているのに。


 今まで、何となく、という体でゲーム業界を選んだせいか、どこか仕事に対してもどこか一線を引くようになっていた堀倉だったが、UIについては次々とイメージが湧いてくるのを、最近特に感じるようになっていた。

 シヴァにいる間は、UIなどやれる余地は無い。

 だが今回。出向という立場でありながら、その仕事の範囲は柔軟になるかもしれなかった。


 スタッフ数が少ないこともあるし、複数の会社からの出向者で成り立っていることもあり、互いの得意分野も知らない。

 それならば、真上まかみがUIからモデル担当に変わった様に、自分もエフェクトや3D担当からUI担当にシフトできるかもしれない……。


 だが、それは、現在真上に代わってUIを担当している林田はやしだの自尊心を傷つけることになるだろう。

 それは堀倉の望む事では無かった。


 (協力する、という体で提案してみようか)


 堀倉に、そんな考えがやっと浮かんだ。

 林田自身にUI案を提案するという形から始めれば、さほどカドは立たないのではないか。

 その時にあまりにも拒否反応を示されるようであれば、素直に引っ込めればいい。


 (やってみよう)


 堀倉は、コントローラからそっと手を離して、隣にいる妻の手を握った。

 握り返してくる妻の手の温もりが、堀倉の心を満たしていった。


 だが、いざ出社すると昨日の勇気はどこへやら、堀倉は持ってきたスケッチブックを取り出したものの、開くことすらできずに普段通り仕事を進める有様だった。

 堀倉は子どものころから内気で、気弱な性格だった。

 それは周囲から見れば陰気というよりも大人しいというレベルに見えたらしく、幸いいじめにあうなどということはなかったが、存在感が無かったとも言い換えられる。

 それは大学に入っても社会人になってからも変わるところがなく、堀倉ほりくら蘭人らんとという男の人生は、平穏で平坦で平凡だった。


 改めて、香奈と知り合い、恋人同士となり、結婚までできたのが奇跡のように思える。

しかしそれもよくよく考えれば、サークルで孤立しないよう声をかけてくれた濱部はまべのおかげであり、また猫のデニムのおかげと言えるわけで、それらの偶然がなければ、堀倉と香奈の人生は重なることなど無かったはずであった。


 美大に入れたこと以外、子どものころから思い通りになったことなどほぼ無いと言える人生において、香奈という伴侶を得た事だけでも幸運だが、堀倉はやはり、自分の望む仕事をしたいという願望が日増しに強くなっていくのを感じている。

 それは、同僚である真上まかみ剣風けんぷうの変わり様を見たからだった。 


「お疲れ様です、堀倉さん。アウラ・ハントの『メレヒア』のテクスチャー修正、お願いしていいですか? テイストは『ピレイラ』と同じで」


 真上が明るく話しかけてきた。


「は、はい、わかりました」

「ありがとうございます、よろしくお願いします」


 真上は明るく、活発になっている。

 気弱な堀倉は真上と二人での出向を命じられた時は、胃が痛んだ。

 知らない環境で仕事をする、というのは堀倉にとって相当なプレッシャーで、胃腸薬が欠かせない。

 同僚であるはずの真上は、いつも誰かの成果物に文句を言っていて、怖い印象しかなかった。

 おまけに出向先は倉庫の一角に作られた仮のオフィスで、チームの空気は不穏なことおびただしく、誰も彼も、怖く見えた。 


 実際最初の一ヶ月間、プロジェクトは目立った進展を見せず、堀倉はペルガモンのスタッフが作り残していったエフェクトを、順次クオリティを上げたり、未作成のものを想定しながら作っていったものの、プログラマーの金矢になかなか実装を頼むことができず、すべてチャットでおそるおそる依頼をかけるような有様だった。


 ところが、伏野ふしの誠太郎せいたろうがアサインされてから、風向きが変わった。

 ゲームの完成形が再度見直され、ゲーム概要というゲーム全体を俯瞰できる資料が作成された。

 それを目指すテストとして、ステージ1が試作として作られた。

 結果、目指す方向性が明らかになり、クライアントであるヘクトルにも認めてもらえた。


 主観ビューに加えてバックビュー視点も追加、と聞いた時には心配になったが、結果的にはそれが功を奏した形だ。

 納期が延びないというのが気にはなったが、とりあえず全ステージの必要な素材のリストも完成し、以降、順次作成しながら、数を減らしたり増やしたすることになる。

堀倉はエフェクト作成をメインの仕事としながら、最近は真上や林田と協力して、アウラ・ハントのモデルやモーションも手伝うようになった。


 シヴァの同僚である真上とは、やっと作業上のやりとりの必要性から話をするようになったが、これまで見てきた彼とはまったく印象が変わっていた。

 融通の利かない、我の強い性格で苦手だったのが、話しやすく、また明るくなった。

 どうやら担当換えでモデル作成を行うようになったのが相当に嬉しいようで、毎日活き活きと働いている。


 何せ、以前はムスッとした表情で、仕様書が整わずに他にやることがないと仕事と関係ないネット閲覧を始め、定時になると即退社していたのが、今は定時になったのに気がつかずに、深夜まで作業していることも珍しくはないという。

 何よりも、真上のやる気に満ちあふれた、という表現が似つかわしい表情と、どんな時も明るく振る舞うようになった姿がうらやましかった。


 もちろん、環境が変われば元に戻る可能性はあるにしても、自分は、一時的にでもあれほど活き活きと仕事をしたことがあっただろうか……。

 堀倉は結局、UIのことについては何も言い出せないまま定時を迎えると、鳥羽の次にそっと退社した。

 そして駅へ向かう道すがら、スマホの着信を知らせるアラームと、発信者の名を見て顔をゆがませた。

 山戸やまと聖哉せいやからである。


 無視しようと思ったが、着信アラームが周囲に鳴り響いているので、慌てて応答ボタンを押してしまった。


「あっ、オレオレ、オレだよ」


 オレオレ詐欺と勘違いしたことにして電話を切ってやろうかと思ったが、さすがに止める。


「何か用?」


 できるだけ手短に通話を済ませたいところだが、山戸が直接電話してくるのは学生時代以来かもしれなかった。


「いや、今からちょっと会えないか」


 冗談じゃない、絶対にお断りだと堀倉は思ったが、山戸の次の言葉が、堀倉の意表を突いた。


「ウチの会社な、中途採用でデザイナー募集しようとしているんだよ、ホリ、お前興味あるだろ」


 堀倉は「え?」と何度も聞き返した。


 山戸が指定したバーで、彼はいつもの堀倉を小馬鹿にするような物言いはせず、至って丁寧に接してくれた。


「ウチの事務所も仕事が最近増えてな。今年後半からの仕事を見据えてスタッフを増やそうってことで、俺にもいい人がいたらヘッドハンティングしてこいって話が出てる。で、お前に白羽の矢を立てたってわけだ」


 白羽の矢の「白羽」は、「多くの中から特に選び出された」という意味のほかに、「名誉の犠牲となる」という意味も含まれていた気がするなと堀倉は思った。

 だが、山戸の顔は真顔である。


「中途採用といっても、僕は仕事として、そっちみたいなデザイナーとしての経験はないよ」

「仕事なんてすぐに覚えるさ。それに今は物をデザインするだけじゃなくて、ウェブで使うシンボリックなロゴやアイコンのデザイン依頼も多いんだ。欲しいのはそういったクライアントからの信頼を取り付けられる、お前みたいなマメで真面目で、中身のある仕事ができるヤツだ」


 山戸がここまで自分のことを褒めるなど、裏があるのではないかと思ったが、面と向かってそう言われると堀倉も悪い気はしない。


「もし入社してくれるなら、とりあえずは俺のチームに入って俺を補佐してもらうことになるが、慣れたらすぐに別チームのチーフだぞ。俺もチーフ候補を探してこいって言われてるしな」

「チーフ……」

「デザイン・チーフってのはな、クライアントから依頼のあった案件を、部下を使って納品するまでの責任者だ。ウチは製菓メーカー、家電メーカーや自動車メーカー相手が大半だ。忙しいし責任も重いけど、その分給料もいいぜ」


 山戸が口にしたチーフの年収は、今の堀倉の年収の倍近かった。


「まあ考えてみてくれよ。来月中に返事をくれればいいからさ」


 堀倉の頭の中は、山戸が持ちかけた転職の話でいっぱいになり、帰宅して香奈かなが出迎えてくれてからも返事も上の空だった。


 (転職か……)


 堀倉は、鞄の中からスケッチブックを取りだし、結局提案できなかったUIのデザインと、転職用に描きつらねてきたデザイン画を何度も眺めた。

 自分は三十一歳だ。まだまだ若い。

 転職して、デザイナーとしてのキャリアは積んでいける。

 給料も今よりずっとよくなって、香奈にもいい生活をさせてやれる。

 デニムだって、今の狭い2DKのマンションより広い所に引っ越した方が、大きめのキャットタワーもおけて、のびのび遊べるだろう。

 香奈がもう一匹、保護猫を飼いたがっているが、それも叶う。

 問題は、金だった。


 (二十万円か……)


 山戸から話の最後に、採用を確実に取り付けるために金が必要だと言われたのだった。


「その上司、ちょっと借金してるらしくてな。ちょっと付け届けしてやれば、採用を確実なものにできるんだ。二十万でウチに入れると思えば安いもんだろ」


 二十万円という額は、確かに高いが払えない額ではない。

 独身時代はともかく、結婚してからは香奈が家計をうまくやりくりしてくれていて、堀倉家の貯金額は五年で三百万円増加しているのだ。

 だがこのお金は二人で積み上げてきたものだ。

 香奈に無断で使うわけにはいかない。

 香奈は自分のパートで稼いだお金もすべて家のお金として提供してくれている。

 夫婦の給料を合わせ、そこから衣食住やデニムに何かあった時の費用や生命保険、貯金分などを除き、堀倉は三万円、香奈は一万五千円を小遣いとして使っている。


 堀倉は小遣いは夫婦同額を提案したが、自分はパートでつきあいもそれほどないし、あなたは資料も買わないといけないからと言って取り合わなかった。

 服は安物ばかりで滅多に買い換えることもなく、それでいていつも自分とデニムの健康に気を遣って料理を工夫してくれて、家事もほぼ一手に引き受けてくれている妻を見ていると、二十万円というお金はとても気楽に言い出せる額ではなかった。


 だが、山戸のいるデザイン会社は中小ながら知名度が高くて手がけた案件も大手メーカーとのものばかりで、待遇も良い。

 あそに入れれば、夢も叶う、給料も良くなる。

 問題は、「詐欺」の可能性だった。

 二十万円を山戸に払っても、後は知らぬ存ぜぬで通されれば、訴えるにしても相当面倒くさい事態になるだろう。

 だが、いくら山戸と自分の間に溝があるといっても、一応は友人としてつきあってきたのだ。彼が詐欺までして自分をおとしめることなどはないだろうと堀倉は考えた。


 (ハマに相談してみるか)


 堀倉は、膝で丸くなって寝ているデニムを撫でながら、台所で洗い物をしている妻を見つめた。

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