第6話◾︎いなかったんだもの


「そら、早く駒を進めろ」


 アダムはすっかり普段通りの振る舞いに戻っていた。

 にたにたと意地の悪い笑みを浮かべて盤上の展開を自分に都合よく動かす。

 始めこそ善戦していたが、次第に雲行きは怪しくなり、やはり俺が窮地に立たされる。凌ぐために下した一手もどれだけの効果があるか。


 恨みがましい視線を送ると軽く鼻で笑われた。


「お前はポーカーフェイスを学べ」

「真顔だろ」

「目が揺れている。頬の動きも分かりやすい。瞬きの回数だって顔の一つだ」

「アンタ、細かいな」

「神経質が勝利の女神だ。知らなかったか?」


 ニヒルに笑うアダムを見て、溜息を吐き出し……そろりと胸を撫で下ろす。


 ああ本当に、いつも通りすぎるくらい、アダムはいつも通りの振る舞いをしていた。


 アダムの何事も無かったかのような振る舞いは、最早あの出来事が夢だったのではないかとすら思わせた。

 けれどあの生ぬるい人肌をハッキリと思い出して首を振る。あれは確かに現実だった。粟立つ肌が恐怖を明瞭に記憶している。


 恐怖。


「……どうした?」

「……いえ。何も」


 盗み見るようにアダムの顔を見つめ、視線が合う。柔らかく微笑んだ顔に罪悪感を覚えて目を逸らす。


 女のアダムが怖かった。どうしようもなく。


 例え主人だとしても恐れ拒んでしまうほど、言葉の意味すら分からないところまで取り乱すほど。


 生来女が怖かった。それは認める。けれど、相手はアダムだ。ああまで恐れる必要は無かったはずだ。

 頭で考えると一笑に付してしまう。何を恐れる必要がある。

 けれど恐怖を忘れるのはそんなに簡単なものでは無い。感覚や本能が恐れるのだ。


 自分と異なる体の上に、自分と同じ顔が置かれている。存在しないはずのものが存在している。

 体が同じであれば、或いは顔が異なれば、ああも怯えることは無かったはずだ。

 けれどもどこまでも俺とアダムの体は異なり、どこまでも俺とアダムの顔は似ていた。

 有り得たかもしれないもう一つの自分の未来を幻視し、今ある自分を否定されたような心地で恐怖を抱いた。


 今のアダムは男を装い、俺の飼い主に戻った。

 いつものアダムだ。恐れるものは無い。長く息を吐き出す。漸く指先に体温が戻ってきた。


「アンタはチェスを誰から教わったんだ?」


 あの後から、初めて俺から声をかけた。

 アダムは僅かに目を丸くさせた後「誰だったか」と顎をさすった。


 質問にあまり意味は無い。

 早くいつもの調子に戻りたかった。適当に質問してはいなされて、軽口を叩いて、たまに躾られ、反抗する。身に纒わり付いた恐怖を捨て、ただの使用人に、ただの犬に戻りたかった。

 目の前のアダムに怯える俺など必要無かった。


 アダムはうーんと考えながら、再び煙草に火をつける。伏せられた睫毛が俺よりも長いのだと知る。


「父親もチェスは嗜むが……あの人から教わったわけではないな……。であるならサーシャか? いや。彼女はルールを知らないな。うん……?」


 かくりと首を傾けてアダムは長考し始める。チェスの時ですらこんなに悩まないくせに。


 暫く何人かの名前を呟いた後にアダムは「ああ!」となにやら思い出したような声を上げた。


「ロナーだ! ニックの!」

「ニックの親父さん?」

「そうだ、ニックの怖い父親だ」


 カカ、と笑ってアダムは紫煙を吐き出した。


「あの人は強い。うん。ニックがチェスを教わらなかったのが惜しいくらいだ。あの人の血を継ぐなら強くなるだろうに」


 アダムはその時心底口惜しそうな表情を浮かべた。

 俺は素直に賞賛するアダムを珍しいと思いながらその横顔を眺めた。瞳がキラキラと光っていて眩い。


 そりゃねぇだろ。


 何に対してそう思ったのかはハッキリと分からない。けれど懇願するような気持ちで、そりゃねぇだろ、と心底思った。


 案の定負けた俺はじっと盤上を眺め、そしてチェスの駒を片付ける真白い指先を見た。


 そりゃあねぇだろ、飼い主サマ。


「なァ」

「ん?」


 片付けるアダムの手の甲に指先でアルファベットの羅列を綴る。

 何を書いたのか伝わったらしく、アダムは目を細めて笑った。


「ああ。間違いないな。……そら、褒美だ」


 いつかのように煙を顔に吹きかけられ、口をガバリと開ける。煙を咀嚼したって味はしない。当然腹も膨れない。


「それ寄越せよ」

「吸えるのか?」

「ナメんな」


 アダムは薄く笑って煙草を一本指先で弾いた。受け取り、口に咥えて火を求める。


「シガーキスでも?」

「なにそれ」

「こうやるんだ」


 アダムはゆっくりと顔を近づけてタバコの先を擦り合わせた。前髪が頬を掠める。火は中々つかない。瞳が近い。

 ジ、と焼ける音を立てて火が灯る。

 煙が上る。


「……不味い」

「ガキだな」


 くしゃっと笑った顔に眉を寄せる。

 ……その余裕綽々なお綺麗な面をぐちゃぐちゃにしてやる。

 そう思ったのは脅かされたが故かもしれない。


 一度でいい。

 アダムに勝ちたかった。


 恐怖を上塗りするように紫煙が周りに揺蕩う。

 ああ、不味いなぁと思いながら苦味を貪る。


 反骨心上等な犬なので。

 一度でいいから勝利の美酒というものを味わってみたかった。


「な、お前の親父さんってチェス強いのか」

「ア?」


 ブラシから顔を上げたニックは怪訝な顔を見せた。額にじんわりと汗が滲んでいる。それを腕で拭うとニックは得心がいったように頷いた。


「旦那様だろ、それ言ったの」

「……まぁ、そうだな」

「旦那様は親父を尊敬しすぎなんだよ〜ッ!」


 ぐわっとニックが大きく口を開けて叫ぶ。

 ついでに「ヘボいくせに見栄はんな!」「暴力ハゲ親父!」「息子を大事にしろーッ!」と続けて叫ぶ。最早、主張がズレていた。

 今日はニックの父親は外へ出ていて、俺らが掃除しているのは離れの部屋だったから、そりゃあもう全力の叫び声だった。


「叫んでも腹減るだけだろ」

「ん。腹減った」


 ケロッとした顔でニックは「飯まだかな」とぼやく。切り替えの早いところがコイツの良いところだった。


 俺は窓を拭きながら「親父さん、チェス下手なのか?」と尋ねる。ニックが頷く。


「親父はさ、本人の腕前はマジでヘボだぜ」

「そうなのか?」

「マジマジ。旦那様に何連敗してるか……」

「ふぅん」


 ニックはガシガシとブラシで床を磨きながら「でもよぅ」と続けた。


「教えるのに関しては、上手いぜ」


 ニックはじっと床の汚れを睨みながら「あれで飯食えばいいのにな」と笑った。晴れた青空のような笑顔だった。


 ……なんやかんやで、ニックは親父のことを尊敬しているのだ。


 素直じゃねぇよなぁと思いながら、口には出さずに窓を磨く。


「今度さ、お前の親父さんに会えねぇか」

「なに、結婚の申し込み? 俺、男は趣味じゃねぇわ」

「違ぇよバカ」


 ニックはくねくねと体をくねらせてふざける。笑いながら否定すると「だよな」とニックも笑った。


「チェス教えてもらいたいんだよ」

「もう知ってんじゃん」

「上手くなりたいんだよ」

「なんで?」

「旦那様を負かしたい」


 ニックは床から顔を上げて、俺を真っ直ぐ見た。眩しげに目を細めて数度瞬きをする。


「……お前って、変に肝が据わってるよな」


 ニックは片眉を寄せて呆れたような顔をした。

 俺はそれにしれっとした顔で「ありがとう」とお礼を言う。褒めてねぇーよ、と間延びした声が返ってきた。


「ま、話はつけといてやるよ」


 ニックはブラシの持ち手に顎を乗せ、のんびり言う。

 俺はもう一度「ありがとう」と頭を下げた。


「いいってことよ、兄弟」


 ニックが握られた拳を宙に浮かせた。それを真似て俺も拳を作る。ニックがガツンと拳を合わせた。

 ニックを見ると、アイツは歯を見せて笑った。


「……なにこれ」

「挨拶」

「ふぅん」


 俺はニックの動きを真似て拳をぶつける。

 ニックは「ヘタクソ」と腹を抱えて笑った。俺もつられて笑う。


 仕方ないだろ。こんな事するのは初めてなんだから。口には出さなかったがそう抗議する。

 仕方ないだろ。あのクソッタレな場所にお前みたいな奴はいなかったんだから。


 跳ねた茶髪が日を反射して、目に痛かった。


 さて、挑戦状を叩きつける気分で、俺はダムにその経緯を話した。ニックの父親から指導を受けるのだと。アンタを負かしてやるのだと。


 旦那様は頬杖をつきながら、溜息を吐き出すように呟く。


「……お前、犬らしくなったなぁ」


 訳が分からない。


「逐一報告するなんて忠犬じゃないか。獲物を仕留めたら見せに来る犬と同じだ」

「……違う。全然違う」


 顔を顰めて首を横に振る。アダムは鈍い反応をするばかりで片眉を上げた。


「俺はアンタに宣戦布告をしてるんだ」

「宣戦布告なぁ」


 にたにたとアダムが口元を緩ませる。

 神経を逆撫でするような笑いに眉を寄せる。


 俺は、アンタのその笑ってばかりいるポーカーフェイスを崩したいのだ。


「旦那様に負けねぇように強くなる。んで、ぶちのめす」

「アハハ! 吠えるなよpuppy!」

「いつまでも子犬扱いしやがって」

「そうだ。お前は俺の犬だからな」


 アダムはくふくふと笑って俺の頭を撫ぜた。


 いつまで俺を犬扱いするのだろう。

 呼び方こそ変だが、アダムはいつも俺を人として扱う。あの寂れた裏通りにいた時よりも、アダムの犬としている方が俺はよっぽど人として生きていた。


 不意に、頭を撫でていたアダムの手が止まる。


「ああそうだ。いい加減呼び方を変えてくれないか。お前には俺の秘密を教えただろう?」


 急に、あの日の事を蒸し返されて息を止める。

 じわじわと手の中が汗で濡れていく。


 俺の反応に、アダムは眦を下げてじっと見つめた。気だるそうな手付きでチェスの駒を置かれ、それで盤上の勝負は決した。


「俺はな、旦那様じゃないんだよ」


 あの恐怖が足元から這って顔を出す。

 それを踏み潰す勢いで「じゃあなんだよ」とぶっきらぼうに返す。


「アンタのこと、なんて呼べばいいんだよ」

「……呼び方か」


 アダムは顎に手を当てて考える素振りを見せた。


「ご主人様か?」

「面白いが趣味じゃない」

「名前か? アダムと?」

「名前は嫌いなんだ」

「じゃあどう呼べばいいんだよ」


 アダムはじっと俺を見つめたままでいた。


「……ダム」


 そうして小さく名前が零れ落ちる。


「お前がディーなら、俺はダムになりたい。これだけ顔が似ているんだ。名前でくらい、兄弟になったっていいだろう?」


 アダムの言葉の意味は分からなかった。分からなかったが、主に「いいだろう」と尋ねられたなら犬の俺は「いい」と肯首するしか無いのだ。


「いいんじゃねぇの」


 それだけを返すとアダム――ダムは一瞬、虚をつかれたような顔をした。まさか頷くとは思わなかった。そんな表情。

 けれど瞬くとダムはいつも通りの顔に戻っている。


「ダム……ダム様。ああ、これならすぐに口に馴染む」


 繰り返し呟いていると、ダムが「ふ、」と吐息で笑った。


「なにも常に呼ばなくていい」

「というと?」

「察しが悪いなHoney。俺と二人の時だけ。その時だけ呼んでもらえれば、それで構わない」

「OK,Darling……ダム様の仰せのままに」

「Goodboy」


 ワンと鳴いてみせると、ダムは上機嫌に頭を撫ぜた。


 あーあ。肩を竦める。

 犬になっちまったなぁ。

 実感が湧いてしまって、しみじみとそう思った。

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