花瓶
気が付かないフリをしていた。……否、もしかしたら最初から気が付いていたのかもしれない。きっと見たくなかっただけ、聴きたくなかっただけ。
耳元で弾むのはバスドラムのよく響く、歌詞のない曲だ。とある人は「いいBGMだ」なんて言ったけれど、右から左へ流すだけのBGMなんかじゃない。耳の奥にこびりついて、離れない。
そこそこに高い買い物は後悔をさせない、これはもう何年も前からの座右の銘だ。値段で悩んだら高い方のものを買っておく、少なからず性能などは高い方が良いのだから。今耳につけているこのイヤホンだって安い買い物ではなかった。
ノイズキャンセリング、周囲の音が聞こえずに音楽に没頭できるこのイヤホンはとても良い。電車の騒々しさも人々の話し声すら遮断する。一人が好きというわけではないけれど、煩いよりはずっといい。
そう、たまたまだった。少し耳が痛いな、と思ってそのイヤホンを静かに外したのだ。塞ぎ込んでいた時とは比べ物にならない程の開放感、そして世界の広さ、明るさ、その全てが耳から情報として濁流する。不意に聴こえた赤子の声、踏切が電車を通す音、その音の大きさに耳を疑った。
忘れるわけもない、大きな音が刃物となって耳を貫くような感覚。赤子の声が耳に響いて頭が痛くなる。電車の轟音が無数の針となって僕の耳を刺した。
そうだった、忘れていた。僕はどうかしていたのだ、僕の耳はあまりにも音を認識しすぎて僕をいつだって過敏に混乱させてきた。思わず慌ててイヤホンを耳に装着すると、僕の頭は落ち着いてくる。
嗚呼、電子の音ではなく生の音が聴きたい。きっとそれは叶わないのだろうけれど。認識し過ぎて僕はなにか塞ぎ込んでいないと生きていけない。普通に戻りたい、戻れない。
割れた花瓶が元に戻らないのと同じだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます