第8話
やっとたどり着いた県大会。指のかじかむような冬の夜道。楽しかった時間は終わりを告げ、魔法は解けた。
滲んでいく世界で、俺は夢から覚めた。
それは、ながいながい夢だった。
「才能がない。」
その事実が、冷たい現実を刻み込んだ。
ふと手元を見ると、大好きだったトロンボーンが、いつの間にか、ご飯を食べるための道具に変わり果てていた。
その日、魔法が解けてしまった俺は、音楽にあふれた自分の生活を全く楽しめなくなってしまった。
苦しいだけの毎日に、心はだんだんと悲鳴を上げ、周囲の人間のことが怖くてたまらなくなった。
それからしばらく経って、俺は退部届を提出しに行くことにした。
「立ち向かうだけが、強さじゃない。だけどな、逃げることが正解だと決めてしまうのは、自分の弱さだよ。」
佐久間先生はそんなことを言っていたけれど、苦痛なだけの音楽に、未練なんてなかった俺には、どんな言葉も響かなかった。
職員室を出て、荷物整理のために音楽室へ向かう。
一年間、さっちゃんと二人で使ったトロンボーン専用ロッカーには、沢山の物が詰め込まれていた。
二人で購入した分厚い基礎練習曲集。半年前の演奏会の楽譜。連絡済みのプリント、皺だらけの五線紙。少しだけ中身の入ったオイル。さびで緑になったクロス。
自分が居た跡を、ひとつずつ消していく。取り出すごとに、胸に重い痛みが走った。
これをすべて捨てるのは、やりきれないなと思った。だんだんと手元が面倒になってきて、後は誰かに任せてしまいたくなった。
俺はそこで初めて、俺を慕ってくれていた後輩のことを思い出した。
「もう戻ってきてくれないのに、忘れ物なんてしていったらダメじゃないですか。」
スカスカになったのロッカーの前で、また独りになったさっちゃんが、静かに座り込む姿が浮かんだ。
「ああ、悪いことをしたなあ。」
その気持ちだけが、俺の音楽に対する未練になって残った。
俺は片づけを済ませると、ちょうどやってきた後輩に別れを告げた。
公園に来てから随分と時間が経ったことに気づき、俺はベンチから立ち上がった。
一枚の花びらが、手のひらに舞い降りた。
俺が音楽を辞めたって、世界は変わらずに回り続けている。今こそ、物語の主人公になれた気分だ。
清々しい風の中、俺はまた歩き始めた。
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