第5話
目が覚めると、窓からは太陽の光が差し込み、わずかに開いたドアから朝食の目玉焼きトーストのにおいが漂ってきた。
どうやら、写真を見ている間に寝てしまったらしい。いつもより時間も押している。
私は素早く身支度を済ませると、大急ぎで家を飛び出した。
門をくぐり、そのまま音楽室へと向かう。朝イチバン、何よりも先に、先輩に伝えたいことがあった。
到着したものの、いつもは一番に音楽室へ来るはずの雄達先輩はまだ来ていなかった。ぎりぎりまで待ってみたが、その後も先輩は姿を現さなかった。
放課後、一番に音楽室へ乗り込み雄達先輩を待った。最後まで残れるように、やらなくていい戸締り当番を引き受けた。
結局その日、先輩は部活へ来なかった。
次の日、もう一度朝イチバンで音楽室へ向かう。
そこには雄達先輩がいた。
いつものように目尻に皺を寄せていたので、
「昨日は、また腹痛だったんですか?」
と、冗談交じりに聞いてみた。
「違うよ。」
先輩も軽く応答した。
本当にいつもと変わらない朝だったから、次に先輩が言った言葉に私は耳を疑った。
「さっちゃん、俺、吹奏楽部を辞める。」
それは、嘘のようにも聞こえた。
ただの弱音にも聞こえた。
本気の叫びにも聞こえた。
何を考えたらいいのかわからなかった。
私が伝えようと思っていた言葉じゃ、この人を止められないような気がして、もっと大きくて重たい言葉を探したけれど、全く見つけられなかった。
「実は前から、海外で働くことに興味があったんだ。俺にはここがあっていない。だったらここから飛び出してしまおう。そんな選択も、アリだと思ってさ。」
なんでもなさそうに話す先輩を見て、背中に冷や汗が通った。
雄達先輩は推薦入学だから、吹奏楽部を辞めたら湊山高校にはもう通えない。先輩が隣にいない世界なんて、想像することさえできなかった。
「さっちゃん。あんまり心配しないで。きっとこれから俺は、元気で好きなことをやっていけるに違いないんだ。」
先輩の目尻の皺は相変わらず消えない。
今を逃せば、この人は本当に行ってしまうような気がした。
「最後まで、こんな先輩でごめんね。」
学校生活に卒業というものがある限り、いずれこうなることは理解していた。
わかっていたが、まだ遠く先の話だと、それをどこか別次元で考えていたのだ。
「元気でね、さっちゃん。」
先輩は、それだけ言うと、音楽室を出て行った。
「雄達先輩、」
考えるより先に、声が出た。
「本当に、行くんですか。」
先輩は、こちらを振り返らなかった。
一週間、一か月、一年と帰りを待ったが、私が先輩と一緒にトロンボーンを吹くことは二度となかった。
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