第二章 混沌

第5話 ストレージ

 二月の出向初日。

 幸い、出向先であるトリグラフの所在地は東京の中でもオストマルクからあまり遠くない場所で、矢切やぎりは家を出て普段通りの電車に乗った。

 よく会う同年代と思しき中年のサラリーマンともまた乗り合わせることとなり、また席を巡る攻防戦に競り負け、矢切は憮然ぶぜんとした表情で、立ったままカバンから原作小説『放浪戦記ガンファルコン』の第一巻を取り出して読み始めた。

 

 矢切はアニメから『ガンファルコン』にはまりこんだのだが、原作の小説も高校時代から全十巻を五回は読み返している。

 それでも再読を始めて矢切はすぐに物語の世界に夢中になった。


(何度読んでも、面白い)


そして、これを自分の手でゲームにできるのだと思うと、高揚感が湧いてくる。

 版権モノとして、現在の人気は隆盛とは言えないが、知名度は申し分ないし、固定のファン層も存在している。

 アニメファンならば、誰もが知っていると言ってよいタイトルなのだ。

 そのゲーム開発にスタッフとして参加できるのは、矢切の承認欲求を満たすには充分と言えた。


 これまで、矢切が開発に参加したゲームタイトルは、大小二十本になる。

 その中には版権モノも何本かあるが、知名度は高くても矢切には興味のないタイトルのものばかりだったし、任された仕事にも大して力を入れず、もっとも悪い意味において「いかに楽をして得するか」が矢切武の行動方針になっていた。

 その方針そのものは今回も変わってはいないのだが、『ガンファルコンおたく』と言ってもいい矢切は、今回のタイトルではどんどんアイデアを出していこうと張り切っていた。

 アイデアを仕様化し、実装するのは、他の人がやってくれればいい、そしてそのアイデアが採用されれば手柄は自分のものだと自身にとって都合のいいことだけを考えているのである。


 今までの、灰色一色といっていい自分の職務経歴書に、胸を張れるタイトルを加えてやるという意気込みが沸々ふつふつとわき上がってきた。

 版権モノで面倒があるとすれば、『監修』であろう。

 版権モノにおける『監修』とは、開発現場で作成した素材や仕様が、原作の設定やイメージ、雰囲気を壊すものになっていないかを、版権を所持している版元からチェックを受ける工程のことを言う。

 修正すべき箇所が指摘されれば、現場はそれに対応していなければならない。

 監修対象となる素材や資料を提出し、それを版元が監修して開発現場に戻すまで、手間も時間もかかる。

 だが、矢切はその点をあまり心配はしていなかった。


 デザイン方面については自分はノータッチで、デザインセクションのスタッフに丸投げでかまわないだろうし、仕様やテキストについては原作やアニメから外れない自信がある。

 矢切は完成されたゲームの特集記事やゲームを見て驚く会社の連中を夢想して、ほくそ笑んだ。

 やはりゲーム開発者として、作り手として、「評価されたい」という欲求は強い。 

 まして今度は好きな原作モノだ。これは、千載一遇のチャンスである。

 矢切は、電車を降りて駅を出ると、出向への不安をやや上回る期待感を胸に、これからしばらくの間出社することになる、ゲーム開発会社『トリグラフ』が入居しているオフィスビルへと入っていった。


 最初は三階の小さな会議室に通され、事務の中年男性から開発中のタイトルおよび社内で見た情報は外にもらしてはならないという機密保持契約の書類とセキュリティカードを渡された。

 それにサインすると、就業関係の話に移る。

 始業は午前十時から。

 お昼休みは十三時から十四時。

 終業時刻は十九時。

 欠勤・遅刻などの勤怠の連絡は、専用のメールアドレスにメールで連絡すること。

 事務の男がそれではオフィスへと機械的に言って矢切が案内されたのは、ビルの二階の一室だった。

 セキュリティカードをかざし、ドアを開けて中に入ると、目に入るのは機材や段ボールが積み込まれたスチール棚だった。

 その右側のスペースを通って奥へ進むと、パーティションで区切られた狭いエリアに、机がぎちぎちに詰めて並べられ、何人かの男たちが座っていた。


 ネットワーク環境は当然整備されているようだが、コピー機はなく、年代ものの共用プリンターが床に無造作に置かれてあって、全体的に無味乾燥で無機質。

 蛍光灯の明かりだけが光源で、窓も棚で塞がれている室内は暗い印象である。

 どう見ても、倉庫として使っている部屋に無理矢理スペースを作ったとしか思えない。

 各席には、すでにスタッフとおぼしき人間が、無表情あるいはつまらなさそうにパソコンで初期設定をしたり、スマホをいじったりしていた。

 可愛い女性スタッフでもいればまだ救われるのにと思った矢切だったが、残念ながら全員男だった。

 このオフィスはこのチームしか使用しないので、セキュリティカードさえあれば二十四時間出入り自由だと付け加えて事務の男性は去って行った。

 矢切はとりあえず軽く皆に頭を下げて、空いている席に座ろうとしたが、パソコンに向かってカタカタ何やら作業をしていた強面で無精髭をたくわえた男が声をあげた。


「あー、そっちそっち」

「はい?」

「あなたプランナーでしょ? プランナーはそっち」


 無精髭ぶしょうひげの男が指を指したのは、その男の向かいの真ん中の空席だった。

 その左隣は空席で、右隣には、背の小さな、髪を茶色に染めて耳にピアスをつけ、何やら読めそうに無い文字が大きく書かれたど派手なTシャツを着た軽薄そうな若者がいた。


「はあ、どうも」


 矢切は気のない返事を返し、指示された席に座った。


「プランナーッスか、俺もそうッス! よろしくッス!」

「オストマルクから来ました矢切です。よろしく」


 若者は陽気に挨拶をしてきたが、どうにも波長が合いそうになく、矢切は淡々とあいさつだけして席についた。

 若者は胸にぶら下げたセキュリティカードに、「前戸満須雄 MAETO MISUO」と書いてあり、トリグラフのロゴが印刷されていたことから、この会社のプランナーなのだろう。

 見渡すと、向かい合わせになるようにセッティングされた机に、椅子が合計十組。

 そのうち、席にまだ誰も座っていない席が一つある。

 どうも、席に座ってからも違和感を感じていた矢切は、その正体を認識した。

 机が、よくよく見ると、オフィス用の事務机ではなく、長机を三列並べて机にしているのだった。

 その上にスタッフ一人につきモニタが二台とパソコンが置かれ、隣の席との仕切りも無く空間的余裕も少ないので、余計に圧迫感がある。


「これネットワークアカウント。開発機材はその隅にある段ボール」


 強面髭面の男が、対面から一枚の紙を無造作に渡してきた。

 矢切はどうもと言って受け取り、パソコンを起動させてそこに記載してあったアカウントでログインした。

 パソコンの性能は、取り立てて古いものではなかったが、スペックはオストマルクで使っているものよりも劣る。


(なんだこの環境……?)


 パソコンに、普段仕事で使っているアプリケーションが入っているかを確認しながら、横目でオフィスを改めて見渡す。

 通常、オフィスの一部のスペースを倉庫代わりに使うのは珍しいことではなく、普通のことである。


(いや、これどう考えても丸々倉庫として使ってるだろ)


 トリグラフはこのビルの複数階、しかも一フロアでも複数の部屋を借りており、その中で比較的狭い部屋を、倉庫として利用しているのはうなずける。

 だが、一室丸々倉庫として使っている部屋の中に、無理矢理オフィスを設けるというケースは矢切は聞いたことがなかった。

 せめて、倉庫とオフィスのスペースを明確に分けてくれればいいのに、どう見ても、倉庫内に無理矢理作った急ごしらえのオフィスである。

 さきほどの軽薄そうな若い男に話しかけてみる。


「あの、ここって普段からオフィスとして使われてるんですか?」


 若者は首を横に振る。


「いいえー。普段は倉庫として使ってるんスが、このプロジェクト用にスペースが必要ってことで、急遽作ったんス」


 やはりか。

 だがそれにしても、よどんでいる。空気が。

 まごうかたなき負のオーラがこのオフィスという名の倉庫に満ちている。

 暗く感じるのは、窓がスチール棚で塞がれたこのオフィスという名の倉庫のせいだけではない。

 ここに集められた連中から、活気を感じないのだ。

 矢切は居心地の悪さを感じつつ、パソコンの確認を取った後、段ボールからニンテンドースイッチの開発機材を取り出し、机の上に持って行った。

 その時、前戸という若者の机の上にある電話機が内線の着信を告げるべく、けたたましい音を上げる。


前戸まえと、音量下げろようるさい」


 無精髭の男が不機嫌な表情で言うと、前戸は苦笑しながら受話器を取った。


「はいはいどうもー二階ですー前戸っスー」


 前戸は相づちを打って電話で話し、受話器を置いてから言った。


「クライアントのヘクトルの方が来たんでー、みなさん、十階の大会議室に来て欲しいそうッスー」


 その声で、皆のそのそ、という体で動き出し、矢切も後に続いた。職場も人の雰囲気も、重い。


(――これは、外れか?)


 矢切は、どことなく嫌な予感を抱えた。

 昔から、自身が抱くこの手の嫌な予感はほぼ外れたことがない。

 オフィスから出る時、入り口のドアを見返すと、その上には『株式会社トリグラフ倉庫』と書かれたプレートが掲げられていた。

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