2-8 〝笑う男〟

 どこからともなく聞こえてくる呻き声に、男は目を覚ました。

 はじめ、彼はその声を、気絶する前に聞いた同胞たちの断末魔が、頭のなかで残響しているのだと思った。しかし、どうやら違うらしい。

 地鳴りするのような不吉な声は、今まさに辺りに響き渡っている。

 男は椅子に拘束されていた。

 自分がいる部屋をたしかめて、なんともぶきみな場所だと思った。

 広大な部屋だった。どこかの研究施設のような場所に見える。周辺には、用途不明の古ぼけた機械が散乱していた。なにかの資料のようなファイルがばらまかれているほか、床を這う無数のケーブルに、砂塵カプセルの取り除かれたインジェクターや、デザインの統一された無個性なマスクが転がっていた。

 異様なのは、左右両面の壁を覆う巨大なラックに並んだ、無数の瓶だった。

 そのすべてに培養液に浸されたが浮いており、表面にはラベルが貼られていた。

 彼の真正面にある扉が、突如として開いた。

 なにかが、バサバサとこちらに向けて飛行してくる。とっさのことに、彼は声を上げて驚いた。

 部屋に進入してきたその生物は、壊れた機械の上に留まった。ギョロギョロと血走った眼で彼に捉えて、濁った鳴き声を放った。


「どうして、スナダカ鳥が室内に……」


 獰猛で戦闘心が旺盛な、雑食動物である。

 見た目も醜悪な害鳥で、飼育する者などはまずいない。

 小さな子供くらいは集団で狩って捕食する危険な生物なため、偉大都市には野生のスナダカ鳥を駆除するハンター職があるほどだった。


「ハハハハ。驚いたかね、キリメカラ君」


 そう声をかけられた。キリメカラが見ると、扉の向こうに男が立っていた。

 やけに細身の男だ。マスクの上に、つばの広い帽子を被る、特徴的な出で立ちをしていた。


「気分はどうかね。いや、ハハ。出迎えるのがこんな汚い部屋ですまないが……事情があってね。できる限り、片づけたくないのだよ」


 はじめて見る相手だが、それが自分たち聖職者と契約を結んでいた男であることに、キリメカラはすぐさま確信を抱いて、その名を口にする。


「ス、スマイリー……!」


 眼前に立たれると、その歪んだスマイルのマスクが目についた。

 キリメカラは、聖職者のマスクの下でぎりぎりと歯を軋ませた。掴みかかりたかったが、きつく拘束されおり、どうすることもできなかった。


「貴様、よくも同胞たちを……!」

「よくももなにも、当初から念を押して伝えておいただろうに。私のことを口外すれば、相応の処置を取ると」


 スマイリーはキリメカラの怒気を受け流して、軽快に笑った。


「ハハハ。まあ、臆病な性質なのだよ。なんといっても、我々は長く……長く、この目的を果たし続けなければならないのだから。なあ? モンステル」


 スマイリーが、背後に声をかけた。すると、細身のスマイリーとは対照的な、筋骨隆々の巨体の男が現れた。その武骨な鉄製のマスクには、見覚えがあった。

 自分を含めて、十数人の同胞たちを一方的に蹂躙したのが、その男だった。仲間の身体が捻り潰される映像が、キリメカラの脳裏に焼き付いていた。

 モンステルという大男はなにも答えず、ただ寡黙にスマイリーに付き従っていた。

 スナダカ鳥が飛翔して、モンステルの肩に留まって、おとなしく羽を畳む。

 キリメカラは、最大の関心事をたずねた。


「先生は、どうしている。先生のことも、殺したのか? それに、ほかの同胞たちは……」

「先生というと、ロウノ君のことか? あの独善的な男が……ハハハ、まあ私に言われたくはないだろうが……やけに好かれているというから不思議だ」


 スマイリーは、わざとらしく肩を竦めて続けた。


「彼なら無様に誘拐に失敗した後、十三番街に逃げ込んだそうだよ。渡したリストは携帯しているのだろう? うまく粛清官に見つかってくれると助かるんだが……」


 キリメカラは怪訝な表情を浮かべた。

 粛清官に見つかってくれると助かる?

 とりあえず恩師が殺されていないことはひと安心だったが、意味の分からない言い分だった。

 生き残っている師にどうにか危機を伝えたくて、キリメカラは暴れた。


「そんなことより、自らの心配をしたまえ。キリメカラ君」


 スマイリーは醜悪な形相でギャアギャアと鳴くスナダカ鳥に目をやって言う。


「じつをいうとね、君がこの場所を訪れるのは二度目なのだ。まあ、一度目は意識を失った状態だったが……どうだったかね? 与えた黒昌器官は、正常に働いていたかな」


 スマイリーはステップを踏むように歩き、キリメカラのすぐ背後に回った。キリメカラの頸部を眺めているらしく、声が間近で聞こえた。


「君にもロウノ君にも、サービスで悪くない能力を与えたというのに、こんなあっさりと失敗されるとはな。ハハハ。まあ、期待を裏切られるのも一興か……」


 キリメカラが付与されたのは、砂塵粒子のまとわせた相手の視覚を狂わせるという、誘拐に適した砂塵能力だった。

 キリメカラが能力をもらうときは、誘拐被害者との取引現場に同席した。そこで、同意のもとに気を失う薬をロウノとともに口にした。

 つぎに気がついた時にはべつの場所におり、砂塵能力が使えるようになっていた。二十年以上非砂塵能力者として生きてきたキリメカラは、初めて砂塵粒子を操る感覚に感動を覚えた。自分がもう、なんの能力も使えないその他大勢の雑魚とは違うという、得も言われぬ高揚感があった。

 しかし、教会に襲来したモンステルの圧倒的な戦闘力には成す術もなかった。


「お、俺を生かしたのは、与えた砂塵能力を取り返すためか……?」

「ハハハ、それは違うさ。……うん? いや、ある意味では正しいのか……いずれにせよ、いちど手放した能力に固執なんぞしないさ。ただ、少々手数が足りていなくてね、補充したかっただけで……要は、だれでもよかったのだよ。君以外の聖職者は、もう済んでいる。君で、最後だ」

「……貴様、言っている意味が」

「当然、わからないだろうな、ハハハ。だが、すぐにわかるようになるさ。―—モンステル!」


 パチンッ! とスマイリーが指を鳴らした。モンステルがスナダカ鳥の首を、がしっと掴んだ。獰猛な鳥が暴れて、その羽毛が室内に舞う。


「ところで、キリメカラ君。ひとつ質問があるのだが、君にとっての原点は、いったいどこだね?」

「……なに? 原点、だと?」

「ああ、そうだ。ロウノ君が教えていたという、十七番街の学び舎か? それとも、みんなで楽しく誘拐を重ねていた四番街の教会か? ああ、聞きはしたが答えなくとも構わないぞ。正直、あまり興味がないからな。ハッハッハ……」


 スマイリーが、インジェクターを起動した。

 錆びた合金のような色をした砂塵粒子が、周囲にぼわりと散布した。

 スマイリーの砂塵粒子が、ぞわぞわとキリメカラの首筋を這う。やけに重苦しい質量で、気味の悪い感触がした。


「ちなみにだが、我々の原点は、この場所だ。ここは、もうずっと前に閉鎖された研究施設でね。黒晶器官を……つまりは砂塵能力の法則を解き明かして、人為的に制御下に置くことが目的の場所だった」


 やけに明るい男の声が、懐かしむかのようなトーンで続けた。


「ここでは、まったく悲鳴が絶えなかったな。いつ訪れても、懐かしいよ。懐かしくて、懐かしくて……ハハハ、笑えてくる」


 ぞわり、ぞわりと粘度の高い砂塵粒子がキリメカラの視界を包んだ。

 なにをされるのかまるでわからず、キリメカラは底知れぬ恐怖を覚えた。

 その恐怖を掻き消すように吼えたが、スマイリーの上げる高らかな笑い声の方が大きかった。

 スナダカ鳥を握りしめたモンステルが、大股歩きで寄ってきた。

 キリメカラは、なんとなく、なにかかが終わろうとしているということを理解する。

 突如、キリメカラは、スマイリーに受け渡した誘拐被害者は、ただ死ぬよりも恐ろしい目に遭うという噂を思い出していたが、そのときにはもう、なにもかもが遅かった。

 スマイリーの笑い声を聴いている最中、キリメカラのすべてが暗黒に包まれた。


「……さて、こんなことに時間を使っている場合ではなかったな。今夜は取引もある。現場に向かわなければ」


 ひとしきり笑った後で、急激に落ち着いたスマイリーがつぶやいた。

 インジェクターを解除すると、まとわりついていた金色の砂塵粒子がふっと消えた。

 そこには、要領の得ない呻き声を上げるキリメカラと、狂ったように喚くスナダカ鳥がいた。


「考えてみると、案外とやることが多いな。契約相手の補充は後回しでもいいが……おまえはなにが最優先だと思う? モンステル」


 スマイリーが、寡黙な巨人を見上げた。モンステルはなにも答えずに、ただ黙っていた。それでも意思疎通したのか、スマイリーはうなずいた。


「ふむ。やはり、嗅ぎまわっている粛清官の始末が先決か。まったく、こうならないように中央連盟には脅しをかけておいたものを……。しかしいずれにせよ、うるさいハエは消すべきだな。ハハハ。そう、うるさいといえば」


 スマイリーはくるりと振り向くと、ギャアギャアと一層強く鳴いているスナダカ鳥を指した。手袋越しに、パチンと指を鳴らす。


「あとはおまえの役目だ。いつもどおり頼むぞ、モンステル」


 モンステルは、鉄製の巨大なマスクを振って首肯する。

 それから、スナダカ鳥を掴む太い腕に、ぐっと力をこめた。

 スマイリーはマスクの上の帽子を被り直すと、元来た扉に引き返した。


「さようなら、キリメカラ君。ハハハ、普通の笑いをくれて感謝する。君の敬愛する教師は、せいぜいうまく使わせてもらうとしよう」


 モンステルが握りしめると、ぐしゃりと音がして、スナダカ鳥が圧死した。

 くちばしからは赤い血液が、裂けた全身からは黄色い脂肪が噴出する。

 バタバタ、と被るダスト正教徒のマスクに害鳥の体液が注いだが、キリメカラはまるで気にしない様子で、ただただ呻き声を上げていた。

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