第19話 ファンクション

 定時きっかりになると隣の席の鳥羽とばが無言で退社した。

 この男はいつもこうで、定時前にはもう退社準備を終え、定時ちょうどに社内勤怠管理用HPホームページ上で退勤記録をつけると、一分以内に部屋から出て行く。

 金矢かなやも、適当に区切りのいいところまで作業を進めてからとっとと退社した。割り当てられている箇所だけならば作業は順調だ。


 十九時過ぎ。

 マンションに帰っても、何をやるでもない。

 帰りに寄る場所といっても、せいぜい飲み屋で一人で酒を飲むくらいが関の山だ。

 自分の仕事のやりがいなど、金矢はもう考えなくなった。

 生きるためだ。生活費を稼ぐためだ。ただそれだけだ。

 また酒を飲んで帰るかと考えていた金矢は、通りの大きな書店に入る人の中に、見覚えのある顔を見た。

 誰だったか。

 書店の前を通り過ぎても、頭の中で検索を続ける。

 数十秒を経て、彼の頭脳は検索結果にたどりついた。


 (冨和ふわさんだ)


 思い出した。あれは冨和ふわ宗広むねひろだ。

 スキールニルで初めてアサインされたプロジェクトで、自分の上長になった先輩プログラマーだ。

 その答えにたどり着くと、金矢の身体は考える前にUターンしていた。

 本屋へと歩きながら、冨和との思い出が頭の中をよぎる。

 チームでのゲーム開発など右も左もわからない自分に、親切にしてくれた先輩だった。

 二十五歳の時に出会い、プロジェクト終了後、チームが解散してから十年近くの間、社内の飲み会などで数えるほどしか再会した記憶がない。

 書店の中で冨和を探すと、彼の姿はコンピュータ関連書籍コーナーにあった。


 中肉中背で、昔と変わらぬ刈り上げた坊主頭は一見怖そうだが、丸型の眼鏡の奥の目は少し垂れていて、柔和な人柄をそのまま表している。

 分厚い専門書籍を広げている冨和にゆっくりと歩み寄ると、金矢は控えめに声をかけた。


「冨和さん」


 冨和は金矢の顔を見ると、間をおかずに破顔して手にしていた本を閉じた。


「金矢君やないか。久しぶりやなあ」

「ご無沙汰してます」


 冨和は大阪出身で、大学進学の時から東京住まいと聞いてたが、ずっと関西弁を使い続けている。柔らかく関西弁で話す彼の口調が、金矢は好きだった。


「今、どうしてるんや? 会社を辞めたくらいしか聞いてへんかったから」

「今は……、トリグラフというところでお世話になっています」


 冨和は、トリグラフのことを知っていた。中堅どころだが、今順調に伸びている会社だなと嬉しそうに言った。


「冨和さんは、ずっとスキールニルですか?」

「ああ、そうや。でも出世はしていないし、給料もあがらへんなあ」


 と冨和は冗談めかして笑った。

 金矢は冨和が手にした本に目をやった。


AIエーアイですか?」

「ん? ああ、そうや。次のプロジェクトでは、COMの学習型AIを担当することになってな。そんなん初めてやから勉強せなあかんのや」


 冨和は自分よりも十くらい上だったから、今では四十三歳くらいにはなっているはずだ。

 当時、金矢は彼のことを、最初こそ面倒見がよくて頼れる先輩だと思っていたが、プロジェクトを終えるころになると、実力は大したことは無いと格下の判断を下していた。

 だが、彼の醸し出す空気にはどこか人を和ませるものがあって、何よりも一緒に仕事をすること自体が苦にならなかった。


「金矢君はどうや、仕事の方は?」

「え、ええ、まあ何とか……」


 何と答えるべきか、自分自身でも心の中にあるものを言語化することができず、金矢は言葉を濁した。


「金矢君、今、時間大丈夫か? 良かったらちょっと飲みにでもいかへんか?」

「え」


 金矢の虚を突かれたかのような表情に、冨和はそうか、君は家庭があったなァ、いきなり飲み会とか奥さんに怒られるやろなァと頭をかいたが、金矢は苦笑しながら言った。


「大丈夫です。実は離婚しまして」


 冨和はぶしつけなことを言ってすまなかったと頭を下げたので、金矢も慌ててもうずっと前のことなのでと言った。


「行きましょう。誰かと飲むなんて久しぶりです」


 今日はたまたま午後から仕事の打合せがこの近所の会社であって来たので、この辺りは詳しくないのだと告げた冨和に、金矢は近場の普段よく利用する個人経営の居酒屋へと彼を案内した。

 カウンターで並んで座り、生ビールの中ジョッキで再会を祝して乾杯をする。


「あーっ、うまいわ、仕事帰りのビールてなんでこないにうまいんやろ」


 金矢も笑顔で同意しながら、ビールを飲んだ。

 冨和は互いに好きなものを注文しようと言って、適当に料理を注文してから、自分の仕事について語ってくれた。

 今まで冨和が開発に携わったゲームについてや、現場での仕事の進め方について語るその口調には、押しつけ感や説教感は無く、金矢はじっと話に聞き入っていたが、やがて、会社を辞めようと思ったことはないのかと尋ねた。


「まあなあ、まるっきり無かったかというとそれは嘘になるなあ。そやけど、ぼくはみんなでゲームを作るのが好きで、それでやってこれたわ」


 冨和は、よければスキールニルを辞めた理由を教えてくれないかと金矢に言った。


「冨和さんは聞いてないですか? 俺の下への指導がパワハラだとされて、それで基礎研究の部門に回されたんです。それはそれで大事な仕事だと理解はしていたんですが、自分もやっぱりゲームが作りたくて」


 自分は陰で「鉄拳」と揶揄やゆされていたくらいだから、冨和もその辺りの経緯は知っているはずだと思った。

 冨和は黙ってビールを飲んでから、穏やかに言った。


「君はパワハラをしてたという自覚はあったんか?」

「いいえ。でも、正直、キツくやりすぎたという反省はあります」

「なんでキツク後輩に当たってしもたんやろなァ」

「自分が苦労したり、最初からこう考えておけばよかった、というところを、後輩にも自分で気がついてほしくて。教えられるんじゃなくて、自分で気がつくように後輩の考えを向けたかったんです。それにゲーム開発の現場では、スケジュール管理やタスク管理が他のIT企業に比べて甘いと思ってましたし……」


 冨和は、その金矢の答えには何も言わずに、自分の経験の上でのことだがと前置きして、職場で人にキツク当たる人の目的は二種類に分けられると言った。


「一つは、ほんまに直してもらわなあかんところがあるからキツクせざるをえない、言ってしまえば変わってほしいためにそうする人、もう一つは、自分のためにやる。これが圧倒的に多いなァ」

「自分のため?」

「組織の中で、自分を特別な地位に置く。これを目的として他人にキツク当たるちゅうことやねん」

「自分を特別な地位に置くって……どういうことでしょうか?」


 冨和は、本で読んだ程度だが、心理学をかじったと言った。


「人間には、組織に属していたいという根源的欲求があるんや。その組織の中で、『自分はここに居ていいんだ』と自分で自分を肯定できる人は問題ない。が、そこに不安を覚える人、ちゅうのがおるんやな」

「不安……」

「会社組織の場合、能力的なものであったり、対人関係の問題がほとんどやけど、一言で言ってしまえば、自分に自信がないんや。だから、他人にキツクあたることで、組織の中で特別な地位を保とうするわけやな」


 能力があると思われる人でも、この『自分への自信の無さ』という、言わば劣等感を持っている人は多いのではないかと言って、冨和はまたビールを飲んだ。


「ぼくはそのことを知ってから、職場で起きた色々なことに当てはめて考えてきたんや。ほんで、それはおおむね間違っていないんちゃうかと考えた」


 冨和は、実は自分も、入社して数年後、仕事に少し自信が持てるようになってきた時に、下に部下がつくようになってからその傾向が出たと苦笑した。


「要は、後輩に舐められたくない、周囲から後輩よりも劣っていると思われたくない。それが目的やな。後輩にきつく当たることで、自分を現場で特別な地位につけようとした……。自覚は無かったけど、今なら自分の目的はそうやろと分かるわ」


 自分はどうだろうか。金矢は自問し始めた。

 確かに後輩に自分で仕事の要に気がついてほしい、そのためにキツク当たって自分で考えさせるようにすることが目的だったはずだ……。

 同時に、自分が冨和と仕事をしていた時の彼の印象は、それと異なっていたことに気づいた。


「でも俺と仕事してた時は全然そんな感じしなかったですよ」

「もう、これじゃアカンと悟ったからなあ」


 冨和は苦笑した。

 自分はプログラムを組む以外にも、先輩として、部下に必要な知識や情報を適切に提供して、成果を出してもらう環境を整えるのも仕事だ、その中で、自分で考え、自分で判断し、自分で動くことができる様なプログラマーになってもらいたいと考えていると言って、酒を切り上げてウーロン茶を注文した。

 金矢は冨和と話しているうちに、スキールニルでの日々でささった棘が、またチクチクと腹の中で熱を帯びてくる様な感触を覚えた。


「俺は、間違っていたんでしょうか」

「俺にはわからへん」


 冨和は柔和な表情でそう言って、実は自分は空手をやっているのだと言った。

 下手の横好きの生きた見本と言っていいくらいのレベルだが、と前置きして、ゲームを通じて武道に興味を持っていたこともあり、五年ほど前に空手かテコンドーを習おうと思って見学に行ったという。

 だが、寸止めの空手はそのスピードについていけそうにないと思ったし、直接打撃をウリにしていた実戦空手は痛そうだったしテコンドーは柔軟性の面で自信が無くなり、どうしようかと思っていたところ、ある空手流派の道場が肌にあった。


「そこは、空手いうてもいわゆる古流やねん。試合をせえへんし他流の大会にも出えへん。練習っちゅうか、ひたすら型と、その型から生まれる約束組手を稽古として延々やるだけや。たまに組手もやるんやけど、師範の先生が言うたらおっさんやけどめっさ強いねん」

「本当に?」

「自然体で立っているだけやのに、とにかく踏みこめへんねん。かかっていったら絶対にやられるのが分かる」


 たまに、他流の空手経験者が、それも大会で入賞するクラスの若者が体験入門してきた時に遠慮無く攻撃したが、カウンターを食らって悶絶する。

 傍目には遅いどうってことのない突きに見えるが、相手側は食らってしまう……。


「……失礼ですけど、わざとじゃないですか? 空気を読んでいるとか」


 金矢は気で飛ばすとかいった、超能力の類を一切信じない質だった。

 冨和は自分もそう思っていたと笑った。


「いっぺんでも向き合ったら分かる。これは踏みこんだら絶対にやられるちゅう感覚が。約束組手で師範に突きを入れようとしたんやけど、え、ていう感じでカウンターの突きくらうか、崩され、こかされるかや。突きとかもうめっさ重いねん。加減してくれてるんやけど、身体に鉄球ぶつけられたみたいや」


 その師範の指導、といっても皆で師範の型を見ながら延々と型を繰り返すだけだ。

 師範が皆の様子を見ながら、折に触れて腕や足の形を直しながら見回るが、多くを語らない。

 それが終わると、今度はその型を使った約束組手が始まる。

 師範が手本を見せ、それを皆で延々繰り返す。

 それが終わると、今度は相手の攻撃に型の技で対抗する自由約束組手。

 全体の練習はほぼそれだけで、以後は個人個人が練習している型の練習。

 そこも師範が適当に回って見てくれるが、基本は形を直して、一言か二言、何か言われるだけ……。


「たまに、最後に自由組手もあったけどな。稽古では型と約束組手を延々繰りかえすんや。筋トレすらせえへん」

「そんな練習で強くなれるんですか?」

「本人次第や」


 ある日、有名な国立大学の学生が入門してきた。

 彼は師範の実力は身を以て思い知り、師範に矢継ぎ早に質問を浴びせたという。


「どうやったらそんな重い突きが出せるんですかとかこの練習に何の意味があるんですかとか……まあ物理的にとか科学的にとかそういった言葉をよう使う子やったわ。そやけど師範は苦笑いしてまあ型をじっくりとやりなさいとだけ言うてたわ。その子、結局すぐ辞めよった。ここは月謝払ってるのに教えてくれへんちゅうてな」


 その大学生に限らず、たまに皆で飲みに行った時など、師範に対する不満を口にする道場生もいた。

 なぜもっと親切に教えてくれないのか。

 自分たちは月謝を払っているお客様なのに……。


「忘年会で師範がぼそっと言いはったんや。最近の人はすぐに答えを求める、最短距離で正解に近づきたがるんだなあって。僕はそれはそれで自然な欲求とちがいますか、て言ってみたんや。そしたら師範はぼくの顔を見てから、自分は師から空手を習った時、ただひたすら鏡になったと言いはった」


 自分が習った空手は、口で教えて身につくようなものではない。

 無心にただ師の型を見よう見まねでなぞっていく。

 文字通り無心で、ただ師の姿を映すように型を繰り返す。

 それを繰り返して、空手の技を使う土台を作る。

 その時に、理屈を考えてはだめだ。

 ただひたすら師の型を映すのだと師範は言ったと冨和は続けた。


「しばらくして、道場の古参のメンバーでも、実力に差があることがわかってきたんや。それはまあ当然なんやけど、飲み会の席で実力が上の人たちに一人一人尋ねて回ったことがあるんや。練習のコツはあるんですかいうて。そしたら、実力があるなァと思う人は皆、ただ先生の型を写し取るように型を練習して、約束組手をやるだけやと同じことを言うとった。中途半端な人ほど、自分なりの解釈や経験を付け加えて上から目線でアドバイスしてきよった」


 自分は、その空手道場は、本当に何となく、という体で続けられたが、そういった稽古に取り組む姿勢というものに目が向き出したのは道場に通いはじめてしばらくしてからだと冨和は言った。


「ぼくも現場ではただ仕事をする姿勢、背中、それをまず見せなあかんなァと考えるようになったんや。挨拶せえ、やのうて、自分から挨拶する、一つの仕事を始めから終わりまでどうこなしていくのか、悩みや迷いが生じた場合はどうするのか……。それを意図的に後輩のスタッフたちにも見せ、相談もした。その中で最もぼくが意識したのは、自分を特別と思わない、ただそれだけや」


 その後、話題は最近のゲーム業界の動向や、参考になりそうな資料についてに話題は移った。

 冨和は金矢の仕事には触れてこないのがありがたかった。

 冨和とそんな当たり障りもない会話をしているうちに、彼が言った「自分を特別と思わない」という一言が、金矢の頭の中で少しずつ大きくなっていった。

 金矢は冨和と連絡先を交換してから別れて自宅のマンションへと戻り、水を飲み、シャワーを浴びながらも、彼の言葉を何度も頭の中で反芻した。


 改めて、スキールニル時代の自分を振り返る。

 自分は本当は、後輩達が怖かった。

 ヒット作に携われて成果が出たのは言ってしまえば運であって、自分の実力ではないのだ。技術的に抜かされるということだけではなくて、現場で後輩に誤りを指摘されたり、笑われたりということが怖かった。

 自分には、確かにそういう人間の器として小さなところがある……。

 冨和の下について、やがて彼を見下し、そして次に今度は後輩から自分がそう見られることを恐れたのだ……。


 冨和と再会してからまだ数時間だというのに、金矢は驚くほど過去の自分を冷静に見つめられるようになっていた。

 冨和という人間の持つ何かが、自分に何らかの変化を生じさせたのだとぼんやり考えながら、彼のもとで働いてたころは確かに自由だったと思った。

 威圧も嘲笑も無く、相談も気軽にできた。

 だからこそ自分に課せられたタスクに全力で取り組むことができたし、冨和から認められると達成感を味わい、さらにもっともっととゲームのためにコードを短く組む工夫を重ね、新しいことも貪欲に学び、それがまたさらなる実績を産む好循環を作り出していた。


 冨和宗広という男の持つ度量が、自分のゲーム業界におけるプログラマーとしての基礎を築かせてくれた。

 同時に、彼がなぜスキールニルで出世できないのかも、分かったような気がした。

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