夜中に一人、ベッドの上で

安野穣

夜中に一人、ベッドの上で

 寝付けない夜に一つ、咳の声がこだまする。

 辺りは暗く、人の気配は感じられない。扉の奥にも、壁の向こうにも息遣いはなく、無機質さと夜の闇がすべてを覆い隠していた。遠くで鳴いているはずの虫の音すらここまで届きはしなかった。

 寝転がったままの姿勢では苦しくなり、体を起き上がらせる。動いて、咳一つ。手を上に伸ばして伸びをし、凝り固まった体をほぐす。肺にたまった吸気が漏れ、その刺激によっても咳が出る。ごほごほと何回か繰り返し、喉の奥が痛くなって無理やり抑え込む。咳の燻りが収まって漸く息を吸い、落ち着いた。

 ベッドの横の机に手を伸ばし、カレンダー付腕時計で日時を確認する。ここに来てまだ一週間しか経っていない日の午前二時だった。折り返し、と思うこととして、今をどうやり過ごすかが重要だった。大体四時間後には起床時間で、検温やら血圧測定やらのバイタルチェックで無理やり起こされてしまう。今から寝ようものなら日中寝不足は避けられないが、この時間からずっと起きているわけにもいかなかった。

 息苦しさに目を眇めながら、カーテンの閉まっていない窓に顔を向けた。夜空にはやや傾いた満月らしき月が皓々と輝いており、街の明かりと相まって暗い星を光の向こうに秘している。ここからでは街灯はおろか地上を走る道路すら見えない。かろうじて高架の高速道路を駆ける乗用車やらトラックやらが見える程度だった。このところ収まりつつある、高層建築ブームに乗っかって量産されたビルやマンションの冷たい灯かりが、夜景と呼べるくらいには綺麗に映っていた。

 よく、冷たい街と揶揄される東京だが、この時代になって本当に凍り付いてしまったのかもしれない。それまでは、無機質にも思える街の中にも、暖かさは残っていた。訳もなく夕飯を差し入れてくれるお隣さんだったり、渋々を装っていつもおいしいご飯を奢ってくれる先輩がいたり、冷えた街ではあったが、底の方に、確かにぬくもりの炎はあった。

 しかし、今はそれもなくなった。咳をすれば白い目が向けられ、距離を取っていてもマスクをしなければ変質者扱い、熱があるといえば電話すらよこさなくなった。欠勤をすれば噂を立てられ、会社に入院の必要を伝えると、第一声は「辞めてくれないか」。お隣さんは目も合わせず、仕事の先輩は、しばらく関わらないよう会社からのお達しがあって連絡を取れないとメールが来た。

 あらゆる方面から腫れもの扱いされ、それは同じ境遇の、先にいた人からも受け、たまらず自費で個人部屋を借りた。ただでさえ仕事の厳しさで健康体ではなかったというのに、さらに精神まで病んでしまっては治るものも治らない。

 遠ざけるような冷えた視線と、突っぱねるような冷えた対応が、人の心まで凍ってしまった現状を浮き彫りにさせる。かの疫病が、東京という街を、そこに住まう人の心を、氷の中に閉ざしてしまったのだろうが、それがとける兆しは一向に見えない。

 陰鬱な気分はそのままに、ぼんやりと月を見上げながら、お気に入りのイヤリングを見つけて嬉しそうに笑う彼女の顔を思い出す。少し遠めのデパートに行く予定で、乗る電車を間違えたり、途中で靴擦れを起こしたり、寄ろうとしていた喫茶店が休みだったり、何かと不幸が重なった一日だったけれど、そこで見つけたイヤリングをとても気に入って、「色々大変だったけど、よかったよ」と帰り道に笑っていた君。

 そんな彼女とも、一週間近く顔を合わせていない。

 会わなかったのではなく、会えなかった。

 この咳のせいで入院することになったとき、彼女もまた、二週間の自宅待機が言い渡された。幸い彼女には何もなかったが、かといって外に出られるわけでもない。友達との約束も流さざるを得なくなり、通勤もできず、たった一人で家にいる。

 入院することが決まった日は、狼狽えてしまって大変だった。症状自体はそこまで重くないことと、二週間もすれば退院できることを保健所の人に説明してもらい、落ち着くまでに二時間はかかった。毎日一回は必ず連絡を取ることを決めていたが、病院内ゆえに日中は通話制限があり、消灯時刻を過ぎてからはもってのほかで、指定通話エリアには人が集まってしまうために現状使用不可になっていた。初日から三日間は三時間に一回のペースで連絡があったが、今はそれでも落ち着いてきて、昼間に十から二十通のやり取りで済むようになった。

 離れ離れが日常になったこの世の中で、再び会える可能性の方が高いことは、実はとてつもなく恵まれていることなのかもしれない。出稼ぎに出た街で罹患し、故郷に残してきた愛する者を思いながら、街を出ることも叶わずに息を引き取っていく労働者が、世界にはどれほどいるだろうか。

 医療体制が整っていて、衛生面もしっかりしている国に生まれる奇跡を噛みしめながら、思い出したように咳をする。まるで何かの拍子に突然頭に浮かんできた天文関連の用語のように、突拍子がないゆえの落ち着きがあった。

 内向きの世界に現実の空気が呼び込まれ、途端、眠気が襲ってきた。眠くなっていたことに体が気付いた、という方が正確なのだろうが、もはやどうでもよかった。漏れるあくびを手で押さえながら、起こしていた体を寝かす。体を冷やさないよう、肩まで布団をかぶって窓の方を向いた。

 見上げた先で、ベランダにいる彼女と月越しに目が合った気がして、瞼を下した。

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夜中に一人、ベッドの上で 安野穣 @tatara2ji

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