3-4 九龍アパート


 九龍アパートの足元に迫ると、シーリオがハンドルを急転回してブレーキを踏んだ。

 車が減速しきる前に、チューミーは扉を開いて外に飛び出る。受け身を取って転がるように着地すると、すぐさま誘拐犯を追って階段を駆け上がった。

 階段が折り返す踊り場に、ひとりの狼マスクが銃をかまえて待ち伏せていた。


「マザー、ビンゴだ! 思ったとおり、追っ手が来ている! 今んとこ数は一だ!」


 階上に向けて、相手が叫んだ。


「やはり、追跡者がいたかい? だが、関係ありゃしないねッ! アパートまで帰りゃ、もうこっちのもんさッ!」


 老婆のひしゃげた声が、頭上から響いた。

 次の瞬間、狼マスクが発砲した。チューミーは腕を振るい、いつものように弾道を見切って刀身で受ける。

「えっ――?」と驚く相手の眼前に迫ると、頸椎を肘で打ち、壁に叩きつけた。

 その腹にカタナの先端を数センチだけ刺しこんで、くい、と捻る。


「ぎゃ、ああぁッ」

「一秒以内に吐け。潜伏フロアはどこだ」 


 相手の震える手が、中指を立てたのを見るや否や、チューミーは首を撥ねる。

 シーリオが追いつくのを待たず、チューミーは敵を追った。

 九龍アパートの内部に進入する。

 内部の風景に、チューミーは面食らった。塵工食品売り場、ガンショップ、床屋、マッサージ屋、マスク屋など、いくつもの店が立ち並ぶ様子は、とても屋内とは思えない。あたりには大量に漢字を掲げた看板が出ていて、チカチカとまばゆいネオンを放っていた。天井には、なぜだか夜空の模様がペイントされている。


「きゃあああああっ」


 往来する人々が、チューミーの長大なカタナから血が滴っていることに気づいて悲鳴を上げた。人混みのはるか向こうに、マザーを含めた狼マスク集団が逃げていた。

 マザーが「きゃはははッ」と薄気味悪い笑い声をあげると、高密度な砂塵粒子を行き止まりの壁に叩きつけた。どろりと表面が溶けるように揺れたかと思えば、一同はとぷんと壁のなかに入りこんだ。

 こちらの追跡を防ぐためだろう、ひとりの狼マスクがその場に残っている。

 その相手が、カチリとインジェクターを起動した。

 溢れ出た砂塵粒子が、相手の身体にまとわりつく。砂塵戦闘が勃発する予兆に、住民たちは蜘蛛の子を散らすように、その場から逃げていった。


(――時間はかけられない。速攻で、かたをつけなければ)


 俊足で寄って、チューミーはカタナで袈裟斬りを喰らわせようとする。

 相手は到底、こちらの動きについてこられない――が、カタナは相手を斬ることができなかった。

 金属を叩いたような鋭い音を響かせて、狼マスクの身体がカタナを真っ向から受け止めた。

 カタナを弾かれて、チューミーは転回をして構え直す。ひと筋の線が走り、破けた狼マスクのジャンパーの隙間から、銀メッキを張ったような皮膚が覗けた。どうやら、身体の内部で作用して皮膚を強靭に硬化させる砂塵能力者のようだった。


「――黒犬マスク。おまえ、非砂塵能力者か? なら、オレは殺せねえな」


 相手が自信にあふれた口調でそう言った。

 人体や物体の強度を高める砂塵能力は、それ自体が珍しいわけではないが、代わりに汎用性も有用性も高い。こちらの愛刀が弾かれたということは、鋼すら上回る硬度を保証する砂塵能力ということだ。

 とはいえ、なにも問題はない。

 これまでの戦闘経験で、こうした手合いの相手の対策は確立していた。

 チューミーはくるりとカタナを回す。それから、先ほどと同様に正面から迫った。

 狼マスクが大振りでこちらを捕らえようとした瞬間、ダンッ! と地面を蹴って跳躍する。高く舞い、一回転をしてから相手の背面に着地したチューミーは、相手が振り向くよりさきに、そのマスクの後部を斬りつけた。

 バガリ、といびつな音を立てて、狼マスクに亀裂が入る。


「なッ……⁉」


 続けて、チューミーは床で踵をすばやく二度叩いた。靴裏に隠しナイフが現れる。高速の回し蹴りを見舞って、半壊のマスクを今度こそ粉々に破壊した。

 軽量性と耐久性を併せ持つ塵工製のマスクでも、鍛え上げた斬撃をまともに喰らえばひとたまりもない。

 一流の砂塵能力者が肉体を使った基礎戦闘能力をおろそかにしないのは、最低でも自身のマスクとインジェクターを守り切る力がなければ、そもそもが話にならないからである。

 砂塵能力のみに頼りきる者では、けっして偉大都市の裏社会を生き抜くことはできない。


「ぐッ、う……ッ」


 素顔を晒した青年は、空中砂塵濃度をたしかめるまでもない環境に苦しんだ。

 そのタイミングで、シーリオが追いついてきた。


「状況はどうなっている」

「連中はこの先だ。マザーが能力を使用して逃走している。だが、いちどに放出している砂塵量を見る限り、おそらくそう連発はできない能力だ。かならず間に合う」


 チューミーは悶える男の首根っこを掴むと、マザーが液状化した壁を通り抜けた。水面に浸かるような違和感のあとで、いきなり銃声が轟いた。

 男を肉の盾にしていたチューミーは、弾丸の出迎えを受け止めると、すっかり蜂の巣になった肉体を放り投げた。

 壁の向こうは、どこかの一室だったらしい。奇妙な作りの部屋だ。室内にも関わらず、階上と階下にそれぞれ階段が伸びていた。奥には二枚の扉がある。

 その扉の前に、三人の狼マスクが待ち構えていた。

 チューミーは電光石火の早業で、まず手前二人を斬り刻んだ。最後のひとりの拳銃を叩き落とすと、相手の鳩尾にカタナの柄をめりこませる。


「がっは……ッ」

「マザーは、どこへ行った」


 狼マスクが上の階を指すと、チューミーは相手の胸部をひと刺しにした。


「なるほど……警壱級のおっしゃっていたとおり、腕は悪くないらしいな」


 こちらの手管をみて、シーリオがそんな評価を下してくる。少し意外な言葉だったが、チューミーは気にせずに進んだ。

 昇り階段のさきは酒屋の真ん中で、老人が店番をしていた。店を出ると、ふたたび長い廊下に出る。

 ここは飲み屋街のようなフロアらしく、暖簾が下がった店構えがずらりと並んでおり、ひとけも多い。チューミーは、身長のせいで人混みの向こう側が覗けなかった。

 跳躍して、壁の窪みを掴む。

 すると数十メートル先、廊下の角を曲がるマザーの姿を目に捉えた。

 向こうもまたこちらの姿に気づくと、驚愕して言った。


「マザー、やつが……!」

「なんだって⁉ んなバカな、ジロがこんな早く殺られるわけがあるかい!」

「いずれにせよ、この先は塵工フロアだッ! あそこまでいけば撒けるぞ!」


 人混みをかき分けてマザーたちを追うと、またべつのフロアに至る。

 そこに広がっていた景色をみて、チューミーは驚いた。 

 吹き抜けで構成された広大な空間で、中央部分が空洞になっている。

 その空洞で、橋を渡す役目となっているはずの階段が四方八方に伸びていたが、信じられないことに、階段がひとりでにしていた。

 がおん、と音がすると、階段が伸びる先を変える。その先に続く道もまた、ゆっくりと振り子運動をするように構造を変えている。


「なんだ、この場所は……」

「ここは九龍アパートの特徴のひとつ、塵工フロアだな。特殊な磁力を施された塵工建材が互いに引き合い、長いスパンで構造を一周させていると聞く」


 白いマスク越しにあたりを見て、シーリオが言った。

 遥か頭上から、マザー一行がこちらを見下ろしていた。


「きゃははははーッ! じゃあなァッ!」


 マザーはけたたましい笑い声を上げると、その奥の扉に入っていった。

 入れ替わるようにして、数人の狼マスクが現れる。それと同時、こちらに銃撃を仕掛けてきた。

 チューミーは近くの物陰に隠れて、銃弾の雨をやりすごした。

 そうしながら、方法を画策する。

 まずいな、と心中で焦った。

 このまま、ここで構造が変わるのをただ待っていることはできない。そのあいだに、シルヴィを連れ去った連中はさらに奥まで消えていってしまうはずだ。

 だとすれば、敵の狼マスクを捕えて尋問し、遠回りでも追跡するルートを探るしかないだろうか。いや、それもまた時間はかかる。


「クソ……!」


 有効な手段が見つからず、舌打ちをした。

 すると、隣の粛清官がフンと鼻を鳴らした。


「この程度で動揺するな。私が道を繋いでやる」

「なんだと?」

「物陰から出たら、連中はまた撃ってくるだろう。それを私が防ぐ。そのタイミングで、あの大穴に向かって跳べ。いいな?」


 シーリオはそう指示を出すと、カチリとインジェクターを起動した。

 ぼわり、と高密度な水色の砂塵粒子を身にまとい、シーリオは姿を現した。

 途端、シーリオに向けて銃弾の雨が見舞われる。

 着弾の寸前、シーリオが大仰な仕草で腕を振った。

 すると空中にひびが入るかのような亀裂が走った。それから、パキ、パキと空気が割れるような、聞き慣れない音が聴こえてくる。

 チューミーは目を見張った。

 ――弾丸が、空中で停まっていた。まるで、見えないガラスに阻まれたかのように。

 シーリオがマスク越しに目配せしてきた。はやく行け、ということらしい。

 どうやら、今はこの粛清官の言葉を信じるほかに手段がないようだ。

 チューミーは飛び出すと、底の見えない空洞に向かって跳躍した。

 シーリオが掌を大きく広げると、勢いよく床に触れた。水色の砂塵粒子が床を伝うかのように走り、シーリオの触れた箇所を起点に、凄まじい勢いで凍らせていく。

 次の瞬間、チューミーが飛び出した位置に向かって、厚い氷の道が空中に張ったからだ。即興の冷たい橋は、チューミーが一歩踏み出すごとに生成されて、どこまでも長く伸びていく。

 その場にいる全員が、驚愕に息を呑んだ。 

 シーリオ・ナハト警弐級粛清官。――凍結の砂塵能力者。

 この男は、どうやら操る砂塵粒子をそのまま氷に変異させることができるらしい。あのボッチが目を置く上級粛清官といえど、まさかこれほどの芸当ができるとは思えず、チューミーは氷の道をいきながら感嘆した。戦闘面と汎用面、どちらを取っても一流の砂塵能力だ。

 チューミーは、あっけに取られた様子の狼マスクに寄ると、相手をカタナで斬り伏せた。

 振り向いたときには、氷の一本道は根本から折れて、空洞に向かって落下していくところだった。

 遠目に見るシーリオは、まとう砂塵粒子の量を明らかに減らしていた。これだけの質量の大技は、さすがに連発はできないようだった。

 残った狼マスクがシーリオを射撃したが、残った砂塵粒子で張った氷のガラスが阻んだ。

 冷気を漂わせながら、シーリオがこちらに向けて言った。


「なにをぼさっとしている。足を止めるな。この者たちを粛清した後、すぐに私も行く」


 シーリオは氷の礫を生成すると、近くの狼マスクに向かって放った。氷の弾丸が、狼マスクに襲いかかった。

 その結果もたしかめずに、チューミーはマザーが消えた扉の向こうに進んだ。

 しばらく、細長い道が続いていた。液状化した部分がないかを観察しながら走り、出口を抜けると、ふたたび開けた場所に出た。

 今度は塵工フロアではなかったが、それでも眼前に広がるのは、またも奇妙な空間といえた。

 アパートのなかにも関わらず、アパートの外壁を見ているかのような、不思議な絵面だ。この場所は、上から見ると「回」の字の構造になっているらしい。仮に今いる場所を一階とするなら、十階以上の階層が覗ける形となる。

 三階の回廊に、こちらを見下ろすマザーの姿が見えた。シルヴィを抱える狼マスクたちもいた。


「こいつ……! いったい、どうやってこんなすぐに追いついて……!」


 チューミーはカタナを構えて駆け出した。この距離なら、もうすぐにでも詰められる。だが、


「無駄だよッ! ここらはもう、アタシらの腹んなかさッ!」


 マザーが狼マスクの側面を抑えると、ピーーッと甲高い音が鳴った。

 オプションとして取りつけた犬笛のような機能らしい。

 バタン、バタンと周辺の扉がつぎつぎに開いて、十人ほどの狼マスクが銃器を持って現れた。

 まだいたのか――とチューミーは舌打ちする。

 どうやら、ここがルプスフェイスの拠点ということらしい。

 増援に出てきた部下たちに、マザーが大声で命令した。


「やっちまいなァッ!」

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