海か空か

夢月七海

海か空か


 海の上でも、春は感じられる。

 太陽が昇っている時間が長くなってきて、海面がぽかぽかと温められている。空を覆い続けていた灰色の雲は、強い南風に吹き飛ばされていった。


 淡い水色の空を見上げる形で、私は岩に寝転がる。この岩は、二人が横になれるくらいの大きさだけど、満潮でも干潮でも、決して沈まないので、よく使っていた。

 近くの大陸から、僅かに花の匂いを含んだ風が漂ってくる。そのまま、私は目を瞑った。


 すぐ隣から大きな羽ばたきの音がして、何かが隣に降り立ったのを感じた。

 海鳥か何かだろうと思って、目を開けずに放っておいた。


「どうしてそんなにも蒼いの?」


 突然投げかけられた質問に、驚いて目を開ける。私の横には、一人のハーピーの女の子が立っていた。

 両腕の代わりの、薄い水色の羽を畳んで、紫の瞳は、私の下半身、深い海のように蒼い鱗とヒレに注がれている。潮風に、鳥の巣みたいな黄色い髪がふわふわ揺れた。


「保護色なのよ」


 寝転がったまま、投げやりに答えると、彼女はパチパチと瞬きを繰り返した。


「保護色って?」

「海と同じ色になって、身を守るの」

「へえぇ。物知りだね!」


 ハーピーはにっこり笑い掛ける。なんて、無邪気で、警戒心のない子なんだろう。


「あなたの羽根も、蒼いじゃないの」

「あたしは、空が好きだから、同じ色なんだよ」


 エッヘンと、ハーピーはその真っ白な羽毛に覆われた胸を張った。

 根拠はないのに、自信満々だ。私はくすりと笑ってしまった。


「今ね、あたしはあっちの方に行く途中なの」


 ハーピーは、私の背後、北の方を指差した。

 冬を南の大陸で過ごしたハーピーたちは、春になると北へ帰ってくる。そして、寒くなると南へ渡る。毎年、その季節になると、私の遥か上空で、ハーピーたちが群れをなして飛んでいた。


「あなたはひとりみたいだけど」

「うん。あたし、飛ぶのが苦手で、すぐ疲れちゃうから、ゆっくり、休みながら飛んでいたんだ」


 照れ笑いを浮かべるハーピーだったが、現実はそんな優しいものじゃないだろう。

 彼女は多分、今年に南の大陸で生まれた子供だ。そうだとしても、体が一回り小さい。ちゃんと無事に、海を渡り切れるだろうか。


「あっち側に沿って飛んでいけば、岩場がたくさんあって、休みやすいと思うよ」

「ほんと! ありがとう!」


 私の忠告を聞いたハーピーは、嬉しそうに笑って、バサバサと飛び上がった。もう一度、「ありがとねー!」とお礼を言いながら羽ばたいていく彼女を、そのまま見送った。

 どうして、異種族のハーピーに、あんなことを言ったのだろう? 自分の行動なのにそれが不可解で、彼女の姿が見えなくなってから、首を捻った。


 きっと、ひとりぼっちの彼女に、共鳴しちゃったのかな。

 ぼんやりと、そんなことを考えながら、私は寝入っていった。






   ■






 日が短くなって、海水に籠っていた熱も、徐々に逃げ始めた。

 私は、岩場に腰掛けて、夏よりも高い位置で北風に吹かれる雲の流れを、じっと見る。ギラギラとした夏の輝きは立ち去り、空の蒼色も和らぎ始めていた。


 その中を、一生懸命に飛ぶ、ひとりのハーピーが見えた。あっと声が漏れる。今年の春に会った、あのハーピーだった。

 良かった、無事に北の大陸に辿り着けたんだと安堵している私に気付き、彼女は、こちらへ向かって、わざわざ方向転換して降りてきた。


「いつもここにいるの?」


 会ったのは二回目なのに、ころころと可愛らしい声でそう断言された。失礼だけど、実際、いつもここにいるので、私は頷く。

 子供の頃に、伝染する流行病で、両親を相次いで無くした。私からもうつるかもしれないと他の人魚たちから敬遠され、それから何十年経っても馴染めずに、こうして岩の上で過ごしている。


 よいしょと、ハーピーは私の隣に腰掛けた。海水が跳ねてくるのも気にせずに、鉤爪の付いた足をぶらぶらさせている。


「あたし、スースって言うの。あなたは?」

「マリアンヌ」

「よろしくね! マリアンヌ!」


 ハーピー、もといスースは、私の名前を聞いて、にっこり笑った。元気よく、両羽まで広げている。

 その様子に、毒気が抜かされているような感覚がした。初対面の時と同じように、いつの間にか、彼女のペースに乗せられている。


「北の大陸はね、すっごく広いんだよ。危ないから、あんまり飛び回れなかったけれどね。草とか、花とも、南と全然違う。海も、なんか違う気がする。マリアンヌの仲間も、あんまり見なかったなぁ」

「人魚のことね。ひとりもいないってことはないと思うけれど、冷たい海は苦手だから、少ないかも」

「あたしも、寒いの苦手。朝はぶるぶるしちゃう」


 北で迎えた朝の気温を思い出したのか、スースは自分の体を抱き締めながら、大袈裟に震えて見せた。それを見て、私はくすりと笑ってしまう。

 まだ、生まれて一年も経っていないスースにとっては、世界の何もかもが新鮮で、美しく、不思議に満ちているのだろう。彼女のお喋りと質問は、尽きることがなかった。


 いつの間にか、日が暮れ始めたので、スースは「夜になっちゃう!」と慌てて立ち上がった。とても優雅とは言えない羽の動かし方で、海面に足が付きそうになりながらも、何とか飛び上がる。

 ひょろひょろと航路が定まらないのに、「じゃーねー」とわざわざ振り返った彼女に、笑い掛けながら手を振る。まるで、妹ができたみたいで、愉快だった。






   ■






 それから、年に二回、春と秋に、海を渡るスースと話をするようになった。

 私の座る岩場に来たスースは、必ず、私に質問をしてくる。


「どうして、昼は星が見えないの?」

「白と黒の大きな魚を海で見たよ。あれは何?」

「マリアンヌが好きな食べ物は? あたしは、ヤマブドウが好きなんだー」


 私は、どんな状況下でも、それにきちんと答えていた。


「太陽がまぶしいから、昼間は星が見えないんだよ」

「多分、オルカのことかな。肉食で、高い所まで跳べるから、あまり近付かないでね」

「海の底の白貝が好き。ブドウってどんな味がするの?」


 スースとの会話は、そんなやり取りをきっかけに、ゆったりと始まった。体の力を抜いて、波間に揺られている時のような心地よさを感じる。

 ただ、私は、スースが仲間のハーピーや家族の話をしていないことに気付いていた。小柄で、群れと同じ距離を飛べない点などから、スースは、彼らとは馴染めていないだろうと思う。


 その点について、私は突っ込んでは話さない。私自身、他の人魚たちとの仲を訊かれたら、上手く返せないからだった。

 私は、この瞬間、自分が孤独だということを忘れられる。スースも同じ気持ちだといいななんて、そんなことを密かに考えていた。






   ■






 南からの風が強い。空は水平線の果てまで、はっきりと見えるほど晴れ渡っている。

 海は時化ていた。大きな波が岩に当たるのを見る度に、私の心のざわつきが、膨らんでいくのを感じる。


 私は目を閉じて、息を吸い込んだ。そして、口を開いて、唄を紡ぐ。

 幼い頃、母が歌ってくれた子守唄だった。記憶を辿りながらなので途切れがちだけど、南の果てまで聞こえるように力強く歌う。


 歌が終わった時、頭上からバサバサと慌ただしい羽音が聞こえた。はっと目を開けると、こちらに向かって、スースが飛んできた。

 私は驚いて、海の中に潜った。しばらく、青一色の世界を見て、心を落ち着かさせてから、顔を半分だけ上げる。


「マリアンヌ! 唄、上手いね!」

「き、聞こえていたの?」

「うん。そうだよ」


 岩に降り立ったスースは、きょとんとした表情でこちらを見ている。

 まさか、聞かれているとは思えなかったので、顔が真っ赤になってしまった。


「あんまり、聞かれたくないんの。……上手じゃないから」


 人魚は、母親から直接唄を教わる。だけど、子供の頃に母親が亡くなった私には、そんな機会が無くて、記憶の中の唄を思い出しながら歌っている。

 でも、音程や歌詞なども朧気な唄では、とても他人に披露できるものではない。前に、他の人魚に聞かれた時は、くすくすと笑われてしまった。


 だけど、スースにとっては、その自己評価はピンとこない様子だった。


「すごく素敵な唄だったよ?」

「そうかな……」

「葉っぱに乗っかった、透明な水みたいで、とても綺麗だった」


 スースの真っ直ぐな瞳に吸い込まれたかのように、信じてみようかなと、自然に思えた。

 私は、スースの隣に登った。そして、彼女が現れた時からずっと足で握っている、蒼い花を指差した。


「それは?」

「南の大陸にある花だよ。マリアンヌに見せてあげようって、持ってきたんだ」


 はいと、差し出されたその花を、受け取る。花の色は、私の鱗の濃い青と、スースの水色の羽根と、その中間くらいの色合いをしていた。

 花の匂いを嗅いだ瞬間、パチパチッと、頭の中で閃光が走る感覚がした。


「この花の匂い……春になると、香ってくるものだ」

「ふふふ、いい匂いでしょ?」

「うん……匂いはよく知っているけれど、見たのは初めて……」


 もう一度、匂いを嗅ぐ。だけど、今度は嬉しさよりも、切なさの方が強く抱いた。

 スースは、この花が咲いている瞬間を、毎年見ているんだ。私は、海の世界しか知らないけれど、スースは空の世界も、陸の世界も知っているのが、なんだか悲しく感じる。


「スースは、色んな場所を飛び回れて、羨ましいな。空も、海も、大地も、どこへだって行ける」

「でも、あたしは、空が一番好き。マリアンヌは、海が好きじゃないの?」


 いつか聞いた言葉と同じものを返して、スースはつぶらな瞳で私を見上げる。

 私は、海の中があまり好きじゃなかった。そこから逃げ出したいと思っているから、いつもこの岩の上にいる。だけど、それを、スースに言えなかった。


「……お花、ありがとう」

「ううん。マリアンヌの唄のお礼だよ」

「それ、偶然聞いただけでしょ」


 無理に話題を変えたことに、スースは疑問を持たずに返してくれた。私達は大きな口を開けて、一緒に笑う。

 花も、空も、海も、蒼い色をしているのに、どうしてこんなに違うんだろうね? いつものスースのように、私は心の中で問いかけた。






   ■






 秋、今年もスースが飛来した。私の隣に、ちょこんと座る。

 しかし、その表情は、酷く曇っている。初めて見る彼女の一面に、私は内心、動揺していた。


「マリアンヌには、恋の季節はあるの?」


 最初、何の話だか分からなかったが、どうやら発情期のことを言っているらしい。

 寿命が長い人魚の発情期は、私には大分先だった。一方、スースは生まれて十年経ち、それを迎えるらしい。


「あるけど、まだ来ていないよ」

「そうなんだ……あたしは、今年がそうだよ」


 スースの表情は、ずっと暗い。膝を抱えて、羽の中に、しばらく顔を埋めていた。

 私は、そんなスースに掛ける声を失っていた。次の世代に命を繋げる発情期を、なぜスースが憂いているのかが、分からなかった。


「ママとパパは、早く丈夫な子供を産んでって言っているけれど、あたし、オスと一緒になりたくない……。マリアンヌと、ずっとここにいたい……」


 思わぬ告白に、息が詰まった。頭上に、日光が差し込んだような気持ちになる。

 だけど、それは気のせいだ。私は、スースの迷いを、正してあげないといけない。


「無理だよ、スース」

「……」

「私達は、住んでいる世界が、違いすぎるんだから」

「……」

「たまにこうして会うだけで、良いんだよ」

「……」


 スースが顔を上げた。一瞬、納得してくれたかと思ったが、ぼんやりとした目つきで、前を見つめている。

 南の果ては曇っていて、雨も降っているのだろうか、海と空の境界線が、見えないくらいに煙っていた。


「あそこまで行ったら、空と海は交じり合っているのかな……。あそこなら、私達も一つになれるかな……」

「そんなわけが……」


 スースの潤んだ瞳を見て、否定の言葉は引っ込んだ。締め付けられるように、心が痛い。

 ふいに、すくっとスースが立ち上がった。すぐに飛び立ち、こちらを振り返らずに、南を目指している。


「スース!」


 名前を呼んでも、振り返りはしなかった。


 ……それから、あっという間に時間が経ち、日が沈んで、夜になった。

 いつもの岩を枕にして、頭以外を海に浸して、空を見上げる。満天の星の中で、時々、きら、きらと、眩く輝くものがあった。


 ずっとスースのことを考えていた。彼女が、挨拶もなしに去っていったのは、初めてだった。一体どうしたのだろう。

 必死に水平線に向けて飛び続けるスース。しかし、力尽きて、何も無い海の上へ、墜落してしまう……。夢うつつの中、そんな光景を見てしまい、私ははっと体を起こした。


 私は、いてもたってもいられず、南に向かって泳ぎ出した。

 自分が出したことのないほどのスピードで、しかし、スースがどこにいても分かるように、顔は海面から出したまま。


 夜が明け、太陽がだんだんと登っていっても、止まらなかった。南の大陸の海岸線を横目に、まだまだ南下を続ける。

 不思議なことに、だんだんと海水が低くなり始めた。風も冷たいものに変わっていると思ったら、息も白くなっている。鱗から、血が出そうだ。


 南の果てが、こんなに寒い場所だったなんて知らなかった。ぽつぽつと点在する岩の上にも、雪が載っている。

 寒さは苦手だと言っていたスースのことを思い出す。ざわめく心のまま、それでも進み続けると……。


「スース!」


 真っ白な大陸の目前で、雪の積もる岩の上で、目を閉じたスースが俯せに倒れていた。

 すぐに、岩の上に乗っかった。雪のように冷たいスースの体を、必死に揺する。


「スース! 起きてよ! スース!」


 しばらくして、スースがうっすらと、目を開けた。私の方を認めると、白くなったくちびるを、必死に動かして何か言おうとしている。

 良かった。生きてる。そう安堵したが、それ以上に、怒りの気持ちが、先に口から出た。


「馬鹿! なんで無茶をしたのよ! 別に、交じり合わなくても、良かったのに。あなたと、一緒にお喋りできる、それだけで、私は、」


 幸せだったのに。

 その言葉の代わりに、嗚咽が迸った。


「マリアンヌ……ありがとう……」

「お礼は、ちゃんと元気になってから、言ってよ」


 微かなスースの声に、ボロボロ涙を零しながら、私は彼女を背中に背負い、海に飛び込んだ。

 スースの体を海に付けないように気を付けながら、温かい場所を目指して泳ぐ。


「もう、無理をしなくていいから、ずっと私がそばにいるから」


 そんな言葉を、呪文のように繰り返す。

 見えなくても、スースが笑みをこぼしたのが、聞こえた。





















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海か空か 夢月七海 @yumetuki-773

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