第26話 ホーム
「おかえりなさい、
二十六歳の時に結婚してから五年。
同じ年齢の香奈は、いつも笑顔で明るく自分を出迎えてくれる。
足下にはデニムが、堀倉に甘えるように頬を寄せてきた。
カバンを置いて部屋着に着替えて、手を洗ってから居間として使っている和室に入ると、木製の円形テーブルの上に、妻のお手製の漬け物とお茶漬けが湯気を立てていた。
今日は飲み会に行くと連絡をしていたので、お茶漬けだけをお願いしておいたのだった。
いただきますをしてからお茶漬けを食べ始める。
香奈はデニムとじゃれていた。
テレビを見ながら、会話をしたり、しなかったり。
だが、そこには何の違和感も無い。
相変わらず可愛いな、と妻の顔を見ながら堀倉はお茶を飲んだ。
香奈はショートカットだが、それだけに顔立ちが整っているのがよくわかる。
知り合った大学の英会話サークルでは、
そんな彼女がなぜ自分のような、冴えない男を選んでくれたのか、堀倉は未だにぴんときていない。
彼女によると、「デニムが懐いたから」と笑顔で言うだけだ。
デニムは元々保護猫であり、特に人嫌いだった。
香奈以外には身体すら触らせなかったという。
それが、たまたま動物病院に行く途中で会った堀倉にはなぜか懐いた。
堀倉にとっては、大学生になってできた人生で初めての恋人であり、卒業後も交際は続き、五年前にプロポーズして結婚した結果、「最初で最後の彼女」となった。
まだ子どもはできないが、愛する妻と、家族同然の愛猫デニムと家で過ごす時間が、堀倉にとっては一番心が安まるひとときになっていた。
だが、この香奈が、
山戸は大学時代から香奈のことが好きだったのだ。べた惚れと言っていい。
それが事もあろうにもっとも安パイで、負けるはずがないと思っていた堀倉蘭人という、容姿もデザインセンスも負けるところのない凡百な男に取られたことが悔しくてたまらないのだろう。
学生の間だけならまだしも、卒業し、就職し、香奈が堀倉と結婚してから数年を経た今もなお、自分への攻撃を止めないのは異常であった。
だが、山戸に絶縁を宣言するほどの勇気はなく、単純に山戸との接触機会を可能な限り避ければいいだろうと割り切ってきた。
堀倉自身、工業デザイナーとして仕事をし、順調に成果を積み上げている山戸や
社会人になって九年目に入ったというのに、それはまだ消えていない。
折に触れネットの、デザイン会社の中途採用募集情報をチェックし、ここはと思ったところに応募はしているのだが、今のところ面接に進めたことは無い。
「ごちそうさま。ありがとう」
堀倉はお茶漬けを食べ終えると、自分でお盆を手に台所へ持っていって洗ってから、香奈と自分のお茶を煎れてリビングに戻った。
「わ、ありがとう」
香奈は笑顔で、膝にデニムを乗せたままお茶を飲み始め、デニムは何? という顔で香奈を見上げる。
「どうだった? 久々の同期男子会」
「杉山も濱部も相変わらずだったよ。ただ山戸のヤツが来ててね、まいったよ」
「あら」
香奈は山戸に対してさほど悪感情は抱いてない。
大学時代も彼のアプローチになびかなかったのは、彼はいつも複数の女の子といるので、自分への気持ちが本気だとは思えなかったからだということで、彼自身に対しては特に感情を抱いてはいないのだった。
堀倉は山戸とはなんとなくソリが合わなくなり、疎遠になったという体にして伝えてある。
「まあ、早めに切り上げてきたけどね」
また自分を下に見ておとしめるようなことまで言われたことは黙っていようと思い、堀倉はそれ以上の飲み会のことは語らず、いつものようにスケッチブックに絵を描き始めた。
対象は香奈であったり、デニムであったり、自分の思い描く家電製品であったりするが、心を落ち着かせたい時は妻をデッサンするのが堀倉の儀式になっていた。
ちらちらと妻を盗み見しながら描いていると、そのうち香奈は気づいて顔を赤らめた。
描き上げたものを見せると、きまって嬉しそうにはにかんだ笑顔を見せてくれる。
山戸に放られた気の重さがやっと取り除けた様な気がして、堀倉は今度は頭の中で考えた電化製品のデザインをラフスケッチとして描き始めた。
転職のための作品の下書きである。
頭の中でイメージしたものをどんどん描いていく。
機能をデザインにどう落とし込むか。
それを考えるのが、堀倉は好きなのだった。
それを仕事としてやりたいがために、工業デザイナーを目指していると言っていい。
それが、流されるままにゲームの仕事をすることになり、自分のスキルの焦点も定まらないまま、あちらの仕事こちらのタスクをこなすといった日々の果てに、明らかに場末のプロジェクトに出向のおまけつきで放られることになってしまった。
そのプロジェクトもまた癖のあるスタッフ揃いで、とても円滑に終わりそうにない。
モデルやモーションは
だが、ゲーム性とやらにはさして興味を抱かない堀倉から見ても、ゲームとしてまだまとまりを欠く印象を抱いている。
それは、HUDやUIといった、画面のデザインにもその原因の一旦があるような気が、堀倉にはした。
真上のデザインしたものは普通の一言で片付けられてしまうし、後を引き継いだ
画面を構成する個々のパーツにもレイアウトにも工夫は感じられず、これをどうしてそのままにしておけるのか、堀倉には疑問だった。
工業デザインの世界には、「形態は機能に従う」という言葉がある。
十九世紀のアメリカの建築家、ルイス・サリバンが残したと言われるこの言葉が、堀倉は好きだった。
デザインは、感覚がすべてではない。
形、色味、配置、そのすべてに意味があるのだ。
シンプルで、それでいて見て機能が分かり、操作に迷うことがない。
それを根底にしつつも、それを質的にどう飛躍させるかがデザイナーの腕、力量の見せ所だ。
「演出」という言葉が近いと堀倉は考えている。
機能という基本を抑えつつ、それを超越した感覚を提示してこそデザイナーではないか。
演出というなら、それは激的でなければならない……。
「何を描いているの?」
香奈に話しかけられ、堀倉は我に返った。
手元のスケッチブックには、『放浪戦記ガンファルンコン』の画面構成デザイン案がいくつも描かれていた。
タイトル画面、モード選択画面、ステージ選択画面、ブリーフィング画面、機体選択画面、HUDと気がつけば何枚も描いていた。
「あー……、ちょっとね、今開発してるゲームの画面を考えてたんだ」
「あら、蘭人さんてエフェクトっていうの? それの担当じゃなかった?」
「そうなんだけど、今、ちょっとUIのクオリティが低いのがチーム内で問題になっていてね、僕ならどうするかなあって考えてたんだ」
「UIって、なんだっけ……」
「ユーザーインターフェースの略。ユーザーがゲームに対して操作をする際の画面、といったらいいかな。まあ、広く言ってゲーム画面のことだよ」
香奈はあまりゲームをやらない。
せいぜい、パズルゲームをやるくらいだ。
仕事もOLを経て、現在は郵便局でパートとして働いている。
堀倉自身、今ではゲームは嫌いではないが、好きかと問われればイエスと言うほどでもない。
シヴァに入社してからは、プレイステーションVitaとプレイステーション3を購入はしたのだが、恒常的に起動することなくリビングに鎮座したままになっていた。
自分が描いた画面を見直してみる。
前の画面との繋がりや、『ガンファルコン』の世界観を折り込みつつも、ゲームをプレイする人のやりたいことがストレスなくできるようにすべきだ。
それらの意図がバランス良く配置できたのではないか。
見た目は、機体選択画面が格納庫なので、ステージ選択画面以降は、母艦の仕官会議室を意識したデザインにしてみた。
(こっちはいい。ここはやりすぎかな)
俯瞰してみて、遊び手であるユーザーに意図が伝わりにくいと思われるところを修正していく。
(……うん、いいんじゃないか)
そう心の中で思った堀倉だったが、香奈が「かっこいい」と言ってくれた。
「そうかな?」
「うん、すごくかっこいい。ここがモチーフになっているんだよね?」
香奈は、傍らで開いているパソコンの、資料が標示されている画面を指して言った。
彼女も同じ美大出で、デサイン方面への造詣は深い。
学生時代は油絵を専攻していた。
「そうそう。後の画面が格納庫だから、そこへつながるようなイメージがいいのかと思って」
「すごいなあ、蘭人さん、こんなの描けちゃうんだ。これでゲームになるのね?」
「いや、これは僕が勝手に描いただけだから……」
「え、出さないの? もったいないよー」
堀倉は、苦笑しながら自分はエフェクトが担当だし、今のUI担当者にも気まずいからと妻に告げた。
香奈はそっか、と言って急須からまた堀倉にお茶を煎れてくれながら、試しに出してみたらいいのにと優しく言った。
「蘭人さん、今これ描いてる時の目、すごく真剣で、でも怖い感じじゃ無くて。いい顔してたよ。惚れ直しちゃった」
少し茶目っ気の成分はあっても、香奈の言葉には真剣味の成分が濃い。
「僕にそんな勇気があるかな」
そうつぶやくと、香奈は夫の背中に覆い被さり、両腕で抱きしめながら、頬を、夫のそれにくっつけた。
「大丈夫だよ。嫌な顔されたらじゃあいいですって引っこめればいいだけじゃない。悪気があって描いたわけじゃないんだもの。仕事を良くしたいって気持ちからなんだから。やりたいことを思い切りやってみたら」
「うーん」
まだ迷っていると、こら二人だけでイチャつくな、僕も仲間にいれろという体で、デニムが机の上にのると、立ち上がって堀倉の胸に両手をついて、何度も押してきた。
妻のぬくもりに包まれながら、デニムを優しく撫でると、デニムはよしよしと言わんばかりに、にゃーん、と穏やかな声で鳴いた。
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