2-5 独善的な男
暗い部屋の中央で、ひとりの聖職者が独白していた。
「畏怖の念など、我らが祈りの対象である、人知を超える存在、貴女様以外に感ずることは、生涯持ち得ぬはずでした。なにせ、私たちの行為は聖戦であり……貧・病・争に苦しむ、世のため人のためとなれば、些細な恐怖心などは立ち消え、使命感の末に忘我の域に達するのが、本来の常であったのです……」
彼は硬いコンクリートの床に膝をつき、蝋で造られた複眼の女神像の前で、固く両手を組んでいる。その姿勢のまま、ぼそぼそと祈祷を続ける。
「女神よ、お許しください。ですが、この乱世を正す心が依然として健在である証拠に、私は生き永らえ、時を待ち、聖戦を再開する心積もりです。ああ、あの男は、私を、殺めるつもりです。同志たちを手にかけたように、この私も……。正直を申しますと、私はあの男がおそろしい。あの笑い声は、私のこの信仰心にひびを……」
彼の傍らには、血がこびり付いたマスクが置かれていた。
ダスト正教において、説教が許可される階級――司祭の地位を示す、二重の環を描いた砂塵粒子のデザインである。
「バベルズ先生」
きい、と扉が開いた。一筋の光が漏れて、司祭であるロウノの姿を照らした。
その顔面は、全体が包帯に巻かれている。唯一覗けるのは口元だけだが、その唇は荒れ切って、渇いた大地のようにひび割れていた。
あらわれたのは、蒼白な顔をした女と、屈強な見た目をした男のふたりだった。
ともに、一般的なダスト正教指定の聖職者の恰好をしていた。
「……祈祷の最中です。勝手に入り込むのは冒涜行為ですよ。ゼハラ、ミシマ」
「申し訳ありません。ですが、緊急事態でしたので」
「どうしたのです?」
ロウノの問いに、ミシマという、男のほうが答える。
「このへんで見かけない、奇妙な二人組があらわれたそうです。もう、すぐにでもこの診療所に来ます」
「二人組……。粛清官ですか?」
「あまりそういう風貌にも見えないですが、武装しているので、おそらく」
「彼ではないのですね?」
ゼハラが首肯だけで返す。
ロウノはほっとした素振りを見せると、ふらりと立ち上がった。
ロウノが部屋を出る。すると、手術用の機材が並ぶ執刀室にたどりついた。
床一面に血染めのガーゼが散らばっている。つぎはぎの人皮と削られた骨が、銀皿の上で腐れたにおいを漂わせていた。
塵工薬液を置いた棚では、いくつもの瓶が倒れていた。もともと少なかった薬の類は、もうすべて使い切ってしまっていた。
古い排塵機の近くに、白衣を着た初老の男性が縛りつけられていた。一声も発せないように、口元には頑強にテープが貼ってあった。男性はロウノの姿を見るや否や、「んーっ、んー!」と唸り声を上げた。
「叔父さん。心配せずとも、傷が癒えれば私たちは去ります。また、聖戦を開始せねばならないですから……」
ロウノがやけに落ち着いた声でそう話しかける。
「拘束したことや、無理やり手術をさせたことは謝ります。ただ、我々の潜伏を人に知られたのは困るのです。今はまだ理解できなくてもしかたありませんが、聡明な叔父さんなら、いつかわかって下さるでしょう。もちろん、埋め合わせはします。今後、その医術を迷える子羊に無償で使用するのであれば、私が寄付金をお送りしましょう」
ロウノが、うごめく医者にマスクを被せる。その背後から、ゼハラが話しかけた。
「先生、どうなさるおつもりですか」
「決まっているでしょう。迎え撃ちます」
「ですが、その傷では……」
止めるゼハラを無視して、ロウノは司祭のマスクから、震える手でインジェクターを取り出した。砂塵カプセルを取りはずすと、内部でさらさらと渦巻く砂塵粒子に対して、「お許しください」とつぶやく。
正統派だろうと異端派だろうと、ダスト教の聖職者が砂塵粒子を神格化していることにちがいはない。人為的に砂塵粒子を制御するインジェクターの使用は、本来であれば忌諱されるものだったが、ロウノには戒律を破ってでも敢行すべき、より大きな目的があった。
「二人共。偉大都市は……人間は、道を誤っています。一番街と、我々の学び舎があった十七番街を見比べなさい。とても、同じ都市内とは思えないでしょう。一方は輝き照らし、一方は暗く塗れています。これもすべて、神聖な女神の力を悪用する偉大都市の、その根幹にある格差主義、中央連盟の搾取体制のせいに他なりません」
包帯のうえに司祭のマスクを着用して、ロウノは続ける。
「粛清官は、歪みの権化そのものです。ここで退くなど論外です。大丈夫ですよ。今の私には、女神が与えたもうた御心の断片が備わっていますから。ふたりは奥にいなさい。私がやります」
すっかり変貌してしまった教師の姿に、二人はかける言葉が見つからなかった。
「リストはどこですか」
「俺が持っています」
ミシマが塵工ロックのかかったリストを取り出した。
おもてには、スマイルマークが大きくプリントされている。ミシマは忌々しそうに表紙を見つめたあとで、師にたずねた。
「バベルズ先生。なぜ、これを処分なさらないのです? すでに、俺たちは彼とは契約関係にはありません。このリストには、もう利用価値が……」
「十分にありますよ、ミシマ。それには、鉄槌を下すべき者の詳しい情報が、少なからず載っています。今後、また我々が十全に動けるようになった時には、必要となるでしょう。それは、奥の部屋に隠しておきなさい」
「先生。俺は……。俺は、そのスマイリーという男が……許せません」
ミシマが、ダスト正教の聖具の一つである槌を手にして言った。
その先端が、怒りでわなわなと微動していた。
「あの男は、我らの同胞を凄惨に殺しました。しかも情報では、死体の数と同胞の数が合いません。つまり、なんのためかはわかりませんが、同胞の何人かはあの男に連れ去られたはずです。まだ、生きているかもしれません」
それを聞いて、女のほう――ゼハラが、より暗い表情になって目線を落とした。何人もの同窓が殺されたことに心痛を感じている様子だった。
「先生、なんとかあの男の居場所がわかれば、同胞たちを救えるかもしれません。傷が癒えたら、聖戦を再開する前に、どうか」
ミシマは、言い切る前にロウノの異変に気づいた。自分と同様に怒りで震えているかと思えば、どうやら違うらしい。
恐怖だ。ロウノは、恐怖に肩を震わせている。
ロウノは、マスクごと頭を抱えると、つぶやくようにこう述べた。
「……あなたがたは、彼と会っていないから。だから、そのようなことを……」
ロウノは、スマイリーという男に出会った日のことを思い出した。
はじめは、ただ妙に笑う男という印象を覚えただけだった。しかし、その笑い声を聞くうちに、その異質さに否が応でも気づかされた。
彼は、本当の意味で、自分を人間扱いしていなかった。
単に人を人とも思わない犯罪者ならば、いくらでもいる。
ただ、彼は異なる。相手を自分が笑うための部品として、完全に認識している。そんな常軌を逸した契約相手に、ロウノはいつのまにか、根源的な恐怖を抱くようになっていた。
彼の笑い声が幻聴としてよみがえり、ロウノのマスクのなかに残響した。
弟子二名が執刀室を出て行く。ロウノは祭服の内側から複眼の女神像を取り出すと、ぶつぶつと祈祷を再開した。
***
同刻、十三番街の雑居ビルの四階。空き部屋が並ぶ廊下で、チューミーとシルヴィは、ある一室をうかがっていた。
看板や表札のたぐいは出ていないが、ここが無免許の医者が開いている整形外科クリニックである。
法外な値段で犯罪者の整形を行っているということで、その筋では有名な診療所だった。
ボッチがロウノ・バベルズの経歴を調べたところ、ロウノの遠縁に免許を剥奪された医者がいることが判明していた。ボッチの持つ情報網から、その親戚の医師が十三番街で有名な闇医者であると当たりをつけて、中央連盟職員に聞きこみを行わせたのが、つい先日のことである。
結果はビンゴだった。
この周辺で、ダスト正教の聖職者らしき人物を目撃した者がいるとのことだった。
逃走中の身であり、面の割れているロウノが取った行動が、まず顔を変えることだというのは自然な話だった。
扉の前で、シルヴィがつぶやいた。
「ロウノはまだ、ここにいるのかしら」
「仮にこの場を去っていても、どこか近場に潜伏しているはずだ。事前情報では奴は負傷しているし、目撃を避ける以上は、そう遠くには行けないだろう」
十三番街に逃走したという話の信憑性を後押ししているのは、ロウノたちが誘拐を決行した五番街とここが、すぐ隣の立地関係にあることだった。
ロウノは交戦時、腹部に手痛いダメージを負っている。誘拐実行現場から直接逃走しているということもあり、傷はまだ癒えていないと考えたほうが自然だった。
チューミーがボッチに投与されたような、よほど高価な塵工薬液を使用しない限り、この短期間での回復は不可能である。
「いい? 最終確認よ」
シルヴィが小声で言った。
「ロウノと接触できた場合は、最優先で無力化。粛清は本当にやむを得ない場合だけ。ほかの聖職者も同様に無力化で、こちらは場合によっては粛清も可。問題は闇医者ね。甥のロウノに自ら協力したか、それとも脅されたかで多少扱いが変わるわ。いずれにせよ犯罪者相手に商売している無免許医師だから、あまりやっかいなら粛清しても問題ないわ」
チューミーはうなずくと、カタナの柄を握った。
それを制して、シルヴィが言う。
「待ちなさい。さっきも言ったけれど、ここはわたしがやるわ。あなたは退路を断っていて」
あれは本心だったのか、とチューミーは驚いた。
シルヴィはこちらと目を合わせず、扉を指した。蹴りあけろということらしい。
わずか迷ったが、けっきょくチューミーは、この臨時パートナーのお手並みを拝見することに決める。ここで言い合っても仕方がないし、こちらにも影響が及ぶという、先ほどのシルヴィの発言も気になった。
チューミーは三本指を立てた。カウントし、ゼロになった瞬間、診療所の扉を蹴りあけた。静かな廊下に轟音が響き渡り、先立ってシルヴィが進入する。その向こうに、明かりの消えた室内が覗けた。
ぶきみな雰囲気の部屋だった。どうやら、手術室のようである。
部屋の中央に佇んでいたのは、ダスト正教の指定マスクを着用する男だった。
大仰な祭服を着込む司祭は、こちらの襲来を知っていたのか、とくに驚くような素振りは見せなかった。
「――ダスト正教司祭、ロウノ・バベルズね?」
シルヴィがすらりとした立ち姿で言う。
「インジェクターをはずして投降しなさい。そうすれば流血は免れるわ。少なくとも今は」
「やはり、粛清官ですか……ああまったく、忌まわしい……」
ロウノが、ゆっくりと顔を上げた。
「あなたがたの好む、粛清という言葉は、不正をただすという意味です。腐敗する中央連盟の飼い犬、まさしく不正者がその名を冠するというのは、我慢ならない……」
「そう? なら交渉決裂ね。今、血を見るといいわ」
シルヴィとロウノが、それぞれの首元に手を伸ばした。
カチリ、というインジェクターの起動音が重なりあった。
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