4-9 とある兄妹の、贈物


 少女の好きな音楽が、部屋じゅうに鳴り響いていた。

 ひとりで留守番をする少女が、うつぶせになって足をぱたぱたと遊ばせながら、スケッチブックに一生懸命絵を描いている。

 時おり、ちらちらと玄関を見やっては、落ち着かない様子を見せた。


 そこに、が入室した。

 いの一番に思ったのは、ああ、今日はこっちの視点か、ということだった。

 過去の出来事をなぞる夢では、兄の目線と妹の目線がシャッフルしていた。

 今日はどの日の記憶だろうか、と思う。そこで、違和感に気づいた。

 ランがスケッチブックをしまわない。自分の描いている絵を見られたくないランは、自分がやってくると、いつもすぐに中断して隠してしまうのに。

 彼は不審に思いながらも、おそるおそる近づいてみる。すると、ランが今まさしく描いている絵が覗けた。

 大きな、ピンク色の家の絵だった。

 彼が偉大都市に家を買う話をして以来、ランは毎日のように、そこがどんな場所か想像して、拾ってきた雑誌などでしか見たことのない、可愛い家の絵を描いているのだった。

 その表札には、チューミー・ハウスと書かれている。

 もっと幼いころ、彼が妹に地海というファミリーネームを教えたとき、ランは漢字が書けないのはおろか、舌足らずな発音で自分たちの苗字をそう発音した。

 チューミー。

 ランは自分でそれを気に入って、自分たちのことをそう呼んでいた。


「お兄ちゃん」と絵を描きながらランが言う。

「最近、なにか欲しいものってある?」


 とくにないよ、と彼は答えた。

 ランが言いつけを守って留守番をしてくれるのが一番だった。


「ないじゃ困るもん」


 ランが立ち上がった。その手には、スケッチブックを抱えている。

 それなら、ランの描いた絵が欲しい。そう正直に言うと、


「それは恥ずかしいからダメ」


 と断られた。

 ランはその小さな身体でこちらを見つめて、こう言った。


「お兄ちゃんにあげるもの、見つかったから。だから、目つむって」


 俺に? と聞く。


「うん。喜ぶかはわかんないけど……でも、ちょっとは役に立つかも」


 過去のどの場面においても、記憶にない会話だった。

 こんなケースは初めてだ。

 ランが自分に、なにかをくれようとしていたことは知っていた。

 しかし、ランがいい案を思いつく前に、あの日が訪れてしまった。

 これは、俺の都合のいい妄想なのだろうか、と彼は思った。

 それとも本当に、ランがなにかを伝えようとしているのだろうか。ランの人格は、もう現実のどこにもないという確信はあるが、彼がランの脳と身体を使って生きている以上、そこに密接な繋がりがあってもおかしくはないように思えた。

 彼は、目の前のリアルな妹の姿から目を離すことができなかった。

 夢なら夢で、妄想なら妄想で構わなかった。

 もう、彼の復讐は終わっている。肚の底に灯っていた、黒い執念の炎は感じられない。代わりに、今の彼にはなにもなかった。

 こんな状態で無理に生きようとすると、スマイリーのように、ぽっかり空いた穴を埋めるような、無意味な殺戮をするようになるのかもしれないとすら思った。

 彼はずっとこの場所にいたくて、なにも答えずにいた。

 懐かしい妹の顔を、ただじっと眺めている。

 すると、ランが怒った。


「もう。ずっと見られると恥ずかしいから!」


 そして、力任せに顔を覆ってくる。





 つぎの瞬間、彼が目を開けると、まったく知らない場所にいた。

 草木が生い茂る、どこかの原っぱのような場所だ。

 強い風が吹いて、彼は背後を振り向いた。

 すると、遠く離れた場所、美しい丘の上に、チューミー・ハウスが建っていた。

 玄関に立つランが、こちらに向けて大きく手を振っている。


「お兄ちゃんにはね、わたしの身体をあげるよ!」


 そう、ランが大声で叫んだ。


「わたし、お兄ちゃんにずっと、なにかあげたかったから。だからね、これでいいんだよ。もう、全部を自分のせいにしちゃダメだよ。わかった? お兄ちゃん!」


 彼がゆっくりと頷くと、ランは満面の笑みを浮かべた。

 家のなかから、彼が死ななければこう育っただろうという風貌の青年が現れて、ランの肩を叩いた。ランは嬉しそうに飛びつくと、青年と一緒に家に入る。


 彼はチューミー・ハウスを離れて、ひとりで丘を下っていく。

 その道がどこに続いているのか、彼は知らなかった。見たこともない道を歩くのは、どこか不安で、心細い気持ちになった。

 それでも未来への道は一本しか続いておらず、先の見えない向こう側がどうなっているのかと、彼はほんのわずか、期待を覚えた。


 それはこの四年間、いちども抱いたことのない、どこか晴れやかな感情だった。

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