66話 とある兄妹の、贈物
少女の好きな音楽が流れていた。
ひとりで留守番をする少女が、うつぶせになって足をぱたぱたと遊ばせながら、スケッチブックに絵を描いている。
ときおり、ちらちらと玄関を目をやっては、落ち着かない様子を見せた。
そこに、彼が入室した。
いの一番に思ったのは、今日はこっちの視点か、ということだった。
過去の出来事をなぞる夢では、兄の目線と妹の目線がシャッフルしていた。
今日はどの日の記憶だろうか、と思う。
そこで、違和感に気づいた。
ランがスケッチブックをしまわない。自分の描いている絵を見られたくないランは、自分がやってくると、いつもすぐに中断して隠してしまうのに。
彼は不審に思いながらも、おそるおそる近づいてみる。
すると、ランが今まさしく描いている絵が覗けた。
大きな、ピンク色の家の絵だった。
彼が偉大都市に家を買う話をして以来、ランは毎日のように、そこがどんな場所か想像して、可愛い家の絵を描いているのだった。
その表札には、チューミー・ハウスと書かれている。
彼が妹に地海というファミリーネームを教えたとき、ランは漢字が書けないのはおろか、舌足らずな発音で自分たちの苗字をそう発音した。
チューミー。
ランは自分でそれを気に入って、自分たちのことをそう呼んでいた。
「おにいちゃん。最近、なにか欲しいものってある?」
とくにないよ、と彼は答えた。
ランが言いつけを守って留守番をしてくれるのがいちばんだった。
「ないじゃ困るもん」
ランが立ち上がった。その手には、スケッチブックを抱えている。
それなら、ランの描いた絵が欲しい。そう正直に言うと、
「それは恥ずかしいからダメ」
と断られた。
ランは小さな身体でこちらを見上げて、言った。
「お兄ちゃんにあげるもの、見つかったから。だから、目つむって」
俺に? と聞く。
「うん。喜ぶかはわかんないけど……でも、ちょっとは役に立つかも」
過去のどの場面においても、記憶にない会話だった。
こんなケースははじめてだ。
ランが自分に、なにかをくれようとしていたことは知っていた。
しかし、ランがいい案を思いつく前に、あの日がおとずれてしまった。
これは、俺の都合のいい妄想なのだろうか、と彼は思った。
それとも本当に、ランがなにかを伝えようとしているのだろうか。
ランの人格は、もう現実のどこにもないという確信はあるが、彼がランの身体を使って生きている以上、密接な繋がりがあってもおかしくはないように思えた。
彼は、目の前のリアルな妹の姿から目を離すことができなかった。
夢なら夢で、妄想なら妄想で構わなかった。
もう、復讐は終わっている。ずっと自分を支配していた、あの黒い執念の炎は感じられない。代わりに、今の彼にはなにもなかった。
彼はずっとこの場所にいたくて、なにも答えずにいた。
なつかしい妹の顔を、ただじっと眺めている。
すると、ランが怒った。
「もう。ずっと見られると恥ずかしいから!」
そして、顔を覆ってくる。
つぎの瞬間、彼が目を開けると、まったく知らない場所にいた。
草木が生い茂る、どこかの原っぱのような場所だ。
強い風が吹いて、彼は背後を振り向いた。
すると、遠く離れた場所、美しい丘の上に、チューミー・ハウスが建っていた。
玄関に立つランが、こちらに向けて大きく手を振っている。
「おにいちゃんにはね、わたしの身体をあげるよ!」
そう、ランが大声で叫んだ。
「わたし、おにいちゃんにずっと、なにかあげたかったから。だからね、これでいいんだよ。もう、全部を自分のせいにしちゃダメだよ。わかった? お兄ちゃん!」
彼がうなずくと、ランは満面の笑みを浮かべた。
家のなかから、彼が死ななければこう育っただろうという風貌の青年があらわれて、ランの肩を叩いた。ランは嬉しそうに飛びつくと、青年といっしょに家に入る。
彼はチューミー・ハウスを離れて、ひとりで丘を下っていく。
その道がどこに続いているのか、彼は知らなかった。見たこともない道を歩くのは、どこか不安で、心細い気持ちになった。
それでも未来への道は一本しか続いておらず、先の見えない向こう側がどうなっているのかと、彼はほんのわずか、期待を覚えた。
それはこの四年間、いちども抱いたことのない、どこか晴れやかな感情だった。
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