(3)

 学校ではしばらくのあいだ、天が襲われたという話題で持ちきりだった。「襲われた」と表現したが、その言葉が示す迂遠な意味を正確に知っているクラスメイトがどれくらいいたかはわからない。


 そして天が珍しいオメガであることも大いに噂になった。


「アルファだと思ったのに」


 そこにこもる感情は様々だ。落胆、好奇、あるいは下世話な感情。


 それらに天が晒されなかったことは幸いだったかもしれない。天は、学校にこなくなったので、そういう機会は幸いにも訪れなかった。


 一方の当事者であるあの上級生は転校した。オメガフェロモンに誘引されたとは言え、下級生を襲ったことは事実。結局、いづらくなって転校していったと聞いた。


 そうしてわたしひとりが残された。


 わたしだけがほとんどなにも変わらなかったように思う。その強い意志があったわけではなかったものの、天を助けた形となったが、それを賞賛されることもなかった。


 ただ、上級生に果敢に――あるいは無謀にも立ち向かっていったことについて、イジメっ子はなにか思うところがあったのか、苛烈な嫌がらせは鳴りを潜めた。


 わたしの周囲で変わったことと言えばそれくらいで、あとはほとぼりが冷めれば日常に埋没して行く。以前と同じように。


 ただ、そこには天はいない。


 天とわたしは親しかったわけじゃない。


 わたしは竹を割ったような性格の天に対して畏れに似た感情を抱いていたし、天はイジメられっ子のわたしを情けないやつだと思っていたに違いない。


 それは決して、被害妄想ではないはずだ。天は理不尽な物言いに言い返せるだけの強さがあったけれど、わたしにはそんな根性はなかったから。


 それから変わったことはわたしのこめかみの辺りに傷が残ったことだろう。爪が当たったのか、揉み合ったときにどこかにぶつけたのかはわからない。ただ、あの出来事があったのは事実だとでもいいたげに、痕は残ったままになった。


 鏡でその傷痕を確認するたびに、わたしは天を思い出した。


 転校していったわけではないのはたしからしいものの、保健室にも登校していないことは噂で聞いた。


 かと言って教師に天の家の住所を聞き出すだけの度胸もなかったわたしは、ただ傷痕を見ては彼の姿を思い起こすに留まったのであった。



「あ、あの、加持くん……だよね?」


 天と出会ったのは偶然だった。


 わたしは小学校を卒業し、地元の公立中に進学して二年生になっていた。


 その日はたしか、母親の誕生日プレゼントを買いに行こうとしていたんだと思う。だから、いつもは降りない駅、あまりきたことのない街に足を踏み入れたのだった。


 そこでわたしは天を見つけた。


 天は最後に見たときよりも背が伸びていたけれど、オメガ性だからなのか、同年代の男子の平均身長よりも低かった。


 対するわたしは中学への入学時に受けた検査によって、アルファ性とのお墨付きを得てからぐんぐんと背が伸びて、周囲の女子よりも頭ひとつぶんは背が高かった。


 そういうわけで自然とわたしが天を見下ろす形となる。


 思わず取ってしまった手首は無礼と知りつつ放さなかった。放せば、天はあっという間に逃げてしまいそうな気がしたから。


 中学二年生の現在、天とはクラスメイトだった。


 けれども天はあれ以来、一度として学校には行っていないらしく、校内で彼を見たことはなかった。確認していなかったが、保健室にも登校していないことは明らかだった。


「あ――わたし、高木たかぎ。高木涼風。同じ小学校だった……」

「……知ってる」

「あ、あ……そっか」


 言葉が続かない。どういう言葉を投げかけるべきかも、さっぱりわからなかった。


「あのさ! 話したいことあるから、あそこのマックにでも入らない?」


 わたしは苦し紛れに近くにあったファーストフードのチェーン店を指差す。店内には学校制服姿の人間もいて、騒がしそうだった。そこなら込み入った話をしてもだれも気にはしないだろうと思ったのだ。


 ……とは言え、わたしがしたい「込み入った話」なんてものは、そのときには思いつきもしなかったのだが。


 ただ、天と話がしたかった。あのあとどうなったのか、大丈夫だったのか、今はどうしているのか、なにか困っていることはないか……。


 なぜこんなにも天のことが気になるのか、わたしはわからないまま、彼の手首をゆるく握っていた。


「……いいけど」


 天はおどろいたような顔をしつつ、どこかあきらめのにじんだ目をしてそう答える。


 今ならわかるのは、そこで天に断る選択肢は中々選べないだろう、ということだった。


 わたしは言わば、天の消し去りたい過去を詳細に知っている人物。そんな人物の提案に逆らえと言うのは、いささか酷な話であった。


 わたしは天からすれば消し去りたい――黒歴史をだれかに吹聴する気なんてものは一切なかった。あの事件のあとですら、わたしは貝のように黙り込んでいたわけで。


 けれどもあれから登校していない天にはそんな事情がわかるわけがないのであった。


「ごめん」

「え?」


 一番安いハンバーガーとコーラ、フライドポテトのセットを注文して席につく。天はアイスコーヒーだけを注文したので、わたしは食い意地が張っているようでちょっとだけ自分が恥ずかしくなった。


 半ばヤケになってハンバーガーを大きく頬張る。いつもと変わらないジャンクな味。いつもと違うのは、目の前にいるのが親や友人ではなく、天だということだろうか。


 天はミルクもシロップも入っていないアイスコーヒーに口をつけたあと、気まずげに言った。


「え? 『ごめん』って?」


 しかしわたしはなぜ天がそんな表情をしているのか、なぜ謝ってきたのか、なにに対して謝っているのか、すべてがわからなかった。急いで口の中にあったハンバーガーを咀嚼して、コーラで胃に流し込む。


 白皙の美少年といった風貌の天は、ややあってからまた口を開いた。

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