1-5 とある兄妹の、日常


 少女の好きな音楽が、部屋じゅうに鳴り響いていた。

 ひとりで留守番をする少女が、うつぶせになって足をぱたぱたと遊ばせながら、スケッチブックに一生懸命絵を描いている。

 時おり、ちらちらと玄関を見やっては、落ち着かない様子を見せた。

 曲の途中で、有線ラジオの調子がおかしくなる。まともな音声が途絶えて、バリバリと機械音が混じった。

 少女は立ち上がると、ラジオをとんとんと叩いた。すると、直るどころかよりひどくなって、幼い顔に困った表情を浮かべた。

 そのとき、扉が開いた。

 安物のコートを羽織った少年が、疲れた足取りで入ってくる。


「おかえり、お兄ちゃん!」


 ぱぁっと顔を明るくして、少女が駆け寄った。


「ラン。いい子にしてたか?」


 薄汚いマスクを被った少年は 、みずからの腰に抱き着く妹の頭を撫でる。

 その最中、ラジオの不調に気づいた。


「なんだ、また壊れたのか?」


 少年はランといっしょにラジオの様子を見た。ボリュームをいじっても、不快な音に変化は見られない。

 力任せに揺さぶると、一瞬の沈黙の後、女性ボーカルの高い声が流麗に流れ出した。


「安物はダメだな。つぎは、もっと高性能なモデルにしよう。どこか、このあたりに売っているといいんだけど…… 」

「べつに、いらないもん」


 ランは少年の手からラジオを奪うと、もとの位置に戻した。


「ねえ、それより、早くマスクとコート抜いで! ほら、ごはん食べよーよ。お腹空いたでしょ?」


 ランは少年の手を引っ張って、隣の部屋に導こうとする。

 食卓には遠く離れた偉大都市製のパッケージフードが並んでいた。

 どれも高性能な調理用排塵機を通して加工された安全な食品であり、少し前まではどう背伸びしようが手の届かない高級食品だった。甘い物が好きなランのために、塵工甘味料を使用した贅沢なデザートすら用意されていた。

 だが、食卓を前にして、少年は首を振った。


「ごめんな、ラン。じつは、すぐに戻らなきゃいけないんだ。インジェクターの砂塵カプセルが切れたから替えを取りに来ただけで、まだもうひと仕事残ってるんだよ」

「えーーっ」

「だから、先に食べていてくれ。たぶん、あと一、二時間はかかるから」


 ランは、その大きな瞳を見開いて、不服であることを露にする。


「やだ! 絶対やだっ! お兄ちゃんが帰ってくるまで、わたしも食べない!」

「わがまま言わないでくれよ。ランは成長期なんだから、ちゃんとした時間に食べないとダメだ」

「お兄ちゃんだって、まだ子供じゃん! それに、今日こそは早く帰るって、昨日約束したもん!」

「ラン、わかってくれないか。俺が働くのは……」

「ぜんぶ、わたしのためって言うんでしょ? わたしのためだったら、今いっしょに過ごして!」


 いちど癇癪を起こすと手のつけられない妹に、少年はおたおたと戸惑う。

 職場で客を待たせていた。金払いの良さそうな身なりをしていたから、逃したくはなかった。


「新しいラジオも、おいしいご飯も、お兄ちゃんがそんなに働き詰めになるなら、べつにいらないもん……!」


 ランは恥ずかしそうに、だが力強い言葉で叫んでから、物悲しそうに俯いた。

 妹の訴えに、少年は気持ちが揺らぐのを感じたが、すぐに首を振るう。

 今はなにより、金を稼ぐことが先決だった。もう少しすれば、この悲惨な環境のスラム街から抜け出して、ずっと安全な偉大都市に引っ越す軍資金が貯まる。

 そのためには、彼は生まれ持った貴重な砂塵能力を駆使して、昼夜を問わず働く必要があった。目的が済んだあとなら、いくらでも妹と過ごす時間は作ってやれる。ひとりがさびしいのはわかるが、今はまだ我慢してもらうしかなかった。

 少年がかがむと、背の低い妹と同じ顔の高さになった。


「ごめんな、ラン」


 そのままぎゅっと身体を抱いて、何度か背中を摩ってやれば、おとなしくなるのが常だった。

 しかし、ランは少女とは思えない力で少年の身体を押し返すと、


「いつも同じ手でごまかせるほど、安い女じゃないんだからね!」


 目尻に涙を浮かべさせて 、そう言い放った。

 完全に気を抜いていた少年は、その場に尻餅をつく。床に打った腰を摩りながら、思わず笑ってしまった。


「いったい、どこでそんな言葉を覚えてくるんだ……」


 ラジオドラマのせいか? と首を傾げる。

 ランは依然、頭の上に蒸気が見えるほどに怒り心頭だった。なにがなんでも仕事に行かせる気はないようで、少年の手をしっかりと握って離さない。


「……わかったよ。なら、これならどうだ」


 その頑固な態度に、彼はしかたなく奥の手を使うことにした。

 少年はリュックサックのなかから、小さな箱を取り出す。箱を開けると、そこには見事な胡蝶蘭の髪飾りが納められていた。

 一瞬だけ、ランの瞳が煌めいたのを、彼は見逃さなかった。


「ほら。誕生日にはまだ早いけど、これをやるから」


 少年は妹の黒髪に髪飾りをつけてやる。

 そのまま、肩を抱いて玄関脇の姿見の前に移動させた。


「これさ、ランと同じ名前の花なんだ。前にこのへんに来た行商が売っているのを見かけて、買っておいたんだよ。白と赤で迷ったけど、ランの眼と一緒の、赤にしたんだ。……気に入ったか?」


 本心を見せまいとしているのか、ランは怒っているとも笑っているとも取れる、複雑な表情を浮かべていた。


「う……お兄ちゃん、物で、ごまかそうとしてる……」

「認めるよ。でも、少しは気がまぎれただろ?」


 ランはうなずいて、自身を彩る花を細い指先で弄る。


「あ、ありがとう……」


 鏡越しに映る少年の笑顔に向けて、小声でそう告げると、簡単にほだされてしまった自分を恥じるように、ランは目線を落とした。


「さっきは多く見積もりすぎた。きっと、数十分で戻ってくるよ」

「……本当に? 本当に、すぐに帰ってくる?」

「ああ、約束だ」


 そこで少年は、普段から言い聞かせている決まり事を繰り返した。


「いいか、ラン。俺以外のやつが来ても、絶対に家には入れないで居留守を使えよ。それと……」


 耳にタコができるほど繰り返された言葉に、ランが途中で口を挟む。


「わかってるもん。『古い排塵機だから、メーターにはよく注意して、間違っても空中砂塵濃度が高いときにマスクを取らないこと』 、でしょ」

「そうだ。もし俺の帰りが遅くなっても、九時には寝るんだぞ。戸締りもきちんとして……」

「だいじょうぶだってば。……全部、わかってるもん」


 少年は、名残惜しそうにする妹の身体を抱き締めて、何度か頭を撫でてやった。

 突然の行為に、ランは目をぱちくりと見開いたが、いずれ心地よさそうに目蓋を閉じた。

 しかし、少年がすぐに身体を離してしまったので、残念そうな顔を浮かべる。

 少年は家の奥の戸棚に向かった。なかを漁り、砂塵粒子の詰まった小さなカプセルを手にする。少年はドレスマスクを脱ぐと、後部ベルトからインジェクターを取り出して、カプセルを尾の部分に取りつけた。

 玄関に手をかけると、マスクを被る前に、少年はにかっと笑って振り向いた。


「ラン。思った通り、よく似合ってるよ」


 褒められると、少女は困ったような、照れたような、かすかな笑顔を浮かべるのが常だった。いつもの表情を確認して、少年は満足いくように頷いた。

 バタン、と扉が閉まる。薄暗い部屋には、ふたたび少女がひとり取り残された。


「もう。調子のいい、お兄ちゃん……」


 ランは不満げにそうつぶやいた。それから、ふと思い出したように赤い花の髪飾りをはずす。小さな掌にそっと包むと、いつまでも嬉しそうに見つめていた。

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