4-8 長い旅の終わり


 シルヴィの声を耳にして、彼は目を開けた。

 正確には、開いていたが、どこも見ていなかった目が、シルヴィの姿を捉えた。

 シルヴィの鏡面のマスクを通して目にしたのは、瀕死のモンステルに押さえつけられている、黒犬のマスクを被った少女の姿だった。

 それは四年前のあの日、兄妹の身体が入れ換わる直前の、モンステルに取り押さえられていたランの姿だった。あの事件のあと、血の海に映るこの顔を見てからというもの、彼はいちども、マスクの下の素顔をまともに直視したことはない。

 育ったランの顔が見たい、と彼は思った。

 あれから数年が経って、ランの身体は成長した。

 兄ばかであることは自分でも認めているが、それを抜きにしたとしても、本当に可愛らしい少女だった。だれもが目を引く、美しい女性になると信じていた。ランにはいくらでも輝かしい未来が待っていたはずであり、人生を謳歌してもらいたかった。

 四年前のあの日、彼がもっとも畏れたものは、自分の死ではなかった。

 あのとき感じた最大の恐怖は、ランが大人になり、信頼に値する者に任せられるときまで、自分が傍にいれなくなることだった。

 あの日、彼がナイフを手放したのは、ほかでもないだれかのためだった。

 だとするならば。

 今カタナを落としたのも同様に、だれかのための行為であるべきだと彼は思った。

 折れた心に、なにか温かい光が宿るのを感じた。その光は、失せていた黒い執念の心に火を灯して、重なって混ざり合い、彼の身体に活力を与えた。

 その光は、初めて知るようで、同時に、昔からよく知っている気がする、心の動力だったが。

 ――それを何と呼ぶのかは、まだ思い出せなかった。






 つぎに彼が目を開けたとき、状況に大きな違いはなかった。

 やけに明るい部屋に、身体を折り曲げて爆笑しているスマイリーと、深い裂傷に肩で息をついているモンステル。

 それと、四年ぶりに見る、黒犬のマスクを被った少女の姿。

 少女の腹部の傷は深く、広がる血だまりの上で、身体はぴくりとも動かない。

 すぐにでも死に至りそうな身体だが、まだ生きてはいる。そのなかに宿るシルヴィが、こちらを見ていることは伝わった。

 互いの身体を交換されたチューミーとシルヴィの視線が、空中で交差した。


「イーッ! イーッ! イヤッハハハハハハハハハハッ!」


 スマイリーは踊りながら笑っていた。


「いやー、最高だ。まったくすばらしい。ハハハハハハ! あー、笑い死ぬ。ハーッ、ハーッ。もう、勘弁してくれ。フ……フ……ハハハハハッ。いやー、たまらん。……ふぅ。さて――モンステル?」


 スマイリーの呼びかけに、モンステルが立ち上がる。


「アルミラ君との約束を、果たさねばならない。彼女の両親だが、なんだかよく知らんがぐちゃぐちゃの死体だったらしい。まあ、お前なら同じような肉塊にすることはできるだろう。それが済めば、傷を癒すとしようか。塵工薬液は、どこにしまっていたか……。普段使わないからな。まあ、思い出しておくから――なんはともあれ。最高を、見せてくれ」


 パチンッ! とスマイリーが指を鳴らす。

 モンステルが、傷ついた身体に鞭を打って、こちらに近づいてくる。

 スマイリーの命令どおり、このシルヴィの身体を、両親の死体と同じように破壊するつもりのようだ。


 シルヴィの身体で、彼は立ち尽くしていた。

 首が熱く滾るのを感じていた。ランの身体とは異なり、致命傷は受けていない肉体だが、あまりに強い怒りのためか、その足元がふらついた。

 モンステルの剛腕が、すぐ間近まで迫る。

 その風圧を受けて、長い銀髪が舞う。

 そして、今にも直撃する直前――

 彼は、静かにインジェクターを起動した。カチリ、と音がする。懐かしい、自分がまだシンとして生きていたころに慣れ親しんでいた、局所注射の痛みが首に走った。

 つぎの瞬間、シルヴィの身体を中心に、周囲に莫大な量の砂塵粒子が現れた。

 室内の空中砂塵濃度が、劇的に上昇した。

 壁掛けのDメーターの針が一瞬で振り切れて、意味もなく左右に揺れ始めた。

 黒色の砂塵粒子の塊が、厚い膜を張って、モンステルの攻撃を受け止める。

 物理的な攻撃を防ぐほどに密集する砂塵粒子は、およそ常識では考えられない。物言わぬ化け物の驚愕が、どろりとした粘度を持つ砂塵粒子越しに伝わってきた。

 彼は、ゆっくりと顔を上げた。

 シルヴィの右腕を伸ばして命令を下すと、周囲の砂塵粒子が呼応して動いた。

 膨大な量の砂塵粒子が、モンステルの身体を包み始めた。

 そのぞわぞわとした感覚に、モンステルが悲鳴を上げた。

 シルヴィの砂塵能力。

 それはどうやら、砂塵能力として発現する以前の、原初の砂塵粒子そのものに命令を下せる、唯一無二の能力のようだ。

 普段は、おそらく無意識の命令の結果として砂塵を消失させているだけのようだが、この燃えるような発熱を覚えたときは、集合の性質を引き出して、自在に操ることができるらしい。

 今、彼は原初の砂塵粒子の司令塔となっていた。溢れる激情を意識すればするほどに、より強く、より濃く、周囲に高密度の砂塵粒子を集合させていく。


(……シルヴィ)


 チューミーは、すぐ傍で倒れているランの身体に目をやる。

 まだ、ほんのわずかに呼吸をしている。

 間に合う算段はあった。

 このシルヴィの砂塵能力であれば、すべてをリセットする打開策がある。

 漆黒の砂塵粒子が、モンステルの背中の深い傷口から入り込んで、その内部に染み渡った。途端に、モンステルの身体から白色の砂塵粒子が噴き出した。インジェクターを使用するとはべつの方法で黒晶器官に入り込んだ砂塵粒子が、モンステルの砂塵能力を誘発していた。


「オオオ、オオオ、ォォォォォ————ッッ‼」


 モンステルが激しく騒ぎたてた。

 砂塵粒子の毒素が与える痛みと恐怖に、その場で必死に暴れ回る。

 それから、彼は開いていた手を、ぐっと握った。

 それを合図に、モンステルの体内で、砂塵粒子がいっせいに弾けた。

 今度こそ、名実ともに物言わぬ巨漢となったモンステルが、その場に崩れた。


「……モンステル?」


 そう、スマイリーが口にした。

 この場でなにが起きたのか、まったく理解が及ばない様子だった。

 茫然と立ち尽くすスマイリーに、彼は静かに歩を進めた。

 とぐろを巻いた大量の砂塵粒子が流れて、スマイリーを包囲する。

 身動きが取れないように手足を拘束して、相手のマスクの表面に砂塵粒子をまとわらせた。


「な、んだ……これは……ッ⁉ いったい、なにが……!」


 激しい狼狽をしながら、スマイリーが抵抗した。

 ミラー家のマスクの下で、彼は苦悶の表情を浮かべていた。

 常識外れのシルヴィの砂塵能力が、うまく制御できなかった。

 九龍アパートで暴走したときも、シルヴィは自分の能力をまったく操れないようだったが、無理もないといえた。

 およそ一個の人間に許されていい業ではないことが、直感的に理解できる。

 脳と黒晶器官が、今にも破裂しそうに痛んだ。

 今すぐにでも失神しそうだが、これだけはやり遂げなければならなかった。

 彼は砂塵粒子を操り、スマイリーのマスクのフィルターに、とめどなく砂塵粒子を送りこんでいく。

 それが、一定の質量に達したとき――パリン、と音を立てて、その呼吸口が破壊された。


「ぐッ、うぅぅうぅ……!」


 苦しさに、スマイリーが唸り声を上げた。

 チューミーは、倒れるランの身体に触れた。抱きかかえてみると、その身体は信じられないほどに軽かった。

 こんな華奢な身体で、これまでずっと旅をしてきたのかと、ふと思った。

 懐かしい妹の感触がする。しかし、そのなかにいるべき人格は――魂は、もうどこにもないのだった。世界でもっとも愚かだった自分が、まだたったの十一歳だった妹の命を、間接的に奪ってしまったのだった。

 そして今度は、妹の身体が朽ちるとともに、パートナーの命が失われようとしていた。

 それだけは避けねばならない。今ならまだ、取り返しがつく。

 スマイリーを拘束する砂塵粒子に命令を下して、相手の両手をこちらに向けさせた。右手はミラー家のマスクを、左手はランの黒犬のマスクを指させる。

 スマイリーの口腔内には、黒色の砂塵粒子が侵入していた。

 ひと粒ひと粒は微細な砂塵粒子が相手の身体に融けこんで、いずれスマイリーの黒晶器官に至る。すると、強制的にスマイリーの砂塵粒子を吐き出させた。

 ぼわりと、スマイリーの両手から、錆びた合金のような色をした砂塵粒子が現れた。スマイリーの砂塵能力が、ふたりの魂を、適正な身体へと戻していく。

 目の前をちかちかと光る彩光に、今度は絶望の色は見えなかった。

 彼は目をつむっていた。まるであの日をリプレイして、すべてのあやまちが正されることを望むかのように。

 うしなわれた過去がけっして戻らないことを知りながら、それでも救われることを望むかのように。






 そして、チューミーは目を開いた。わざわざ身体に触れてたしかめずとも、この四年ですっかり慣れた身体の感覚が、ランの身体に戻ったことを教えてくれた。


「ぐゥ……あッ! ぐ、お……!」


 スマイリーが、血を吐きながらのたうち回っていた。高濃度な砂塵粒子を直接体内に送りこまれたせいで、砂塵粒子の毒素に身体を冒されているようだった。

 シルヴィも、同様に倒れこんでいた。まだ目覚めていない様子だった。仮に起きていても、きっと満足に動ける状態ではないだろう。

 圧倒的な高エネルギーの砂塵能力を使用したことで、その身体が高熱に苛まされていることは、ほかならないチューミーがよくわかっていた。

 この場にいる全員が、満身創痍だった。


「ハ、ハハ、ハハハハ……」


 スマイリーが、そんな渇いた笑い声を発した。


「これは、夢だ……そうだろう? モンステル。お前がやられるはずが……私たちが、こんなところで終わるはずがない。私の復讐はまったく終わってなどいないし……それに、あんな荒唐無稽な砂塵能力が存在するなんて、夢に決まっているさ……ハ、ハハッハハハ」


 すでに死んだ相棒に話しかけながら、スマイリーは痙攣していた。このまま放っておいたとしても、砂塵の毒素にやられてすぐに絶命するのは、だれの目にもあきらかだった。

 それでも、チューミーは動いた。すぐ傍に落ちていたカタナを手にすると、地面に刺して、静かに立ち上がる。おびただしい量の血が、腹からどくどくと流れていた。

 ――終焉だった。自分も、スマイリーも。そして、もう言葉はいらなかった。


「ひッ……!」


 スマイリーがこちらに気づいた。

 幽鬼のような雰囲気の――傷としては、もうとっくに死んでいるといっても過言ではない復讐者の姿に、怯えきったような悲鳴をあげる。

 スマイリーが、這ってこの場から逃げようとする。

 チューミーは一歩ずつ相手を詰めると、残された活力のすべてを振り絞って、カタナを持つ手を振り上げた。

 延々と振り続けたカタナの、その最後のひと振りは――とす、と静かな音で終わった。

 背中からスマイリーの心臓をひと突きにすると、血だまりが広がっていく。

 朦朧とする意識で、チューミーはカタナの切っ先から、長らく自分を包んでいた復讐心が流れ出して、どこかに消えていくような錯覚を覚えた。

 脳裏では、これまでの人生で見たものがつぎつぎに投影された。

 最後に、あどけないランの笑顔を思い出した。

 それがシルヴィの笑顔が重なったときに、彼の身体は崩れ落ちた。






 どれくらいの時間が経っただろうか。

 熱い湯船に浸かるように、あたたかい場所にいた。

 視界はかすんで、マスク越しの視界は虚ろだった。身体の感覚もあまりない。それでも、モンステルにもらった致命傷をだれかが必死で押さえていることは伝わった。

 気配で、だれかが部屋に入ってくるのがわかった。


「警壱級、チューミーが……! なんとか……なんとかなりませんか! 塵工薬液がどこかにあるそうですが、どこにあるのかわからなくて……!」

「どいてろ、シルヴィ。この傷じゃ、どんな塵工薬液でも助からねェ。出血自体を止めねェと」

「そ、そんな……!」

「いいから、離れていろ。――よォ、チューミー。一か八かだ。痛ェだろうが、我慢しろよ」


 そんな言葉のあと、もともと途切れそうだった意識を、彼は完全に失った。

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