1-4 復讐者
「はっ、いい殺気だ! ビリビリくるぜ」
火事場のなかで、ボッチはやけに楽しそうな口調で言った。
「だが、気合だけで解決する物事なんざ存在しねェ。だろ?」
(その、通りだ……)
チューミーは右に駆け抜ける。ボッチの火炎放射が、こちらを追尾して狙い続けた。のたうち回る蛇のような炎の縄を、神経をすり減らして避ける。
自分たちのあいだに立ちこめた黒煙が、ついには互いの姿を覆い隠した。
それこそがまさに、待ち望んでいた瞬間だった。
チューミーは二本のダガーナイフを抜き取ると、ボッチに向かって投擲した。
(俺がもっとも
身体が傷つくのは、こわかった。
夜、服を脱ぐたびに増える生傷が、脳を狂わせるように自責の念を生んで、自分の心を――もっとも、そう呼べるものがまだ残っているとしたらだが――際限なく苛んだ。
だが、自分がいるのは、死の危険が隣り合わせの戦地だ。
この偉大都市で、みずからの意志で危険な追跡活動を続けてきたのは、当然、身体が傷つく以上に畏れるものがあるからだ。
投擲したダガーが弾かれる音がした。
その音源をもとに、チューミーは煙の向こうにいる敵の位置を把握する。
敵に接近するとき、炎の揺らめきのなかに、幻惑のシルエットを見た。
明かりの向こうに、世界でもっとも愛した者の姿が映った。それと同時に、世界でもっとも憎む者の姿が投影される。
その影に向けて、声にならない咆哮を叫ぶと、チューミーはカタナを構えて全速で迫った。
(今夜、愛しい身体はふたたび傷つき、俺は深い懺悔に嘆くだろう……)
だが、真に畏れるはそれではない。
本当の恐怖は、あの日誓った復讐を果たせないまま、この命の紐が解けることだけだ。
(そうだ――だから、それだけを考えろ。
俺を支配する、この炎のように燃える復讐心だけを……!)
ボゥッ! と煙幕を裂いて出て、チューミーは敵の姿を捉えた。
(そのための障壁は――すべて、排除しろッ!)
だが、ボッチは奇襲攻撃を予測していたようだ。
突如として現れた敵にも動揺せずに、
「だから、浅はかだ、っつったろうが」
そうひと言だけ吐き、そのローブに覆われた腕を向けてくる。
そしてこれまで何度も見たように、爆炎を浴びせかけてきたが――
今度は、チューミーは火炎を避けようとはしなかった。
大回りをして回避すれば、相手を討つ手数が整わなくなる。
チューミーは、虚空に向けてカタナを素振りした。
全力の太刀が生む風圧が、ほんのわずかに炎を裂いた。それでも焼け石に水であり、まともに喰らった。
高熱を浴びる肌が、これまでに味わったことのないほどの激痛を喚起する。
しかし――その疾駆を止めることはなかった。
火炎の渦を抜けて、ボッチの眼前に躍り出る。
ようやく攻撃圏内に入りこんだチューミーは、渾身の刃を構えて、ボッチの半身を両断するように、全力の袈裟斬りを見舞った。
対して、ボッチは防御の姿勢を取っており、こちらのカタナを巨大な棺全体で受けにかかった。しかし、ダガーの投擲ごときとは威力も覇気もまるで異なる一撃が、ボッチの棺を吹き飛ばす。
鎖を捲いて固定していたボッチの棺が、がらんと音を立てて解除された。
その瞬間、棺からボッチの服の内部へと伸びる二本の太い塵工製チューブが目に入り、チューミーは高速の二太刀目でそれを寸断した。
千切れたチューブが断面から白い煙を噴き出し、しなって地面に転がった。
「なんだと、こいつ……ッ!」
かぼちゃ頭が、驚愕の声を上げた。
――これで、ボッチはもう、火炎は使えないはずだった。
ボッチが肌身離さず背負っていた、この黒い棺の正体。
それは、塵工燃料を詰めた火炎放射器に違いない。
ボッチは、この変わった形状の火炎放射器から伸びるチューブを腕に仕込むことで、さも自分の砂塵能力のように火炎を振り撒いていたのだった。
だが、ボッチが現にインジェクターを起動していることに違いはない。
と、するならば。
相手の砂塵能力の正体は、おそらく耐熱のたぐいだとチューミーは予測していた。攻撃ではなく、防御寄りの砂塵能力のはずだと。
ボッチの身にまとう砂塵粒子は、ボッチの体内で作用して、火事場の熱エネルギーが与える悪影響を打ち消している。
それならば、この火事場のなかでボッチだけが自由に活動していることも、火炎放射の連発にも説明がく。
そして、自分のこれらの推測がすべて当たっていたとするならば。
この距離まで詰めた以上、押し負ける道理はないと、そう確信する。
ボッチには、携行している近接武器のたぐいは見えない。隠し武器を取り出すにせよ、この超至近距離で、こちらの次の太刀が受け切れるはずがなかった。
(これで、俺の勝ちだ――)
チューミーは間髪入れず、追撃のカタナを振るった。
が――、
ボッチの握り拳が、離れゆく黒い棺をドンと叩きつけた。
棺の表面に彫られた十字架がガシャリとはずれて、宙を舞う。
「なっ……⁉」
チューミーは衝撃を隠せなかった。
単なる模様だと気にもかけていなかったそれは、棺に嵌め込んでいた武具のようだった。
ボッチは、その二本の特殊な形状をした警棒を手に取ると、こちらの全力の斬撃を真正面から防いだ。
鋭い金属音が、四番街の夜空に反響した。
「単身でおれにこいつを抜かせるとは……やるな、おまえ」
すぐ間近で、相手がそうささやいた。
鍔迫り合いを行い、ボッチは軽くチューミーを弾き返す。
「ク、ソ……!」
受身を取りながら、チューミーは歯軋りをした。
俊敏さはともかく、振り合ったときの膂力はボッチが遥かに勝っている。
こういう手合いは闇に乗じて奇襲をするのが鉄則だったが、すでにこの状況となってはどうにもならない。いったん距離を取れるような足場など、もうどこにもない。
地に膝をつくチューミーを、遥か頭上から見下ろして、かぼちゃ頭が告げた。
「おれの
長躯のボッチが携えて、なお不自然なほどに長大な二本の近接武器――白銀色の大型トンファーに、炎の朱色がゆらゆらと反射していた。
「だが――悪いな。おれは、近接戦闘のほうが得意なんだよ」
絶望のひと言だった。
しかし、戦闘は続行しなければならない。足を止めたときが、そのまま敗北するときだ。チューミーはカタナを床に刺して立ち上がろうとしたが、
「――――ッ?」
みずからの身体の状態を知り、愕然とした。
まったく力が入らなかった。肢体が断続的に震えているのは、今しがた浴びた火炎が引き起こす、強い神経性のショック反応のようだった。
もはや、カタナを持つ握力すら満足に維持できない。
「ハッ、ハァ……ハァ……ッ!」
荒い呼吸を繰り返す。
チューミーは、もはや熱いという感覚さえ抱いていなかった。身体が放出できる水分は一滴も残っておらず、心臓までもが極限に渇き切っていた。
「――終わりだな」
そう、ボッチが言い放った。
「いや、感心するぜ。むしろ、これまでよく動いたほうだ。この火事場のなかであれだけ走り回れば、普通はとっくにくたばってる。だが、もう諦めろ。それ以上動けば、下手をすると後遺症が残るぜ」
「……俺は、まだ……」
――まだ、やれる。いや、やらねばならない。
なぜなら。
(――俺は。俺は、こんなところで、倒れるわけには……)
チューミーは無理やりカタナを振った。
普段のキレも覇気もない、力ない刃がボッチに迫る。
あっけなくカタナが止められるも、チューミーは返しのひと太刀を振るう。が、それも当然のように防がれた。
無情にも弾かれるたびに、カタナの速度は目に見えて落ちていく。
四、五、六、七回と振るころには、ボッチはとうとう刀身を受けることすらせず、簡単な身体の動きだけで避けていた。
最後の一撃は切っ先すら届かずに、ボッチのかぼちゃ頭の目前で、ぴたりとカタナが止まった。
「……おまえ」
その執念に、なにか得体の知れない原動力を感じたのか、ボッチはこちらの正体を探るように、そう問いかけてきた。
「名前は、なんだ?」
「……チューミー・リベンジャー、だ…………」
がらがらの機械音声で、チューミーは答えた。
生来の名も、顔さえも失って、唯一自身にゆるしたのが、この通称だった。
会話に応えたのは、限界を悟られないように威勢を保つためだったが、チューミーにこれ以上の戦闘が行えないことは、火を見るよりも明らかだった。
それでも、チューミーは今いちどカタナを構える。
そのカタナに、鋭い殺気がよみがえった。ボッチは反射的に、ふたたびトンファーで迎撃の態勢を取った。
しかし――最後の太刀は、振られなかった。
代わりに、どさり、と音がした。
瀕死のチューミーが、その場に倒れこんだ音だった。
意志とは裏腹に、限界を迎えた肉体が、これ以上の活動の一切を否定していた。
チューミーは、どう念じても動かない身体から、自らの魂が放たれて、周囲の炎に溶けこんでいく幻覚を見た。
「……チューミー・リベンジャーだと……?」
ボッチはこちらの身体を見下ろすと、なにか思うことがあるように口にした。
「フン、なるほどな。復讐者、か……」
そうだ――と思った。
まぎれもなく、復讐者だった。そして、それが遂げられないことには、今こうして生きている意味も、自分が存在している価値もないはずだった。
ここで立ち止まるわけにはいかなかった。
けっして許されない敗北に、絶望感をともなって、視界が徐々にブラックアウトしていく。突如として、奇妙な浮遊感を覚えた。
だれかが――おそらくはボッチが、自分を持ち上げたようだった。
この身体に触れるな! と怒鳴ろうとする。
その前に、チューミーは意識を完全に失った。
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