(2)
みんな、天のことをアルファだと思っていたに違いない。
なぜって、理由を挙げるならキリがないからだ。勉強もできる、運動もできる。意志が強くて、見目もよくて、孤高であって気高くて……。
だから、みんな天のことをアルファに違いないと思っていただろうとわたしは思うわけだ。
かく言うわたしも、そんな思い込みをしていたひとりだった。
けれども違った。
天はオメガだった。
大人びていた天はその身体も早熟だったらしい。
おおよそのオメガは高校生あたりに訪れると言われている、初めての発情期を天は小学四年生にして迎えたのだった。
それにわたしが気づいたのは偶然だった。
弱弱しいがたしかな拒絶の言葉。甘ったるいけれど、ちょっとだけピリリとした香辛料が混じったような匂い。
それらが妙に気になって、胸騒ぎがして、臆病者のくせにその香りをたどって着いたのは、男子トイレだった。
古びたトイレ特有の、なんともいえない汚臭よりも、わたしは甘辛い香りが気になった。気になって仕方がなかったのもあるが、ひとつしかない男子トイレの個室から聞こえてくる声のほうが気になった。
個室の扉は開いていたから、ちょっと覗けば足を踏み入れるまでもなく、中を見ることができた。
そこにはふたりの男子生徒らしき人物がいた。ひとりは体格からして六年生だろうか。少なくともわたしよりも年上であることには違いがない。
そしてその下から伸びる足は細くて、上から覆いかぶさっている人物よりも年下だろうことがわかった。
当時のわたしは六年生の彼がなにをしようとしているのか、年下の彼がなにをされようとしているのか、まったくわからなかった。それでも心がざわついた。よくないことが起こっていると直感的に理解した。
そう広くない男子トイレの奥からか細い拒絶の言葉が上がって、わたしの心をざわめかせた。
男子トイレに足を踏み入れたなんてあとでクラスメイトたちに知られれば、イジメられることは目に見えていた。
けれどもなにかしらの勘違いで教師を呼びつけるのもはばかられて――恥ずかしくて。結局わたしはそのふたつを天秤にかけて、自らの目で個室の様子をたしかめに行ったのだった。
そのことを後悔していないかと問われれば、人ひとりを助けたのだから後悔はないと言いたい。けれどもその出来事は、多感なわたしの心に相応の衝撃を与えたこともたしかだった。
六年生とおぼしき男子生徒は、ズボンと白いブリーフをずりおろして、その股間にぶら下がったものを右手で持っていた。それがどういう状態だったのかまでは覚えていない。あるいは、わたしの脳が記憶から消し去ったのかもしれなかった。
男子生徒に覆いかぶさられていたのは、天だった。わたしは先ほどから強く香るその匂いが、天からしていることにようやく気づけた。
天は、屈辱に顔を歪めて泣いていた。その顔を見て、わたしはショックを受けた。
わたしにとって加持天は完全無欠のアルファ――当時の推測にすぎないが――だった。なんでもできる、「絶対強者」。カースト上位に君臨する、孤高の王様。それがわたしの天に対する印象のすべてだった。
そんな天が、泣いている。わたしの心は大いにざわめいた。
「あの! なにをしているんですか?」
ずいぶんと間抜けな問いだと思う。けれども当時はそう問うので精一杯だった。なにせわたしには社交のスキルもなければ、勘のよさも皆無だったので。
「それにこの香り……」
顔を真っ赤にしながら息を荒げながら、しかし怪訝そうな顔をするに留まっていた上級生は、しかしわたしのその言葉を聞いて顔色を変えた。
「こいつはオレのもんだ!」
わたしは彼がなぜ急にそんなことを言い出したのかわからず、体を硬直させた。回避行動や防御行動を取るという発想は、小学四年生の平々凡々な女児にはなく、わたしはあっけなく腹を蹴り飛ばされた。
痛かった。単純に痛かったし、びっくりしすぎて怒りも悲しみも湧いてはこなかった。今思うに、それはよいことだったのかもしれない。
わたしは小汚いタイル張りの床から起き上がって、今しがた己を蹴り飛ばした上級生にむかっていった。
こんな暴力的な生徒なのだから、きっと天も酷い目に遭わされたか、遭わされようとしているに違いない。
そう思うと、なぜだか天を助けなければという気持ちになった。いつぞやの恩返しをしたいとか、そういう気持ちがあったわけではない。
ただ、なぜか、天を助けなければならないという気持ちに支配されたわたしは、果敢にも上級生へとむかっていったわけである。
揉み合いがどれくらい続いたのかわからなかった。けれども上級生に体格で負けているにしては、善戦したほうだと思う。
何度も蹴り飛ばされ、殴られて、気がつけば鼻血が垂れて服とタイル床を汚していた。
それでもわたしは泣きもせず、あきらめもしなかった。「ゾーンに入る」とはああいう状態を指すのかもしれない。
その頃にはトイレの出入り口に野次馬が殺到していたらしい。わたしには、まったく覚えがないのだが。
そうしてじきに騒動は教師まで知れ渡って、わたしとその上級生は取っ組み合いをしているところを押さえられ、ようやく引き離されたのだった。
それからどうしたのかは記憶が飛んでいる。
気がついたときには保健室のベッドの上で、そばには心配そうな顔をした、スーツ姿の母親がいたのだった。会社からすっ飛んできたのだろうことは子供のわたしにもわかって、なんだか申し訳ない気持ちになったのを覚えている。
「加持くんオメガなんだって」
どういう話の流れだったのかは、もう思い出せない。ただ、母親のその言葉だけが鮮烈に残っている。そして続く言葉も。
「加持くん、発情期がきちゃったんだって。それに
そうしてわたしは己の第二性を知り、天の第二性もその騒動によって知れ渡った。
そしてわたしの顔には傷が残り、天は学校にこなくなった。
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