第24話 瀬野木明日香
アルファ2ROM承認、という結果が出て、その
最近はプランナー陣はもちろん、
矢切は、アルファ2ROM承認のお祝いに、皆で飲みにでも行きたかったのだが、自分からは何となく言い出せないまま、一人で退社したのだった。
――気持ちがいいな。
六月。梅雨の時期特有の、湿気の混じったオフィス街の生ぬるい風に吹かれながら、矢切は心身に充実感を覚えていた。
これまではずっと、自らの成果物は現場で「ここがだめ」、「これが分かっていない」と、ダメだしと能力の低さばかりを指摘され、陰で笑われ、仕様一つまともに認められたことは無かった。
だが、今回は違う。俺のディレクションしたゲームが認められたのだ。
矢切はやっぱり気分良く酔いたいと思い、改札の手前で引き返して、駅前通りにある地下のバーへと入った。
以前飲んだ居酒屋に行こうかとも思ったのだが、またあのチンピラに見つかると面倒だと考えたのだった。
割高だが上等なビールを味わいながら、次に実装するアウラ・ハントやステージについて思いを巡らしている矢切に突然横から女性が話しかけてきたのは、彼がカウンターで二杯目を注文しようとした時であった。
「あの……」
声の主を見る。
女。それも美人だ。
アナウンサーの
矢切が記憶の糸をたぐり寄せている間に、女が答えを口にした。
「以前、助けていただきまして……その節は本当にありがとうございました」
矢切も記憶がフラッシュバックした。
酔ってはいたが、記憶は明確にある。
三月末。アルファ版提出時。あの時のチンピラに絡まれていた女か。
「お礼も言わずに逃げてしまって、申し訳ありませんでした」
女が頭を下げたが、矢切は苦虫をかみつぶした様な表情になる。
あれは、助けたというよりも矢切が巻き込まれた結果、というべきであろう。
おまけに矢切自身は嘔吐と暴力の二重奏に悶絶しただけで、能動的に彼女を助けようとしたわけではない。
「あ、まあ、あれは……」
矢切は、今度はドギマギし始める。
やはりきれいな人だと思った。
それも相当のレベルにある。
花柄のワンピースの上に、紺色の上品そうなジャケットを羽織っていた。
「お隣、よろしいですか?」
「は、まあ」
女は失礼しますと言って、カウンターの矢切の隣の椅子に座ると、
彼女は改めて矢切の名前を尋ねてからお礼を言うと、あの日の経緯を話した。
あの日、瀬野木明日香は一人で食事に来ていた。
あの通りにある、おいしいと評判の隠れ名店と言われる店での食事を終え、駅へ向けて歩いてたところ、あの男たちにわざと肩をぶつけられ、いいがかりをつけられたのだという。
「そこに矢切さんが通りかかって助けてくださって……」
「いや、あれは助けたというよりもたまたまというか、何というか」
あの惨状は彼女も見ていたはずだと思い、矢切はその時の事情を素直に話した。
自分はちょっと仕事で面白くないことがあったので、酒をしこたま飲んで酔っ払っていた。
それから駅への道を探していたところ、あの場に通りかかっただけだ。
相手に蹴られて胃の中のものをのきなみぶちまけてしまい、その惨状に相手がひるんで勝手に退散した……。
「だもんで、お礼を言われるような筋合いのモンじゃないんです」
「でも、結果的に助けられたのは間違いありません」
瀬野木明日香は、今日も食事をした後、少し飲みたくてこのバーに来たところ、あの時助けれてくれた男の人を見つけて、声をかけさせてもらったのだといって、空になった矢切のグラスを見ると、バーテンダーに矢切のビールを自分の支払いでつけてくださいと頼んでくれた。
「矢切さんって、どんなお仕事をされてるんですか?」
「ええと、ゲームです。ゲームの開発会社で、プランナーをやっています」
矢切がビールのお礼を言ってからそう言うと、やや間をおいて、瀬野木明日香は微笑を浮かべた。
「まあ、私、ゲームのお仕事をされてる人とお知り合いになるなんて初めてです」
うわ、本当にきれいな人だなと矢切は見とれた。
焦って彼女から目線を反らし、瀬野木さんはどんな仕事をしているのかと聞いた。
「私は、知り合いの喫茶店で働いているんです。週に四日だけ」
ということは、アルバイトだろうか。
年のころは二十代後半、と矢切は推測したが、直接それを聞くのはさすがにはばかられた。
それ以上会話の糸口を見いだすことができず、矢切は黙ってビールを飲んだが、彼女の方が話題を振ってくれた。
「ゲームのプランナーって、どんなお仕事なんですか?」
「あー……、企画書を作ったり、仕様書を作ったり……」
ゲームプランナーが具体的にどんな仕事をするのかという問いに対して、矢切は系統立てた答えを返すことができなかった。
それでも、瀬野木明日香は興味津々といった体で、矢切に仕事についての質問を繰り返しては、彼の簡潔とはほど遠い答えを聞いては感心したように頷いたり、さらに話題を掘り下げてくれたりした。
矢切も、これだけの美人が自分の仕事について興味を持ってくれていることが少しずつ嬉しくなり、発する言葉にも熱が帯びるようになった。
だが、瀬野木明日香がこれまでどんなゲームを作ってきたのかと聞いてきた時に、知名度のあるタイトルが一つもないことに気づいて、頭をかいた。
「あー……、言ってもご存じないかと思います」
「構いません、私調べちゃいますよ」
矢切は、やむなく直近のタイトルを挙げたが、簡単な仕様か、ルーチンワークに近い雑務しかこなしていなかったことを思い出して、眼鏡を指で何度もずりあげた。
瀬野木明日香がスマホでそのタイトルを調べていたが、矢切をそれを遮るように言った。
「それよりも、今やっているタイトル、僕がディレクターなんです」
それは嘘ではなかった。偶然というか、棚からぼた餅というか、最初は嫌がっていたくせに、結果的に自分の意思の基にイメージしたゲームが実装されていく様を見て、矢切は自分自身が初めてディレクションをしているタイトルなのだと自己顕示欲が増している。
「そうなんですか。ディレクターって、監督さんですよね」
そう言って、瀬野木明日香は感心したようにまた笑顔を向けてくれた。
それから、まだタイトルは言えないが、人気のある原作アニメをもとにしていること、ディレクターやプランナーの違いや、仕事のやりがいについて話しているうちに矢切はすっかり気分が良くなり、気がつけば一時間以上、二人で話していた。
「あ……、私、そろそろ帰らないと」
瀬野木明日香は、腕時計を見て言った。もう二十二時を過ぎている。家は近くだが、タクシーを使って帰るという。
「そうですね……、俺も帰ります」
ああ、美人とのフリータイムもこれで終了か……。
矢切が悶々とした思いで会計を待っている間、瀬野木明日香は、遠慮がちに、よろしければ今度お食事をごちそうさせていただけませんかと言った。
矢切は、帰りの電車の中で、スマホの連絡用アプリ、『サークル』に新たに追加された『瀬野木明日香』の名前を何度も見てはにやついた。彼女から、先日のお礼、という体で食事の約束をし、連絡先を交換したのである。
女性の連絡先がスマホに入るなど、前の会社の社員旅行で同じ班になった女性スタッフと、非常時に備えて交換した時以来だった。
その時の女性スタッフの諦観したような表情が、中学の時の野外活動の時のフォークダンスで自分を前にした時の女子生徒と同じ
(なぜ、あんな美人が俺と食事を?)
お礼、というにしては、いささか行き過ぎている気がする。
それに、今日改めてお礼を言われて、それではさようなら、でもまったく自然な流れだったのだ。それが、彼女の方から食事に誘ってくれた。
そこにどんな意図があるのか。
(マルチ商法か? 壺か? 絵画か? はたまた宗教か?)
矢切は、自分がどれだけモテない男かは骨身にしみて理解している。
四十五歳の中年で、天然パーマの完全メタボ体型。オストマルク社内では、「ブタ」と陰口をたたかれていることも知っている。
性格も、自分ですらいいやつだとはとても思えない。
もちろん、健康な男であるから恋人は欲しい。
学生時代は卑屈さと消極性が女性へのアピール行動に大きくブレーキをかけたが、社会人になってから、より言うと、今の会社オストマルクに転職してから、このままでは一生独身だぞと、積極的にアタックというものを行うようにした。
同僚や後輩に、いいなと思う女子がいれば、積極的に話しかけたり、思い切って映画に誘ってみたりしたが、それらはすべて「大裏目」に出た。
矢切は、ことあるごとに先走りすぎてしまったのだ。
上長からセクハラに当たると注意を受けた時は恥ずかしいと思ったが、それよりも相手を恨んでしまう気持ちの方が強くなってしまうのが、矢切という男の性である。
特に、今はもう会社を辞めてしまったが、
街で、二人でデートをしているのを見た矢切は嫉妬の炎に燃えたが、せいぜい恨みがましい皮肉の言動を投げつけることくらいしかできなかった。
早見雪乃は数年前に突然会社を辞めたが、どうやら、北浜とは別れたらしい。だからといって矢切自身に何らチャンスがあるわけでもない。
(いやいや)
矢切は頭を振るった。
今は、早見雪乃よりも瀬野木明日香だ。
彼女は、早見雪乃に勝るとも劣らない美人と言えた。
そんなレベルの女性が、いくらお礼とはいえ自分の様な男と食事に行くなどありえるのだろうか。
そこにはやはり、他意が、具体的に言うと、矢切をカモと見なして何かの食い物にするつもりでいるのではないか……。
彼女の行動の裏にある意図を推し量りながら、矢切は焦ってはいけない、と気持ちを新たにした。
(とりあえず、会ってみよう。怪しいと思ったら、もう会わなければいい)
これまでの、焦って距離を詰めようとして嫌われた過去の経験を振りかえりながら、また瀬野木明日香の目的がどこにあるかを考えながら、矢切はなるようになるさ、との思いに至った。
(人生で一度だけでもいい。恋人がいる、という生活を味わってみたい。ましてあんな素敵な人が相手なら――)
そこで矢切は、向かいに座っているのが、朝の電車でよく見かける、「頭のはげ上がった冴えない中年オヤジ」であることに気づいた。
相変わらずのくたびれた格好。
また瀬野木明日香の連絡を見ながら、矢切は密かに優越感に浸る。
翌日から瀬野木と『サークル』で連絡を取りあった結果、食事の約束は二週間後の金曜日の夜に決まると、期待と不安が入り交じりつつも、仕事中も『サークル』に届いた瀬野木明日香からの返信を何度も見ては表情を緩ませる矢切だった。
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